遺書

美澄 そら

遺書


 学校の近くの小さな公園。植え込みの一角にある広葉樹の根本を、ボクはしゃがみこんで掘っていた。

 百均で買った緑色に塗られた鉄製のスコップ。アリの巣を掘り返すようにして、深く深く掘る。

 仔猫がボクの足元で鳴いている。

 蝉時雨。汗が次から次へと滴り落ちていく。



 ――七月七日。

 クラスメイトの九堂くどう 幹久みきひさくんが自殺をした。



 知ったのは次の日のことだった。

 朝礼が終わるなり、担任が九堂くんが亡くなったことを説明すると、クラスメイトの視線はボクに向けられた。

 その視線の持つ感情の半分は興味で、残り半分は恐怖だろう。

 担任までもがボクをちらりと見て、咳払いをした。


「九堂くんのことを思って、黙祷を捧げましょう」


 一体このクラスの何人が九堂くんのことを思って祈っているのだろうか。天国に行けますようにって祈っているのだろうか。

 静けさのなかに、誰かの啜り泣く声が聞こえる。

 ボクは背もたれに体重を預けて、机の下で緩く指を組んでみた。

 九堂くんの顔を思い浮かべて、「ふざけるな」と怒鳴り散らしたくなった。

 噛み締めた歯が軋む。緩く組んでいた指は、お互いにがっちりと組み合って痺れる。



 ――自分だけ、被害者ぶりやがって。



 九堂くんは、このクラスに置かれるヒエラルキーのトップに君臨していた。

 代々続く医者の家系という背景、母親はPTAの重役もしている。

 単に親の七光りじゃなくて、自身もスポーツ万能で勉強も出来る。同級生だけでなく、先輩や後輩、先生達も一目置いていた。

 中学二年生にして、身長は一七〇センチ以上あったし、ぱっちりした目に二重、薄い唇。可愛らしい顔立ちは、明るくよく笑う彼の性格に合っていた。


 そんな誰からも好かれて人気者の彼と、ボクの接点が出来たのは、四月のことだった。


 忘れもしない。このクラスになってから初めての席替え。

 恨みっこ無しのくじ引きで、ボクは彼の前の席に当たった。

 机の天板に椅子を逆さにして乗せて持ち、教室の後ろの方から真ん中辺りへ移動する。

 その際、すでに着席していた彼の横を通らなければなかった。

 ボクは前から来たクラスメイトを避けようとして半歩下がると、彼の机の角にボクの持っていた机の脚が当たってしまった。

 ごめん、と謝罪する前に、小さな舌打ちが聞こえてきた。

 次の瞬間にはいつもの九堂くんに戻っていたけれど、ボクはすでに竦み上がってしまい、振り返るのが怖くなった。


 嫌な予感というものを、初めて肌身に感じた。


 その日から間もなく、九堂くんは前の席のボクにちょっかいを出してくるようになった。

 最初は回ってきたプリントを乱暴に受け取るくらいだったけれど、後ろから消しゴムのカスが放られるようになり、シャーペンの先で背を突かれるようになった。

 鬱陶しいとは思ったけれど、耐えられない程ではなかったから、次の席替えまでの我慢だとボクは黙殺した。 

 けれど、九堂くんにはそれが気に入らなかったのかもしれない。

 もしくは、許容されていると勘違いさせてしまっていたのかも。


 彼は、クラスメイトも巻き込んでボクのことを無視するようになった。

 

 居心地の悪い教室。意を決して担任に相談すると、「喧嘩はよくない。謝りなさい」と的外れな答えが返ってきた。

 共働きで夜遅く帰ってくる両親には、心配をかけたくないと学校生活のことは何も話さなかった。

 ボクには頼れる人がいないことに気付いて、がっかりした。

 その頃からボクの顔には酷いニキビが出来始めて、特におでこや頬は絶え間なく出来るようになった。

 思春期ね、なんて母親は笑うけど、ボクからしたら人生やり直したくなるほどのコンプレックスだ。

 前髪を伸ばして、少しでもニキビを隠すようにしていたけれど、その羞恥心を嗅ぎとった九堂くんはボクの前髪を無理矢理掴み上げて、大きな声で「キモッ」と言った。

 小さな笑い声があちこちから聞こえる。

 それがボクの耳には、潮騒のように耳の奥で響いた。

 九堂くんはどこからかハサミを取り出して、ボクの前髪をバッサリと切り落とすと、手に残った髪を汚物にでも触っているかのように捨てて騒ぎ立てた。

 急に開かれた視界。悲しみや悔しさ、怒りを感じる前に、涙がボロボロと溢れてきた。

 何故、ボクだけがこんな目に遭わなければならないのか。

 さすがにこの状況には担任も慌てて、九堂くんにやんわりと忠告をした。幼子に言い聞かせるような口調で。

 先生に咎められた九堂くんは、逆恨みにボクの所有物にまで手を出すようになった。

 トイレに捨てられた上履き、破られたノート、「死ね」と書かれた教科書、折られたシャーペン。

 毎日、毎日、毎日、彼は懲りずにボクをあの手この手で傷付けようとしてくる。


 ――さすがに、しんどいなぁ。


 ゴールデンウィークもあったせいか、学校に行くのが辛くなってきた。

 朝は家族の前では平気なフリをして登校するけれど、下校するときに考えるのは翌日の学校のことだ。

 靴紐が切れたスニーカーを引き摺るようにして、遠回りする。今日は靴紐を買わなければいけなくなった。

 学校から一番近い百均は、ボクの家と反対方向だ。

 このままどこか遠くへ行けたら、と小さな希望を持つけれど、どうにも出来ない現実に途方に暮れる。

 どんなに嫌でも明日はやってくる。

 息苦しくて憂鬱な教室。そこで人をゴミのように踏み躙る独裁者。

 ボクはゴールの見えない持久走を走らされている気分になった。

 

 百均に寄って、適当な靴紐を買って、ボクは近くの公園に向かっていた。

 立ち並ぶ家二軒分の敷地の小さな公園には、高さが二メートル近くあるコンクリート製のなだらかな山の形をした遊具と、ブランコが二つ、プラスチック製の青いベンチが一つ。公園の隅には小さな公民館がポツンとある。

 

 ボクがベンチで靴紐を直していると、微かに啜り泣く声が聞こえてきた。

 コンクリートの山には稜線に沿うように滑り台と、反対側に登れるように手摺と階段が付いている。

 そして、滑り台からちょうど九十度の位置に、山の腹を突き抜けるトンネルが空いていた。

 ボクは興味に駆られるまま、そっとトンネルを覗き込んだ。

 足元が見えて、小さな子供ではないことに気付く。

 相手が顔を伏せていることをいいことに、もう少しだけ首を伸ばして覗き込む。

 相手はボクと同じ学ランを着ているようだ。

 膝を抱くようにして、震えている華奢な手。

 すると、相手が勢いよく顔をあげて、目が合った瞬間凍りついた。

 


 ――九堂くん。



 九堂くんは、ボクが居たことに驚いたのか、あんぐり口を開けて間の抜けた表情をしていた。

 彼の頬を、残っていた涙が零れ落ちていく。その雫が顎の先からぽたりと落ちた瞬間、彼は鬼のような形相でボクを睨みつけた。


「なに見てんだ、――っ!」


 後半はなにを言っているのか聞こえなかった。

 獣のように咆哮を上げて、言葉になっていない言葉を繰り返している。

 後退り逃げようとすると、飛び出てきた九堂くんに勢いよく押し倒されて、背中や後頭部を地面に強かに打ち付けた。

 九堂くんはそのままボクの腹に馬乗りになると、拳で思い切り殴ってきた。

 最初は左頬に二発。ボクが避けようとすると腹に一発。

 友達が戯れて殴るような可愛いパンチではない。

 一発一発が重くて、受ける度に息が詰まる。

 ボクは身を捩り、上に乗る九堂くんから逃れようとするけれど、九堂くんはボクの逃げ道を塞ぐように体重をかける。


「うぜぇんだよ」


 九堂くんがボクを殴る。口の中が切れて、血の味が広がる。


「死ねよ」「うぜぇよお前」「キモい」「誰もお前なんか望んでねぇんだよ」「キモいんだよ」「死ね!」「死ねよ!」


 降ってくる暴言と暴力。

 ボクは最初こそは抵抗していたけれど、無駄だと悟って殴られるままになっていた。早く終われ、と願いながら、痛みを堪える。

 九堂くんの苛烈な攻撃は少しずつ止んでいき、薄目を開けると彼が涙を堪えているのが見えた。

 表情は昏く、焦点は合っていない。


「生まれてこなきゃよかったのに……」


 最後に一言そう呟くと、ボロ雑巾のようなボクを置いて、九堂くんは立ち去っていった。

 九堂くんが泣いていたトンネルの中から、やせ細った子猫がか細く鳴いた。



 九堂くんは、ボクと公園で会った日から学校に来なくなった。

 クラスメイトの噂を聞く限り、不良とつるんでいて、警察にお世話になったらしい。

 ボクはあの日九堂くんに殴られたことを誰にも明かさなかった。

 季節だけが慌しく流れて、梅雨に入って、梅雨が明けて――七夕の夜に九堂くんは自殺をした。

 九堂くんの家の近くにあるマンションの外階段、五階の踊り場には、綺麗に揃えられた九堂くんの靴があった。

 そして、その日のマンションの入り口付近にある監視カメラには、九堂くんと住民の姿しか映っていなかったことから、自殺という判断が下った。


 ただ、遺書は見つからなかったらしい。


 けれど、ボクにはわかる。

 教科書に書かれた「死ね」の文字。

 公園でボクを殴りながら、「生まれてこなきゃよかったのに」と絞り出した声。

 きっと、彼が死んだ理由はボクだけしか知らない。

 彼がボクに遺したあの言葉ひとつひとつが遺言で、遺書だ。

 


 学校の近くの小さな公園。植え込みの一角にある広葉樹の根本を、ボクは掘っていた。

 百均で買った緑色に塗られた鉄製のスコップ。もう先の方は塗料が剥げて、濃いグレーの地が顔を出している。

 アリの巣は跡形もなくなって、住んでいたアリ達の姿もない。

 仔猫はボクの足元で静かに横になっている。

 蝉時雨。汗で前髪が貼り付いてくる。

 纏わり付くように飛んでいる虫の羽音が、やけに五月蝿い。



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