川上くんは五年生になったら地球は終わると言った

拓郎

第1話

 未来ってのはどうにも難しい。完璧に思い描いた将来設計を歩み続けるなんて実際には不可能だ。なりたい職業になれる人なんてのはごく一部なのだ。

 アイドルやプロ野球選手、パイロット、漫画家――それらが「なりたい」の対象なのは狭き門だからだ。特異な才覚や尋常ならざる努力。そして強運によってもたらされるスペシャルジョブだ。 しかしもっとスケールの小さい話でも「なりたいものになる」ってホントに大変だ。

 たとえばデブの人は別に自分でデブりたいと思ってデブっているわけではないし、昨日新宿にいたウンコを漏らしているおっさんも、何も好き好んでウンコを漏らしているワケではない。まったくいつの世も中々自分の思った通りに物事は進まない。思った通りにいかないからこそ、うまくいった時に僕らは喜ぶし人々はその頑張りや成功した結果を賞賛する。

 あのときもそうだった。もう二十年以上前になる、


 時は一九九六年。崩壊した経済バブルの爪痕が消えつつある頃だった。Windows95の爆発的ヒットを先頭にGDP独走状態だったアメリカのせいで、より対象的に感じたのかもしれない。

 平成大不況の貧困ムードが日本を包み込んでいた。「マジでもうずっと豊かにならないかも」という空気を僕も子どもながらに感じていた。

 親父の帰りが遅い。おかんがパートに出た。発展途上国とか紛争地区からしたらちゃんちゃらおかしいレベルではあるが、少しずつ民衆の生活は貧しくなっていった。

 僕の住む、神戸は一昨年の阪神淡路大震災のダメージから中々抜け出せずにいたし、辛気臭さボルテージもマックスに近かった。 O-157の食中毒祭りや、オウムの残党が近所をふらつくなど、全国レベルのニュースソースが関西の街を次々と襲った。

 僕ら小学2年生のクソガキ連中も、なんとなく日本の薄暗い未来を肌で感じていた。


「未来などない」「ノーフューチャー」


 これが八歳である僕らの口癖だった。当時の僕らはそういった斜に構えたスタンスを崩せず、未来と将来を否定していた。もう何につけてもノーフューチャーだった。親が勉強しろと言えば


「ノーフューチャー」


 先生が静かにしろと言えば


「ノーフューチャー」


 無言で殴られた。暴力はよろしくないが、たしかにアレは殴って言うこと聞かせた方が早かった。


 アホなので年が明けて三学期になっても唱えていた。男子中心に唱え続けた「ノーフューチャー」はもはやクラス一丸のスローガンみたいになっていた。何かにつけて「ノーフューチャー!ノーフューチャー!」とシンガロングした。


 なぜこんなにもパンクで排他的なガキ集団が誕生したのだろう。まだ未来に希望をたっぷりもっていてもいい年齢だ。「冷めてる子ども」とかじゃなくて単純に頭おかしい。でもこれじつは原因があるのだ。発端はクラスが誇る秀才、川上くんの発言だった。


 国語だか学級会の時間だったか忘れてしまったが、「将来の夢」というテーマがあったのだ。その授業中の話だ。

 あなたも小学生低学年のときにやったと思う。進路と言えるほどのリアリティもなく、酔っぱらいのたわ言と同じレベルの「先の話」を子どもたちに語らせる。普通、飛び交うのは「アイドル」「プロ野球選手」「パイロット」みたいなヒーロー的な職業だ。 子どもなんだからプロ野球選手になりたがってもそんな誰も怒らない。今はユーチューバーらしいが、それもまた夢があると思う。しかしその授業で将来の夢を「プロ野球選手」と答える子どもはいなかった。

 当時、地元のヒーローであるイチローさんの奮闘もむなしく野球は子どもたちの票を得なかった。野球の人気がなかったのだろうか。いや、そうではない。むしろ野球人気は現在の比ではなく、不人気どころか、神戸では空前の野球ブームだった。

 地元チームであるオリックスブルーウェーブはシーズンを二連覇し、日本シリーズも制したばかりだった。しかもセ・リーグの覇者はあのスーパースター松井秀喜氏を要する読売ジャイアンツだった。盛り上がらざるを得ない状況だったのだ。

 オリックスのフランチャイズ球場はいつも満員だったし、スター揃いだったオリックスの中に、イチローさんという一際大きな輝きを放つ大スターまでいたのだ。もちろん子ども達も野球の真似事をどんどん始め、プロ野球選手はこの世で最も輝かしい、それこそ夢の職業として神戸の街を引っ張ってくれていた。

 それなのに僕らのクラスは違った。我がクラスは例外だったのだ。というより授業が始まるまではみんなプロ野球選手になりたかった。その「みんなのゆめ」の授業中、というよりスタートダッシュで、すべてがひるがえったのだ。

 忘れもしない。


「みんなのゆめ」の授業を先生がさぁ始めようと言った時だ。クラス最強の秀才である川上くんが、あまりにショッキングなセリフを口にしたのだ。


「先生知らんの?  一九九九年には恐怖の大王が来て地球終わんねんで?」


 衝撃だった。


 あまりの衝撃に心臓が爆発するかと思った。おしっこは漏れた。


 マジか。マジでか。地球おわんのか。99年って後三年やん、俺ら五年生やん。なれへんやん。プロ野球選手なれへんやん。どう考えても短すぎる残りの余生を突きつけられた僕らクソガキ共は絶望し、そして狂った。馬鹿な男子は叫びだし、女子はえづく程に泣き出した。あっという間に教室は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。


 今思うと、川上くんが何故そんなに悟りを開いていたのかが気になるのだが、これをキッカケに彼は一気にスターダムに上り詰めた。「知らないことを知っている」というのはいつだって偉いものだ。

 そもそも僕らには「川上に論理を説かせれば右に出る者はいない」という絶対の信頼があった。何故なら川上くんは若松塾という学習塾にも通っていたし、その上、「Z会」という通信教育も受けていたほどのガリ勉サイボーグだったからだ。そんなZ戦士川上が告げた 「はっきり言ってやろうか。これで地球は終わりだ」 はどうしようもない説得力だったのだ。

「地球終了」の事実はもはや疑いの余地が無いところまできていた。進研ゼミを取っていたけど、しまじろうのマンガを読んでるだけの僕には何も反論できなかった。


 その後も彼は

「どうせ地球は滅びるんだからさ」

「何をやっても今更遅い」

「本に書いてたけど、恐怖の大王アンゴルモアの軍勢はイスラエルの軍隊でも止められないんだぜ」と唱え続けた。


 そして僕らの生きる希望は次々と奪われた。クラス一の秀才川上がこのレベルなのだから、他のやつの知能も知れたものである。ていうかかなりの馬鹿だった。思い返しても「僕の周りのガキって僕含め何でこんな馬鹿だったんだろう」と不思議になる。もうどこもかしこもノーフューチャーだった。


――どうでもいい、11歳で死ぬのだから、人類最後の一人として――


 そんな失われた未来を、僕らはあてもなく生きていた。何の目標も無かった。自らの運命を呪い、来たる終末のデッドラインである一九九九年七月まで、ひたすら時間を貪り続けるしかなかった。

 だが、そんな暗黒の小学二年生の終わりの春休み。僕らを絶望の淵から救い上げたアイテムが誕生する。そう「NINTENDO64」である。


 社会現象とも言える販売実績を誇った家庭用ゲーム機だ。マーケットに革命を起こしたスーパーファミコンの次世代機種であり、二万五千円という天文学的な販売価格を誇る3Dゲーム機である。社名を背負ったその商品名。64というデカいのか小さいのかなんとも言えない数字。変なポリゴンみたいな映像。

 それらは新時代の到来を否応無く感じさせた。このNINTENDO64を、近所の金持ち御曹司が春休みに購入したのだった。

 僕と友達の馬鹿どもはすぐに御曹司の家に行った。御曹司のことは大嫌いだったけど、NINTENDO64のためだったら靴でも舐めれた。


 生のNINTENDO64は衝撃だった。従来のスーパーファミコンとはまるで違う。同じメーカーが製造したものとは思えなかった。変なコントローラーだった。真ん中にスティックがあった。グリグリ回しすぎたら、ブッ壊れるんじゃないかと思った。奥行きを表現したグラフィックに酔いまくった。やりすぎてトイレで吐くやつらまで出てきた。大学生の新歓パーティーのように次々と嘔吐していた。振り返ると「ゲームで酔う感覚」ってこのハードからじゃないだろうか。


 だけど面白かったのだ。もう死ぬほど面白かった。 完全に未来がそこにあった。NINTENDO64はまさに未来の結晶だった。未来を否定し続けた僕らの前に突如未来が現れたのだ。もう未来を失くしたと思っていた少年達はパニックになった。


「ミライアッタ!ナカッタトオモッタケドアッタ!」と片言にならざるを得なかった。


「お前、現段階でこんなゲームが生み出せる人類なら、三年後にはアンゴルモアを撃退する武器も開発しているんじゃないか」


「おいこれ、人類は負けないんじゃないか、いけるんじゃないか」


「そうだそうだ!人類バンザイ!人類バンザイ!」


 御曹司の家で叫びまくった。いい迷惑だった。親御さんが心配そうに見てた。


 僕らの結論は「人類は負けない」だった。

 それにマリオが「アハー!」と言いながら、ヌルヌルジャンプするゲームをやっているうちにどうでもよくなってきた。僕らもマリオに合わせて「アハー!」と言ってマネをする遊びに変わってきた。そのあたりからもうどうでもよくなった。僕らはいつまでもアホの子のようにキャッキャと笑い転げた。まぎれもなく馬鹿なガキだった。ハイスペックなマシンを生み出した人類の技術革新は凄いが、そもそも使う者のレベルが追いついていないという有様だった。人類の敗北だ。


 人類<恐怖の大王≦機械という構図だった。完全に人類は負けていた。機械と大王の一騎打ちになるんだろうなぁと思っていた。

 春休み中「アハー!」と叫んで過ごした僕らにも新学期がやってくる。


 長期の休み中に僕らが出した結論「人類は負けない」という声明は瞬く間にクラス中に広まった。みんなもうノーフューチャーとか言ってなかった。つーかなんかもうみんな三年生になっていた。気付いたら僕もなっていた。


 三年生の教室で僕らは「人類は負けない!」 と大声で騒いだ。今度はこのフレーズを流行らそうと思っていたのだ。すると新しい担任に 「三年生って言ったら学校の中心や。お前らはまだまだ二年生からやり直した方がいいな!」 などとオープニングから屈辱的なことを言われた。


 僕は言い返した。


「あのなオッサン、未来はいくらでも変えれるけど、過去には戻れないんだぜ? ボケが」みたいなニュアンスの言葉を発言した。すると頭が変形するほど殴られた。


 今こうしていてもしみじみと思う。 完璧な未来っていうのはいつも不可能。それでも呼吸は続くし、生きていく。街行く人々の手元にはすべてが見える窓がある。こんな未来は一九九六年の時に思い描いてはいなかった。人類は負けない。未来ってのはどうにも難しいけれど、そんなことは気にしなくていいみたいだ。

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