月に手を伸ばす乙女
お白湯
第1話
「今日は静かな夜ね。」
10月のベランダは少しひんやりとしていて、肌寒かった。
祖母はホットミルクを飲みながら、夜空を見ているようだった。
「冷えますよ。これをどうぞ。」
ブランケットを祖母の肩にかけてあげると
「優しいのね。ありがとう。ところであなたは……、誰だったかしら?」
そう話すのである。
祖母はいつも20歳なのだ。
「大した者ではありませんよ。ただの通りすがりです。」
彼女の中では私はまだ産まれていない。
こう言ってはまるで悪人かのように聞こえるかもしれないが、最近は嘘が得意になったと思う。
「そう。お聞きしたいのだけど、今日は夜空が見える?」
齢20歳にして盲人の彼女はいつも夜になると、月を気にするのだ。
というのも、祖母が祖父からプロポーズを受けた時の夜空には、月が浮かんでいたのだと言う。
その事を月夜には思い出す時がある。
「えぇ、見えますよ。」
「こうね。空に手を伸ばして、月に近づくと掴めそうな気がするのよ。」
祖父が先に旅立って幾年か経つ。
しかし、20歳の彼女の中では祖父は生きている。
「掴めますかね?」
「何かが月にはあるのよ。」
彼女の手は月には届かなかったが、私は月を両手で覆い隠すと、彼女には見えない月をそっと包み込む。
恋する乙女には、決してフィアンセの死を知られてはならないのだ。
「あの月をあなたの代わりに私が取ってきてあげますね。」
見えない彼女と同じように夜空から月を盗んで、私は暗闇を手に入れる。
「今日の月は綺麗かしら?」
彼女が訊ねるのが分かっていたが
「残念ながら、今日は月が出ていないみたいです。」
と、私は得意の嘘を吐いた。
「そう。残念ね。」
彼女は静かに手を下ろした。
幾年かして、祖母も棺桶に収まる日が来た。
私は祖母の掌を自分の両掌で握ると、持っていた月を戻した。
私と祖母は月を掴む。
今度こそ彼女は月に手が届いているのだと私は祈った。
何者からも縛りが無くなった彼女は、自由と愛を持った乙女として、祖父と共に空を旅している事を夢に見た。
その日の夜、月は夜空には見えなかった。
月に手を伸ばす乙女 お白湯 @paitan
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