カラーレス・ラヴァーズ

羽生零

クリスマス・イブ

 目を覚ましてベッドから起き出すと、冷えた空気が服越しに肌を刺した。寒くなると分かっていて昨日着た起毛のパジャマも、この冬一番の寒さには勝てなかったらしい。椅子の背もたれに、雑にかけられていた綿入りのどてらを羽織って部屋から出ると、そこにはキッチンがある。2K、風呂トイレ別。人が聞けば手狭と思われる、賃貸マンションの一室。個人的には狭さより利便性が勝る。掃除が楽で、目的のものにすぐ手が届く狭さは存外心地良いものだ。

 リビングを兼ねたキッチンには、ローテーブルや座椅子、テレビといった家具から、食器棚、冷蔵庫に調理用品を積んだラックといったキッチン家具が置かれており、自室より狭く感じる。壁掛けのデジタル時計に目をやってから、テレビを点けて素早く音量を絞る。同居人が起きる時間には、まだ三十分ほどある。といっても、目覚まし時計が二つ同時に鳴っても起きない同居人の部屋は、キッチン横にある私の部屋よりも離れている。普通の音量で流しても起きてくることは無いだろうが。

 小声で流れ出す朝のニュースを耳に入れながら、冷蔵庫の野菜室を開けてコーヒー豆を取り出す。それから、テーブル上に置きっぱなしになっているコーヒーメーカーに豆を入れて、スイッチを入れる。

 コーヒーが入るまでの時間、テレビに目を向ける。天気予報が始まっていた。

「天気は全国的に、昼から夕方にかけて下り坂になるでしょう。特に山陰、北陸、東北、そして北海道では暴風雪となる恐れがあります――」

 今日は寒くなる。いまから日が昇るというのに、気温は何故か下がっていくらしい。この辺りも、もしかしたら積もるほどに雪が降るかもしれない。

 都市圏では嫌われがちな大雪。だというのに、天気予報士の声は、空模様に反して明るい。ウィンタースポーツの関係者と愛好家以外は嫌いそうなものだが、今日明日ばかりは歓迎ムードの世の中だ。

 十二月の二十四日。クリスマス・イブ。

 ホワイトクリスマスが楽しみな人にとっては、待望の雪だろう。クリスマスが嫌いな人にとっては、より陰鬱な気持ちになるものかもしれないが。

 同居人はどうだろうか。去年は雪がさして降らなくて、そんな話はしなかった気がする。今年はそれを知ることができる。それは儲けものだと思うが、幸せオーラに包れる時節だというのに仕事が忙しいので、そんなことを気にかける余裕も無いかもしれない。

 寝起きのぼんやりとした心地のまま、そんなことをつらつら考えていると、カタカタと音が鳴った。コーヒーメーカーの音ではなく、外から聞こえてくる。耳を澄ませるまでもなく、びょうびょう、ざあざあと音がする。強風と、それに打たれる並木の音だった。

 窓際に立ってカーテンを引き、外を見る。結露を拭って外を見ると、まだ薄暗い空に流れる雲が見えた。灰色の、厚い雲が集まってきている。この辺りでは、予報より早く雪が降りそうだった。



 AM6:30――。

 雪が降り始めた。雪の朝というと静かな朝のように思えるが、このマンションはすぐ前に幹線道路がある。天気が崩れると、車が道路を埋め尽くす。エンジンや、タイヤが路面を擦る音、ときおり鳴るクラクションのおかげで、いつも以上に静かな朝とはいかない。

 どちらにせよ、二つの目覚まし時計が鳴る音が響くこの家では、朝の静寂とは無縁だ。

 軽快な電子音で鳴るくるみ割り人形のメロディをバックに、古くさいベルの金属音が響く。

 これでも音数は減った方だ。以前は五つ以上も目覚まし時計を置いていた。二人で暮らすようになってから、古くて壊れかけていた三つを捨てた。私という強制起床装置ができたからだ。それでも二個だけ残った目覚まし時計は、同居人の『自分でも何とかします』という一応の意思だ――と思っている。

 ただ、同居人はとても朝に弱い。自力で起きてくることはほとんど無いし、この時間に起き出してくることがあるとすれば、それは夜に一睡もできなかったときだけだ。

 五分ほど待って、騒々しい音の発生源へと向かった。

 起きていないとは分かっているが、マナーとして、ノックしてからドアを開ける。ひときわ大きくなった目覚まし時計の音を聞きながら部屋に入る。部屋は散らかっている。片付けが苦手というより、片付ける時間と気力があまりないタイプなのだ。事実として休日には、床からは洗い物が消え、デスクトップの周囲もきっちりと整理され、コートは椅子の背もたれではなくハンガーラックにかけられることになる。

 さて、当の同居人はというと、ベッドの中で丸まって眉間にしわを寄せている。重い布団が好きだという彼女は、分厚い羽毛布団の下に身を縮こまらせている。肩に手を置いて、軽く揺さぶる。

「マヤ、朝だよ」

 揺さぶりながら声をかけていると、十数秒ほどで目蓋がぴくぴくと震え、ゆっくりと目が開いた。

「おはよう、マヤ」

「……はよ…………」

 掠れた声は目覚まし時計の音に負けてしまっている。まだ半分は夢の中だろう。でも、あと十分もすれば起きてくる。目覚まし時計を止めて部屋を出た。

 同居人、マヤ――麻野翡翠あさの ひすい。マヤは愛称――というより、ネット上での名前だった。

 マヤと出会ったのは、インターネットのゲーム上だった。マヤ、という名前は、つまりネットゲームにおけるアバター、自分のキャラクターに付けられた名前だ。とあるゲームを始めたころ、偶然出会い、よく組むようになった。組む、とはいっても、その当時は五、六人のチームだったので、マヤ以外にも時間を共にする人はいたのだが。マヤ以外のチームメンバーと、リアルでの面識は無かった。

 マヤと出会ったのは、いわゆるオフ会での場だ。パーティ内での企画ではなく、ゲーム全体でのイベントとしてのものだった。集まったプレイヤーは性別年齢どころか人種すら様々な者だったが、それなりの確率で、ゲームと現実とは言動が別物だった。そんな中で、マヤは――

「おはよー、ショウ。コーヒー入ってる?」

 昔を思い出していると、マヤが起き出してきた。今日は、いつもより起きるのが早いかもしれない。

「早いね、マヤ」

「昨日早く寝たからねー、ひっさしぶりに残業せず帰れてマジ快眠だわ」

「それは何より。まあそれはそれとして、早く起きたならそのぶん、支度する時間があるんだ。要は……服はちゃん着てから起きて来たらどうかな」

 マヤは半裸だった。ズボンを穿いていない。上は、シャツに私と揃いのどてらを着ているものの、この気温でよくそんな恰好ができるものだと、呆れと感心が同時に湧いてくる。

「そんな恰好だと、風邪を引くよ」

「へーきへーき、オレ頑丈だし。あ、コーヒーもらうよ」

 マグカップを食器棚から出すと、マヤは注いだコーヒーをブラックのまま飲む。熱々のブラックを飲む姿をみるたび、自分にはできない芸当だと思う。元々、紅茶党でコーヒーはあまり飲んだことが無かった。こうして常飲するようになったのは、マヤがコーヒー派だからだ。もっとも、マヤの方も味を好むというよりかは、カフェインの方を必要としているきらいはあった。

 マヤの仕事は、ある調査会社の事務員だ。ビッグデータからマクロデータまで、ひっきりなしに出入りする数字と、そしてそれを利用する利用者と、マヤは日々格闘している。社員としてマヤは優秀な方らしいが、それを支える仕事への集中力を確保するために、コーヒーはマストアイテムなのだという。

 カップの半分ほどを干すと、マヤはカップ片手に一度部屋に戻っていった。私も一度、部屋に戻ってスマートフォンを持ち出し、操作をしながらリビングへとんぼ返りする。カーテンを引く。曇天の空から、羽毛のように丸く太い雪が降る。雪は徐々に強まる傾向にあるようだ。スマートフォンの画面に張った、天気予報のウィジェットも今日一日はずっと雪だと告げている。天気予報は外れない――むしろ、予報より酷くなりそうな空模様だ。

 しばらく空を見上げ、道路を眺めていると、マヤがリビングに戻ってきた。背後からはしゃいだ声が上がる。

「すっご、超雪じゃん」

「うん。自転車は走れないだろうし、電車も混むだろうね。どうする? 私が送ろうか」

「あー、じゃあ今日はお願いしよっかな」

 すっかり飲み干したカップを置くと、マヤはリビングに置かれているドレッサーに向かった。自分の部屋ではなくリビングにドレッサーが置かれているのは、テレビを見ながら化粧をするためだ。見る、といっても鏡を見ているのだから内容に目を向けているわけではない。ただ耳や目に刺激がないと物足りない性分なだけなのだ。

 聞き流しのラジオ代わりにテレビの音声を受けながら、マヤは化粧を始める。それを見て、時計に目を移す。いつもよりかなり余裕がある。これならしっかり朝食を食べても問題ないだろう、とキッチンに立ち、フライパンを手に取った。



 AM8:00――。

「行ってきまーす!」

 元気よくマヤがサイドカーから飛び出していく。車のように壁も屋根もない吹きさらしだというのに、コートと手袋だけで寒さをはね除けている。方や、こっちはコートに手袋、耳当て、マフラーに付け加えてカイロのおまけ付きだというのに、すっかり体が冷えてしまった。

 天を仰ぐ。呼気に霞む曇り空から、大粒の雪が降り注いでくる。白と灰色のまだら模様の空は、狭い。道沿いにビル群が並ぶ、オフィス街の街並みのただ中にマヤが務める会社はあった。分厚いコートを纏った男女が忙しなく道を行き交っている。寒さのせいか、誰もが肩と首を竦め、背を丸めているその姿は、クリスマス・イブだというのに少し陰鬱に見える。それと比較してみれば――いや、比較するまでも無いかもしれないが、マヤは元気だ。そういうところが魅力なのだと私としては思うのだが、話を聞く限り、マヤをよく思わない者もいて、苦労させられたこともよくあったらしい。そう思うと、この摩天楼が少し憎らしくもなる。

 もっとも、私とは、マヤという接点を除けば縁もゆかりもない場所だ。憤って直接あれこれと手を出すものでもない。

 私がマヤにしてやれることは、会社や社会や国に文句を付けることではい。パートナーとして愛して支えることと、ただそれだけだ。

 バイクのハンドルを握り、ウィンカーを点け、アクセルを踏み込む。路肩から道路へと走り出した車上で、さてどこへ向かうかと思いを巡らせる。家に帰っても良いが、せっかくの雪だ。いつもはモーニングタイムで人の入りがあるだろう喫茶店も、今日は空いているだろう。



 行きつけの喫茶店は、オフィス街の一角にあるビルの、半地下にある。最近になって口コミで人気が広まったのか、席が埋まっていることが多かったのだが、今日は空いていた。店の隅の、テーブル一つに椅子二つの席に着くと、顔馴染みのウェイターにモーニングのセットを頼む。

「雪、どうです?」

 ウェイターに尋ねられる。大雪だと伝えれば、彼は眉根を下げた。聞けば、天気予報も見ずに自転車で出勤したそうだ。

「先生、今日バイクですか? 昼になったら家まで送ってくださいよ」

「大雪とは言うけれど、路面には積もっていないよ」

「いやそれが、この前マンホールの上で滑ってこけたんですよ。あれがもう痛くて」

 雪で濡れたマンホールは確かに滑りやすい。場合によっては凍結している。とはいえ、サイドカーはマヤの指定席だ。申し訳ないがと前置きをして、自転車で気を付けて帰るように言う。ウェイターはうなだれたものの、素直に頷いて、注文をホールに伝えに行った。

 ややあって、運ばれてきたモーニングセットで朝食を取ると、紅茶のカップを残してトレイを返却口に戻し、仕事に入る。膝の上に乗せていたバッグからノートパソコンを出してテーブル上に置き、電源を入れる。この店の良いところとして、コーヒーか紅茶を一度頼むと、百円でおかわりができることだ。店長の趣味らしい、店内に流れるアンビエント系の音楽と相まって、長居するに快適な場所だった。

 仕事は、はかどる。それは果たして良いことなのだろうかと、ふと思うこともある。

 画面上にあるのは、シンプルだが多機能なエディタソフト。そこに書き連ねられているのは、一編のエッセー。私たちの記録。麻野翡翠あさの ひすい宮沢晶みやざわ あきらが共に生きた軌跡の、その一端だ。


 これを書き始めたきっかけは、マヤだった。マヤの、山のような愚痴だった。


 いまから二年前。マヤと付き合い始めてから、半年ほどが経ったあたりだった。

『もー最悪! 質問にちょっと答えただけなのにさ、鬼みたいに無神経なこと言われた!』

 マヤは自分の交友関係を隠したりしない、開けっぴろげな性格だ。この時も、特に隠し立てすることもなく――『恋人』ができたことを飲みの席で話したらしい。

『「やっぱ麻野も女だったんだな」とか「どんな男なんだ」とか「麻野ってレズなんだろ」とか、フツー言うかね!? うわうわうわうわ、思い出しただけでキモッ……』

 そこから先、社会の不理解に対する文句と、性の話は男女の垣根無く気持ち悪いという苦言とが延々三十分は出続けた。活火山から湧き出る溶岩のごとき怒りに、うんざりするということはない。同じ質量で怒れるほど感情的では無いにしろ、パートナーが傷付けられているのだ。いくらでも尽くす感情は湧いた。

『つーかさ、オレ何回も言ってたんだよ、あいつらに! 自分性別の概念とかあんま無いんですーって。それでこれよ? 確かに一般的な感性じゃないのは分かるけどさ、どうしてあんたらの都合で女にされなきゃならんのよ。どうしてあんたらの妄想で、私のパートナーを男にされなきゃいけないわけー?』

 と、そんな主張が延々繰り返され、そして最後に、

『ショウさあ、書いてよ。オレたちのこと。オレたちみたいな人のこと、知らない人の目に留まるようにさ……』

 そんなことを、締めくくりにマヤは言ったのだった。


 ――別に、マヤはこの時、本気でそうしてほしいと思っていたわけではない。


 もちろん本音ではあったのだろう。ただ、あの時のマヤは酒が入っていた。酔っ払った勢いでの懇願だったことは疑いようがない。なにせ、エッセーのプロットを組んだ後に、本気で書いて良いのかと念押ししたところ、目を丸くして驚いていたのだから。

 そんな経緯で書き始めたエッセーは、一冊の新書として刊行されている。いま書いているものは、その続きだ。売り上げはそこそこ伸びている。しかしそれは、世間の関心が私たちのような精神性の持ち主に向けられたといことではない。元々、全く別のジャンルの小説を書いていて、多少名が知られていた私が、カミングアウト本を出した――というのが当初の目算よりも発刊数が伸びた要因だった。作家として目立つ方では無かった私に、メディア露出の機会が出たのも、その話題性あってこそだ。

 いまでは、テレビや動画の出演は、余程のことがない限り断っている。マヤは『私たちのことが少しでも伝わった』と無邪気に喜んでいたが、話題になることと理解されることは違うのだ。

 メディアの下心がどうかとは別に、受け手の大半は『宮沢晶が無性別の同性愛者』という、話題そのものを娯楽として捉えている。

 事実では無い。

 私は、人間の中で唯一マヤに、恋愛感情らしいものを抱いた。それが恋愛感情だと断言できないのは、マヤにも私にも、性的欲求が付随していないからだ。理解力の無い第三者が広めた、不正確なファクター。だが、彼らには関係ないのだ。彼らはただ、私たちを消費している。

 ペンは剣よりも強し。そんな言葉があるが、剣だろうがペンだろうが、人を多少傷付けて殺したとしても、世の中が変わるわけではない。もしそれが真なら、今頃はテロリストか新聞社が世界を牛耳っているだろう。そんな物騒なことは書いていないので、私のエッセーは、余計に社会の変革とは遠い。

 私は私のエッセーに期待はしていない。これはただの道具なのだ。書けばマヤが喜ぶし、売れればマヤに何か買ってやれる。増刷されたおかげで、年末年始は二人きりで観光列車に乗って温泉街を旅行する、その費用が丸々まかなえた。

 この内心を知られれば、不誠実だ、性や私生活を売り物にしているだ、と叩かれるかもしれない。が、その心配は無いだろう。内心はどこにも発信していない。マヤにすら言っていない。万が一、知られたところで何だというのだろうか。マヤは愚痴を言えば忘れるし、私だって、もはやそういった社会の言葉はろくに耳に入ってこないのだから。



 PM22:15――。

 マヤが仕事を終えたというので、迎えに行く。朝にバイクを留めた場所に、再びバイクを留めると、マヤがビルのエントランスからすぐに出てきた。

「ごめんごめん! 待たせちゃった」

「いや、想像してたよりずっと早かった。十一時ぐらいになるかと思ってた」

「いやー、そこまでかかるかなと思ったけど。終業後にいきなり仕事追加しようとする上司にキレたら万事オッケーだったわ」

 それは果たしてオッケーなのだろうかと思うのだが、勤務態度に問題があるのは、どう考えても就業時間内に仕事の配分を行えなかった上司の方だろう。そんな理屈など無くとも、マヤが早く上がれて良かったという感情が何よりも勝るが。

「じゃあ帰ろっか! もーお腹メッチャ空いてるー」

「はいはい、料理はできているよ――」

 マヤがサイドカーの座席に滑り込む。と、その時。「あれ、麻野さん!」と誰かが声をかけてきた。ビルの中から誰かが出てくる。「げっ、三田」とマヤが小声で呻く。聞き覚えがある名だ。マヤが嫌っている、マヤのことを好きな男性会社員だったか。

「麻野さん、お疲れっす! いや、偶然、僕もいま終わって」

「偶然とか嘘でしょ」

「いやいやいや……てか、その人? 麻野さんのカレシ?」

「カレシじゃなくてパートナー!」

 マヤが強い口調で言うと、三田はきょとんとした顔になり、それから少し眉をひそめた。何が違うのかという顔だ。

「ふーん……あれっ!? てか、女の人じゃん! 麻野さんこの前、レズじゃないって言ってたじゃん。何だよ、あれやっぱ嘘だったんだ。ちょっと期待してたんだけどなー」

「きっ…………」

 キモいという言葉が喉元まで出ているらしい。そのまま吐き出さなかったのは、感情が大きすぎて喉で詰まっているからだろう。冷静にそんなことを考えて、そして助け船を出す。

「三田さん」

「へ、はい?」

「たとえ私が死んでもマヤは私のことが好きですし、あなたはマヤとはお付き合いできませんよ。あなたの身の丈に合った人で妥協されてはどうでしょうか」

 三田は絶句した。言われたことを頭の中で噛み砕いて考えることと、反射的に湧き起こった感情が脳を埋め尽くして、情報の処理速度が低下しているようだ。なるほど、マヤが以前言っていた『三田の頭はWin98』というかなり失礼な罵倒はこの様子から来ているのだろう。同じことを思い出したのか、マヤがげらげらと声を上げて笑っている。

 ハンドルを回す。三田氏を置いて、マヤと私は夜の街を走り出す。風は刺すように冷たく、雪はやはり降り続いている。ただ、胸の奥は熱かった。マヤが笑った。それが私の全てになる。

「ねー! タワー見に行かない!? この時間でもまだイルミネーションやってるんだって!」

 エンジンと風の音に負けない、マヤの声が凍った空気を吹き飛ばしていく。分かった、と短く返事をして――私の返事は風に消えたかもしれない――家とは別方向に出る道の方へ、ウィンカーをちらつかせる。この分では、家でラップをかけられ家主の帰りを待つクリスマス・ディナーは、日付が変わるまで待たされることになりそうだ。


 クリスマス・イブの夜。イルミネーションの消えた、街灯とビル明かりだけがほのかに道を照らす景色は、色褪せて見える。このモノクロに近い空気に親近感を覚える。私たちにも色というものはない。性別を捨て、互いの性も必要としない。ただ、輝いている。世界に数多いる恋人たちと同じように、互いの心の中にある愛の輝きに、私たちはいつも向かって進んでいるのだ。

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