都合のいい幻想

稲荷竜

指定ハンドアウト・成人男性

 あなたは大柄な成人男性で、普段は会社勤めをしている。


 あなたは気付けば真っ白い部屋にいた。


 不意に見覚えのない場所で目覚めたあなたは、まず自分の記憶を探るだろう。


 しかし思い出せた記憶の中に『真っ白い部屋で目覚める』原因となるようなものはいっさいなく、それがますますあなたを混乱させる。


 次にあなたは『ここは、どういう場所なのか』を判断する材料を探し、『部屋の床』に触れていることを思い出すだろう。


 その床はなんとも不思議な材質で、ぐっと押し込むと微妙に凹むような感触がありつつ、体重をかけてもさほど沈みこまない硬さがあった。

 想像できる近似したものは、車のタイヤなどに使われる硬質なゴム、あるいは質の悪い布を重ねに重ねたような……


 とにかく思い切り殴っても拳はさほど痛くないだろうが、衝撃が奇妙に吸収されてしまって、その手応えのなさにストレスが残るような、そういうものだと感じるはずだ。


 立ち上がったあなたが周囲を見回せば、一面が本当に『白い』のだということがわかる。


 床も壁も天井もまったく差異のない純白の素材でできたこの部屋は、各面の境界さえあいまいに見えた。

 遠くを見ていると向こう側がかすんで見える。けれどそれは『距離があるから見えない』というよりは、『一定以上先を見ようとすると視力が急に鈍る』というような、不可思議なぼやけかただった。


 言い知れない不気味さをようやく実感し始めたあなたは、脱出の手段を探すだろう。


 立ち上がって近場の壁に近寄り、それをグッと押し込んでみる。


 だが、やはり壁は例の『衝撃を吸収するような』弾性があった。


 いらだちに任せて殴ってみてもいいかもしれないが、それはさして意味を持たない体力の浪費としかならないだろう。


 床と壁の境界もあいまいな部屋を歩くあなたは、平衡感覚に不安を覚える。


 体を支えるため、そして扉を探すため、壁に手をつきながら歩いていく。しかし扉らしき『切れ込み』は見当たらないし、押し込む壁の感触も相変わらずだ。


 あなたがしばらくそうして歩いていると、不意に目の前に影が現れた。


 唐突な出現だったせいで、あなたはその影を避けきれずにぶつかってしまう。


 すると、ぶつかられた影が「わあ」と悲鳴を挙げて倒れ込んだ。


 あなたがその影に意識を集中すると、そこには尻もちをついた体勢の女の子がいた。


 黒いローファーと、タイツに包まれた細い足首がまず見えた。

 視線を上げていけば古風と思えるほどに長い、これもまた黒いプリーツスカートがあり、さらに上へと視界を動かせば彼女の身につけているものが真っ黒いセーラー服だということがわかるだろう。


 真っ白く細い首があり、綺麗なあごのラインがあって、その上にある顔は倒れ込んだおどろきと、尻もちをついた痛みにしかめられていた。


 あなたはその女の子を見て『綺麗だ』と感じることだろう。


 それはあなたの主観に強烈に訴える『好みの綺麗さ』というよりは、百人がその女の子の容姿を見れば、よほどひねくれた二、三人を除いて全員が『綺麗だ』と評するだろうなという、客観性に依存した審美眼における『綺麗さ』だった。


 容姿というよりも造形と表現したくなるような。

『女の子がかわいい』という俗な感じではなく、高尚な芸術作品にでも行き合った時のような美しさだったのだ。


 女の子は長い髪の上に乗っていた手をどけて、改めて床に手をついて立ち上がる。


 それから、


「……あなたは……」困ったように、考えるように視線を泳がせ、「……あなたも、気付いたらこの部屋にいた人ですか?」


 女の子はたった今ぶつかって尻もちをついていたことなど、まったく気にしていないふうだった。


 それはしかし、転がされたことよりももっと重要なことがあった、という印象なのだ。

 あなたを見る女の子の目には恐れと期待が半々ずつ感じ取れる。

 また、女の子がさりげなくあなたからとっている距離はだいたい二歩分ぐらいで、これは、友好的に対話をするにはギリギリで、仮に━━あなたにそんな意思はないが━━あなたが女の子に危害を加えようとした時、女の子が逃げ出すならばそれもまたギリギリ、というような距離だ。


 友好的な相手か、それとも危険な相手か……


 女の子はあなたをどうカテゴライズしていいか迷っているのだろう。


 女の子が真っ黒い瞳であなたをじっと見ている。


 あなたはその不安そうな目に囚われると、なんだか女の子のことをかわいそうに感じてくる。


 自分もいきなりわけのわからない状況に巻き込まれた被害者で、どうやら目の前の女の子もそうなのだ。

 脅しつける理由もないだろう。


 あなたは友好的に聞こえるよう細心の注意を払って女の子に声をかける。


 すると女の子はようやくホッとしたように、こわばらせていた体の力を抜いて、


「ぼ、僕は『ユウキ』と言います。気付いたらこの部屋にいて、それで……」


 女の子……ユウキが言い淀む気配があった。


 あなたは友好的に続きを促す。


 すると女の子は覚悟を決めたように、こう述べた。


「……たぶん、一週間ほど、出ることができていません」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 ユウキからは以下の情報がもたらされました。


1、自分は都心の高校に通う者で、下校のために校門をくぐったところ、いつのまにかこの部屋にいた。


2、時間を確認できるものは持っていないのでわからない。スクールバッグも気付けばなかった。ただ、体感で一週間ぐらいは経っている気がする。


3、この場所にいるあいだ、空腹は感じない。また、眠気もないし、いくら走っても汗の一つもかかず、疲労もない。


4、その『おそらく一週間』不眠不休で調査をしたところ、この部屋は大きな直方体の内部であり、壁を押し込みながら歩いてはみたが、出口などは見つからなかった。


5、部屋の壁ぞいをぐるりと回るのには、徒歩の速度でまる一日かかった。壁を押し込みながら歩いていたので、『一周する』だけが目的ならばもう少し早いかもしれない。


6、これまで自分以外の人間に遭遇はしておらず、あなたがこの部屋で見た初めての人間だ。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 あなたは落胆するかもしれない。

 なぜなら、ユウキからもたらされた話には、脱出の手がかりがなかったからだ。


「でも、あなたみたいな人がいてくれてよかった。このままずっと一人だったら、どうしようかと思いましたよ」


 ユウキが親しげに微笑むと、あなたは美しいものが気やすく接してくれている事実に緊張と嬉しさを覚えることだろう。


 半ば反射的にあなたが微笑み返せば、ユウキは一瞬だけ視線を逸らし、顔を赤くする。


「え、ええと、頼りにする……と言ってしまったら、変かもしれないけど、とにかく……その、心強いです。が、がんばってこの部屋を脱出しましょうね!」


 勢い込んだ様子が微笑ましく、あなたは同意することだろう。


 さて、あなたとユウキは並んで部屋の散策を続ける。


 だがすでにユウキが一通り回ったこともあり、二人で注意深く壁沿いにめぐっても、目新しい発見はなされなかった。


 ただし進展みたいなものはあった。


 それは、あなたとユウキとが親しくなっていったことだ。


 あなたたちが壁沿いに部屋を調査しながら進んでいく中でしたのは他愛もない会話でしかなかったが、ユウキはその一つ一つに好意的な反応をし、会話一つごとに互いの距離感が縮まっていくたしかな感触があっただろう。


 あなたの側も芸術品のような美しい少女が、少し言葉を交わすたびにどんどん花開くような笑顔を浮かべるのに気をよくし、彼女への親しみはどんどん強くなっていったことだろう。


 会話の中で互いにふと違和感を覚えるようなこともあったのだが、あなたはその違和感についてうまくつかむことができないし、ユウキの側もまた、ちょっと首をかしげたあとで、なにごともなかったかのように会話に戻ってくる。


 そんな会話がふと切れたタイミングで、あなたはふと思いついて問いかける。


 先ほど整理した情報の中になかった要素についてだ。


 部屋の壁沿いになにもないのはわかったが……


『部屋の中心』には、なにがあるのか。また、調査はしていないのか。


 するとユウキは「ああ……」と気まずそうに視線を逸らしてから、


「すいません、報告が漏れて。でも、なんにもなかったんで、わざわざ言うこともないかなって……」


『なにもない』はこの状況なら大きな情報になるかもしれないが、たしかに、わざわざ『なにもない』ことを言う必要性に思い至るのは難しいだろう。


 この美しい少女が表情をかげらせるのに心の痛みさえ覚えるようになっていたあなたは、いくらか彼女をフォローするようなことを述べる。


 ユウキは照れたように「いや、でも僕も悪かったです」と述べてから、


「どうせ他に調査するところもないですし、改めて部屋の中央に二人で行ってみますか?」


 そう、提案する。


 あなたは壁沿いの調査をいちおう完遂しようと提案するかもしれないし、その場ですぐに行動方針を変えるかもしれない。


 だけれど疲労も空腹もないこの部屋においてどのような選択をしようとも大差はなかった。

『わざわざ避ける』という選択がとれるほど、あなたたちの持っている情報は多くない。


 あなたたちはほどなく部屋の中央に向かい……


 そこであっけなく、ぽつんとたたずむ扉を発見することだろう。


「はぁぁぁぁ? ……あ、いや、前に確認した時は、本当になかったんですよ、あんなもの!」


 ユウキが奇妙に必死にそううったえるもので、あなたはその言葉を信じると述べてから、二人して扉に近づいていく。


 それは本当に『扉』そのものだった。

 デザインと色合いのせいで板チョコのようにも見える、開閉用レバーのついた一枚の扉だ。


 裏から見ても表から見てもいっさいデザインが変わらない……表から見て右側にあった開閉用レバーが、裏から見ても右側にあるなど……の違和感はあるのだが、さほど不気味には思えなかった。


 そしてなにより、扉には、視線の高さに合わせて、このような文言の書かれた貼り紙があった。



『ここはあなたたちのための幻想


 永住するなら、あらゆる不調もなく、永遠に生きられる


 扉の先は現実


 戻る理由がありますか』



「……たしかに」


 ユウキがぽつりとこぼしたので、あなたはつい、そちらに視線を向けるだろう。


 するとユウキは「あっ、その……」と言い淀んでから、意を決したようにあなたを見る。


 その目にこもる力はあまりに強く、それから、背筋がぞくりとするような危うさがあった。


「あの、この空間は本当に……空腹もないし、疲れもないし……なんにもないけど、あなたがいる。外の……『現実』は、つらくって、いいことだって、ないし……ここで二人で生きていくのは、幸せなんじゃないかって、思うんです」


 その言葉にうなずけるところがあるのも、事実だろう。


 あなたが少しでも『現実』に思いを馳せれば、そこにはたしかに、たくさんの苦しみがあるのだ。


 その苦しみは金にまつわることだったり、制度にまつわることだったり、あるいは人間関係にまつわることだったりも、するだろう。


 だが、この『幻想』で過ごすならば、自分とこんなにも親しくしてくれている美しい女の子とずっと過ごすことができるのだ。


 もちろん、『現実』には楽しいことだってある。


 ……そもそも、いくら美しく好ましい少女と一緒だといっても、それ以外になにもない場所で過ごし続ける永遠というのは、いかにももてあましそうであった。


 あなたはユウキの提案をやんわりと断り、扉のレバーに手を伸ばそうとするだろう。


 するとユウキが素早くあなたの手首をつかんだ。


 小柄で細い少女の外見からすると異常な力だった。


 あなたがおどろいてユウキの方を見れば、彼女は必死の形相であなたをにらみつけるようにして、


「に、逃がすもんか……! あなたは僕とここで永遠に生きるんだ! そのほうがいいだろう!?」


 なにか、危うい。


 あなたはただの少女を相手に感じるにはあまりにも甚だしい恐怖を覚え、手首をつかむ手を振り払う。


「なっ、力、つよ……!?」


 あっさり振り払われたことが意外だとばかりにユウキは一瞬、呆然とした。


 あなたはそのスキを突いて扉のレバーをつかみ、開き━━



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 あなたは病院のベッドで目覚めた。


 意識が回復すると同時にちょうど見回っていた看護師があなたを発見し、あなたの覚醒は大騒ぎとともに担当医に知れることとなった。


 あなたはどうやら二日ほど眠り続けていたらしく、原因も全く不明ということで、モニタリングされていたようだ。


「たぶん、過労でしょう」


 それ以外に説明のしようがない、という様子で言われた。


 その後いくらかの問診があり、その中であなたは『不思議な真っ白い部屋にいる夢を見たんです』と述べた。

 信じてもらえるとは思わなかったが、医師が『どんな細かいことでも気付いたことはありますか』と問うたので、軽い気持ちでそれを告白することができたのだ。


 すると医師は「ははぁ」とおどろいたように目を丸くし、


「あなたと同時に目覚めた患者さんも、そんなふうにおっしゃっていましたね。こりゃあ面白い」


 その患者についてたずねたところ、さすがに名前は教えてもらえなかった。


 けれど医師は守秘義務については守りつつ、会話の端々に、におわせるように『その患者』の情報を混ぜてくれた。


 それをまとめると━━


 高校生で、下校中に倒れたところを搬送されてきた。


 名前は━━名前は伏せるけれど。


 その人物は、大柄な、男性であった。


 あなたは、なんとなく脳裏に『細身で芸術品のように美しい少女』という情報が浮かんでいたかもしれない。


 だが、違ったようだ。


 あるいは……


 あの、『ユウキ』の奇妙な親しさ。どこか狂気的な視線。そして最後に自分を引き留める時の必死な様子。

 あれはもしや、『ユウキ』からすると、自分もまた彼女のような美しい少女に……


 ……まあ、すべては、夢の中の出来事だ。


 選び取ることのなかった『幻想』の先に、どのような未来があったのかはわからない。


 自分は現実に戻ることに決めて、戻った。


 これは、ただそれだけの、とっくに終わった話なのだ。

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都合のいい幻想 稲荷竜 @Ryu_Inari

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