クレマチスの花は咲いていた

バナセル

 

 古井戸から汲んだ水は、小さなじょうろの口から水滴に変化して落ちていく。それはまるで小雨がやさしく降るかのように、花壇を彩る葉や花を濡らしていく。


 家のドアがあく。夫は目をこすっていた。まだ眠いらしい。

「おはよう、クレア。相変わらず早起きだね」


「あなたが遅いんじゃなくて? ほらみて、クレマチスが咲いたの」


 私は夫のジョセフに、薄紫のクレマチスの花を指でしめす。剪定とか支柱に沿わせるのに苦労したから、育てて最初に咲いたこの花は嬉しかった。



 街はずれの、山に囲まれたまさに寒村といえるこの地に私が訪れて、三年が過ぎようとしている。はじめの半年で村の者と打ち解け、つぎの四半年でジョセフと恋仲になり、そして私たちは結ばれ、家を建てた。つつましくも花壇がある、庭付きの家だ。私は水やりを済ませ家に戻った。


 愛する夫と幸せに暮らす、女――

 村の者たちは、そしてジョセフもそう思っているに違いない。その陰で何が進行していることも知らぬまま。


 私は、ヒト・・ではない。彼らヒトが『マモノ』と呼ぶ、ヒトならざるものだ。いま私が装う、栗色の長髪も白い肌も大きな瞳も、その気になれば一瞬で異形・・に変貌する。こんな姿を晒している訳は、ある計略のため。


 三年前、私は先兵として単独でこの村に潜入した。上官が発案した、われらマモノの陣地をひろげる計画。時間をたっぷりとかけてヒトに偽装した同胞を送り込み、最後は村を乗っ取る。試金石となるこの計画が成功すれば、今度は小さな街、それから大きな城下、そして王国へと規模を拡大していく。工程は順調に進んでいる。ヒトはマモノの敵。すべては、同胞の繁栄のためだ――

 ――私はそう自分に、きょうも言い聞かせている。



「ごちそうさま。美味しかったよ」

 朝食を食べ終えたジョセフが私に笑みをむけている。私はその無垢な笑顔に、自分の立場をふと忘れてしまう。


 私は偽りを貫くつもりでいた。朝も、夜だって。でもこのヒトは、そんなことなんか知らなくて、ただ純粋で、やさしくて素直で。私の偽る心を解きほぐしてしまった。

 このヒトを、私は愛している。それだけはしたくなかったのに、いまこのときが心地よかった。そして同時に不安に駆られた。もし彼が私の本当のすがたを、頭の角や赤い瞳、黒皮の翼を見たら、どんな顔をするのだろうと。

 計画は一〇年を越えるものだ。願わくは、そのときが来るまえに、彼と添い遂げられることを……。




 陽が落ちかけた村の、山のふもと。ひと気もなく夜の闇に覆われた場所。そこに私は呼ばれた。『同胞と会え』という知らせが上官から届いたのだ。急なことで珍しい。

 闇にまぎれて音もなく現れたのは、偽りのない姿をさらした伝令兵だった。


「ボア様から重大な報告とそして指令があり、このたびお伝えします」

 ボア様とは私の上官のことだ。伝令兵は続けた。ちなみに、私の本当の名はクレアではなく、ウラという。


「『計画を大きく変更する。四日後の早朝、わが隊が村を強襲し奪取することに決めた。同胞の陣地化を早期に目指す。ウラは明日にいちど帰還、ヒト村民討伐部隊に加われ』、です」


 黄昏れの空気が、より冷えて感じられた。失いかけた言葉を引き出すと、罵声に近かった。

「どういうことだ……! ボア様は乱心あそばされたのか!? おい説明しろ!」


 にじり寄った私に、伝令兵は後ずさりしつつ、答えた。

「……お、おそらくウラ様、上層部がボア様の計画に疑問を呈したのが発端かと。上は近ごろ陣地拡大に否定的になりました。メリットを感じないとか……ですのでボア様は、計画を大幅に早めたかと」


 私はこわばっていた身体から、力が抜けていくのを感じた。

 ……あまりに乱暴すぎる。綿密な計画をかなぐり捨てて、上官は目先の利を得ようとしているのだ。

 そして――あまりに、早すぎる。


 だが私の感傷は、耳に届いた大声にかき消された。


「わっ! マモノだ! マモノがいるぞ!」


 私と伝令兵は振りかえる。声が聞こえたさきに、山から下りてきたのだろう、松明を持った村の男四人が私たちの姿を見つけていた。

 伝令兵は闇の中に消え、動転していた私は松明の光から走って逃れた。しかし、あとになって気づいた。いまの私は『ヒトの姿』でいたことを。



 村にはすぐさま噂が広がった。『三年前、村に来たクレアという女は、マモノではないか』という噂が。

 あのとき、松明も暗がりには勝てず、村人はあのふもとにいた人物が私だったかをはっきり見ていなかったそうだ。それでも、村にマモノが隠れていることは確実で、私に対する周りの視線が鋭くなったとわかった。


 明日、ここをつ。そうしてこの村のヒトは皆殺しにされる。ジョセフも一緒に……。




「ごめんなさい。もうあなたとはいられない」

 私はジョセフに告げた。理由を言わずに。


 彼は食い下がるように私に言う。

「クレア、まってくれ。噂なんて気にするな。僕は何があっても君のそばにいる。この村を去っても良い。だから」


「あなた。……噂は本当なの」

 ジョセフは固まったように口をかすかにあける。私は言う。


「私はマモノ。本当の名前はクレアじゃなくて、ウラ。だからヒトとは一緒にいられない。……さよなら」


 私はきびすを返す。慣れ親しんでしまった家から出ようとする。

 そのとき。

「僕は、待つよ! また君に会うまで」



 彼の言葉を背にして。私は村を去った。

 クレマチスは、今日も咲いていた。




 青水晶でできた部屋に。私は招かれた。帰還後すぐだ。

 上官、ボアは、その焦りを隠しきれずも表情を繕っている。

「ご苦労だったウラ。もうじきあの村を同胞の地にできる。討伐に励んでくれ」


「ボア様。……それは許しません」


 私は黒い翼をいちどはためかす。尾の先をふるわせ、牙をみせ、力をたぎらせる。

 すべてはこいつを殺すため。


 上官の脇にいた護衛が構えをとるなか、それを上官は制止した。

「ほう、情でも移ったか? 俺を殺せたとて、相討ちだぞ」


「構いませんよ。本望です」




 村のとある家には、小さな庭がある。

 それを窓から眺める。男がひとり。

 皺が刻んだ手のさきにある。

 クレマチスの花は今年も咲いていた。

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