重力を振り切って

きょんきょん

重力を振り切って

 コポ、コポ、出が悪いお湯を吐き出す電気ポットから、急須へ注ぎ入れる。

 我が家は決まって三煎茶、三回まで茶葉を使うのが鉄の掟。

 本当はその都度新しい茶葉に取り替えたほうが美味しいに決まっているけれど、節約の為には切り詰められるところは切り詰めないと、そうカグヤは割り切っていた。


 旨味も香りも飛んでしまったお茶は、若葉色の絵の具を垂らした液体とさほど変わりはしない。あくまでお茶の気分を味わってるだけ。一口すすって、湯気の中に溜め息にも似た独り言を洩らす


「たまには帰省してみたいわねぇ……」


 ちらと、視線を正面に向ける。正面には視線を遮るように広げられている新聞紙、まるで二人を分かつ壁みたい。日がな一日、飽きもせずに隅から隅まで穴が開くほど読み耽っている旦那に私の声が届いているはずもなく、誰にも聞き取ってもらえない呟きは行く先をなくして宙に溶けて消えていった。


 テレビに目を向けると、これで何度目かわからない都知事のぶっきらぼうな顔がアップで映し出されていた。カメラのフラッシュが次々にたかれ、瞼の裏がチカチカと明滅を繰り返しするものだから眩しいったらありゃしない。


 都知事も、リポーターも、カメラマンも、国民も、内心〈またか〉と諦念の気持ちを抱いたに違いない。二年以上続く緊急事態宣言は日々の暮らしを一変させたし、社会を停滞させるには十分すぎる打撃を与えた。社会なんて漠然としたものが停滞するくらいなんだから、夫婦関係が変わらない道理もない。我が家みたいに。


 湿気った煎餅をかじりながら、乾燥した心をお茶でふやかす。

 新聞越しに旦那を睨みつけども、当の本人はまるで意に返さず。ただじっと記事を眺めていた。

 緊急事態宣言の余波を受けて、半年前に早期退職という名のリストラ対象に選ばれた旦那が、わざとらしく耳障りな音を立てながらお茶をすすると、珍しく向こうから話しかけてきた。


「なあ、母さん」

「なんですか」


 普段は「メシ」「フロ」「シンブン」の三単語しか話さない旦那。我が家の旧式のルンバよりも役に立たない影も頭も薄い旦那が、読んでいた新聞を几帳面に折り畳んでから、わざとらしく咳払いを一つする。その無意味さに苛立つ私。


「あー」だとか「うー」だとか煮えきらない態度でそわそわしだしたので、どうせまたパチンコだろうと勘ぐる。

 財布にどれだけお札が入っていたか旧式の頭で計算をしたみたけれど、数える必要がないほど少ない事実に肩を落とす。

 そのパチンコ玉に消えるお金があれば、私だって美容院に気兼ねなく白髪染めにだって通えるのに、それに美味しいものだって食べれるのに……。


 もう一枚煎餅に手を伸ばして勢いよく齧り付く。イライラも一緒に噛み砕いと飲み干す。老後をなんの不自由もなく暮らしているお隣さんが羨ましい限りだ。

 返事をするのも煩わしく黙ってテレビに視線を移すと、いつの間にか芸能人のスキャンダルでスタジオは大いに盛り上がっていた。


「あのなあ、母さん」

「さっきからなによもう……またパチンコ? 悪いけど今月はもうお小遣いなんてあげられませんからね」


 ムスッとしたまま煙草に手を伸ばしかけたので、黙ってキッキンの換気扇を指差す。私の命令に黙って従いノロノロと煙草とライターを持って歩いていく後ろ姿は、哀しくなるほど小さかった。遥か昔の溌剌とした背中はもうどこにも見当たらない。

 なんでこの人と一緒に暮らしているのかしら、と自然と考えることが近頃増えている気がする。開きっぱなしの栓から絶えず洩れる溜め息をつく度に、私の中の大事なナニカかが磨り減っていくような気がしてならなかった。


 遠い過去を思い出すと視線は宙を彷徨い、テーブルの上に折畳まれた新聞紙の紙面に墜落する。

『月面への定期便ロケット就航開始――』

 各国が世界中で猛威を奮う新型ウイルスと、止まらぬ環境汚染から逃れるように宇宙空間に開発の手を伸ばす時代に突入したのは最近の話。


 とうとう民間人までもが当たり前のように月面に滞在出来るようになったことには素直に驚く。喧騒とは無縁だった月面がいつか地球と同じように侵食されていく様を想像すると、少々思うところもある。

 私が子供の頃には想像もできなかった技術の進歩、まさに日進月歩、月の兎よりも歩みが早い。


 ――そうはいっても、我が家に関係はないんだけどね。


 また溜め息が漏れる。いくら宇宙が多少は身近になったとはいえ、毎朝一円でも安い食料品をチラシで血眼になって探している私みたいな庶民には関わりがなく、その記事にしたって鍋敷きの代用品程度の価値にしかならないのだから、人類がどんどん地球から遠ざかっていったとしても私の行動範囲といったらせいぜい決まりきった買い物コースくらい。とてもじゃないけど地球から飛び出すことなんて出来やしなかった。


「母さん、話がある」

「だから……さっきからなんなのよ。ハッキリ言いなさい、ハッキリと」


 まるで幼子を躾けるように伝えると、口をモゴモゴさせながら言い淀んだ。


「ああ、そうだな、うん」


 次の言葉を探している様子に、昔はこんな人じゃなかったのに――と時の流れの残酷さを突きつけられる。こんな私でも昔はそれなりに男性からモテていたし、何人もの素敵な男性に求婚されて困ったりしたものだけど、結果的に周囲の猛反対を押し切る形で右も左も分からない私の手を取った今の旦那を選んで駆け落ちをしたとは、若かりし頃の無謀さが今となっては到底信じられない。

 

 蛮勇も蛮勇、無知も無知、恋は盲目とはいうけれど、行為の代償も考えず、家族も故郷も棄てることになってそれでも私にとってはこの人しかいないと思っていた甘ちゃんの頃の私に言ってやりたい――人間なんて時間が経てば変わってしまうということを。


 あの時、素直に故郷へ帰る選択肢もあった。だけど私は拒んだ。今更どんな顔して故郷に帰ればいいかもわからないし、そもそも帰る手段も無いのだから、この地で残りの余生を過ごして後は静かに土に還るのを待つだけだと思っていた。


 冷めたお茶をすするのと、旦那が口を開いたのは同時のタイミングだった。


「その、月に帰りたくないか?」

「……は?」

「だから、月に帰りたくないのかと聞いてるんだ」


 ぽかんと間抜けな面を晒していた私に、勉強を理解しない子供に教え諭すように話す。 藪から棒すぎて、頭が理解することを拒んでいた。


「月って……なんの冗談? あなたそんな下手な冗談を言うような人間じゃないでしょ」


 気が長くなるほどの時間を仕事に生きて、人の気持ちなんてこれっぽっちも斟酌しないで、冗談とは縁もゆかりもないつまらない人だったはず。


「やっとだ、やっと月に帰れる手段を手に入れたんだ」

「あのね、笑えない冗談ならやめて。うちには海外旅行に行くほどの貯蓄もないのよ? それをあなた、月に帰るだなんて」


 そう言いながら記事に目を落とす。就航したばかりの月への定期便は、安くても数百万円かかる。もしかしかたら、とうとう認知症が発症してしまったのかもしれないと一抹の不安を抱きながら、それでも待ってくれない夕飯の準備をしなくてはと立ち上がろうとしたその時だった。

 待ったをかけるように話を続ける。


「実はさ、数年前に独立した同僚が立ち上げた会社が、近いうちに月面に進出を計画しているんだ。まだまだ手垢がついてないうちに他社より早く月面に営業拠点を構えたいらしいんだが、物件は決めたもののいかんせん人手が足りなくて困ってるらしい」


 まるで借りてきた言葉のようにすらすらと語る旦那の言葉を背中で聞き流しながら、どこかいい病院はなかったかしら、とご近所さんのお勧めの病院を思い出している間も話は続く。

 

「そいつとは退職したあともやり取りしててさ、ほら、毎年律儀に凝った年賀状送ってくる奴がいるだろ?」 

「ああ……あの人ね」


 包丁を取り出して、野菜を切りながら旦那が話している人の顔を思い浮かべる。我が家に届く数少ない年賀状の中に、毎年欠かさず届いていた年賀状の宛名を思い出した。


「そいつは俺がリストラされた事を知ると、『それならウチに来ないか』って提案してくれたんだ。リストラの憂き目にあったオヤジをだぞ? さすがに返事に迷っていると、その月面の営業拠点に行ってほしいと頭を下げられたんだよ。それが決め手で承諾したんだ」

「それって……まさか月面で暮らすっていうの? あなたが?」


 驚きのあまり包丁が止まり、振り向いて振り返ると旦那は真面目な顔で答える。


「ちがう。お前もだ」


 とりあえず料理の手を止めて旦那が口にする与太話、ほら話を聞くことにした。

 どうも私には劇場型詐欺に巻き込まれた人間の戯言にしか思えず、この頃宇宙ビジネスを謳った詐欺を働く集団が増えてることを伝えると、笑いながら「そんなことはない」と軽く否定した。

 そのお友達の会社のホームページも見させてもらったけれど、至ってまともな会社のようで素人目からは問題はなさそうにみえたし、それ以上追及する材料もない私は腕を組んで唸る。


「ま、まあ、一先ずそういう話があったというのはわかったけれど……それなら私になんの相談もなしに決めるなんておかしいと思わない? そんな大事な話を一人で決めるなんて……少しは私の事も考えてよ。一体何年一緒に暮らしてきたと思ってるのよ」


 それからしばらくは、普段の鬱憤が洩れる洩れる。自分でも驚くほどに。

 この際とばかりに溢れた感情はせきを切ったように口から飛び出して、溜まりに溜まっていた澱みを千年分吐き出し終えるとキョトンとした顔で旦那は答えた。


「何年って、千年だろ?」


 私が抱えていた不満なんてこれっぽっちも知らない様子で、あっさりと、真面目くさった顔で、当たり前だろう、と答えた。


「時が経つのは早いもんだよなぁ。千年前、お前を連れ帰ろうとする月の使者から命からがら逃げ延びて、いつまでも共に生きようと誓って互いに不死の薬を飲んだのがちょうど千年前じゃないか」


 昔を懐かしむように話す旦那を見ていると、なんだか途端に馬鹿らしくなった。

吐き出すものを吐き出しきったせいか、強張っていた体から力が抜けていくのがわかった。

 こっちはとっくに忘れられているものだと思っていたのに。


 ――なんだ、覚えていたのね。


 二人の愛はいつまでも続くと思っていた千年前。不死という言葉を信じて飲んだ薬。 あれから千年経って、不死というほど効果はないことを最近になって知った。人の一生にしては永遠の長さ、だけど真の永遠には程遠く、もう体の至るところはボロボロで健康なところのほうが少ないくらいだった。


「これまで月に帰る機会なんてなかったからな、お前が満月の夜には必ず夜空を見上げていたことは昔から気づいていたから、なんとか生きている間に月に帰らせてやりたかったんだ。そしたら例の話が舞い込んできて、『月に行けるならなんでもしてやるぞ』って気概で決めたんだ」

「あなた……私の気持ちに気づいてたの?」


 なんというか、旦那にたいして呆れににも似た笑いがこみ上げて、つい吹き出して笑ってしまった。久しぶりに心から笑った気がする。そう、千年ぶりに。


 どうやらどれだけ年老いても旦那は私の手を引っ張る気まんまんのようで、それに安心した私はあの日の覚悟を思い出した。にしても、まさか月まで引っ張られるとはね。地球の重力を振り切ってしまう勝手さには畏れ入る。


「そろそろ逃げたことも時効を迎えてるだろうし、これを機に結婚の挨拶にでも行かないか」


 差し出された手を取って私は答える。


「ふふ、そうね。あの頃みたいに逃げっぱなしの人生は癪だものね」


 旦那の手は枯れ木のように細くなっていた。けれど熱い温もりを感じた。

 向こうで、もし小言でも言われたらこう言おう。


「この人にも一つくらいは良いところもあるんですよ」ってね。

 

 



 

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重力を振り切って きょんきょん @kyosuke11920212

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