おしゃべりなリトルビリー

尾八原ジュージ

おしゃべり

 リトルビリーがしゃべり始めて一年が経とうとしている。その辺のゲームセンターで獲得したネコのぬいぐるみが突然自我をもって話し始めたときは驚いたけれど、今や慣れてしまって誰も突っ込まない。

 というかこの一年間に家族がばたばたと死んでしまって、この家に生きている人間はもう私しかいないのだ。


 リトルビリーが初めてしゃべったとき、怖がったのは父だけだった。「あんたセイウチみたいな声してるねぇ!」と言われた父は、何がどうしてどう心動かされたのかわからないけれど、聞いたこともないような甲高い声で「イヤァーーー!」と叫んで玄関から飛び出していった。そのまま駅の方向へとすっ飛んでいく途中、酔っぱらい運転の自動車に撥ねられて死んだ。

 モラハラ気質の父が思いがけず死亡したことで、まず家のローンがなくなり、おまけに保険金だの賠償金だのが入ってきた。私と母と弟と祖母は大喜びした。

「これからお給料を好きに使えるのね」と喜んだ母はデパ地下で片っ端から食べたいものを購入し、私は私で近所の酒屋からシャンパンだのワインだの日本酒だのウォッカだの、目についたものをばかすか買って帰った。そして酒宴が始まった。

 ところが盛り上がりすぎたせいで祖母が倒れた。急性アルコール中毒である。救急車が来るまでの間、リトルビリーは「あんたセイウチみたいな声してるねぇ! あんたセイウチみたいな声してるねぇ!」と繰り返していた。

 こうして骨壷がうちの仏壇の前にふたつ並んだ。

「実の息子が死んであんな風に喜ぶから、さすがにバチがあたったんじゃない?」

 と母はケロッとした表情をしていた。私も「それもそうだわね」と同意した。つまり、父も祖母も死ぬべくして死んだのだろうということにして、私たちは日常に戻ろうとしたのだ。

 ひとり異論を唱えたのは弟だった。

「リトルビリーが話し始めてから何だかおかしくない? いや、ぬいぐるみがしゃべってる時点でじゅうぶんおかしいんだけどさ。そうじゃなくて、あれから急に家族がふたりも死んだのに、母ちゃんも姉ちゃんも何とも思わないのかよ? 本当にこれがただの偶然だと思ってんの?」

 私は母と顔を見合わせた。

 肝心のリトルビリーはといえば、リビングのソファの上に鎮座していた。おしゃべりを始めてから、そこが定位置になっているのだ。「ただいま」と言えば、リトルビリーは「おかえり」と言う。「行ってきます」と声をかければ「定期券忘れてない?」などと忠告し、そして大抵そういうときは本当に忘れ物をしているものだから、わりと重宝していた。それになんといっても、ネコの形をしていてかわいい。それを突然おかしいと言い出した弟を、私と母は裏切り者を見るような顔で見つめた。

「えっ、じゃあどうすんの?」

「捨てようよ。それかお寺に持ってくとか」

 弟がそう言ったそのとき、リトルビリーが大声を出した。

「あんたセイウチみたいな声してるねぇ!」

 その途端、弟の顔がさっと青ざめた。

「やぁね。あんた、世界の終わりみたいな顔してるわよ」

 母が笑った。私も笑った。無性に可笑しかったのだ。もちろんビリーも笑っていた。弟だけが黙りこくっていた。

 その日、弟は家を出ていった。そして骨壷に入って戻ってきた。駅のホームで喧嘩に巻き込まれて線路に落ち、急行電車に轢かれたらしい。

 かくして家の仏壇の前には骨壷が三つ並んだ。どれもこれも白くてつるつるしていてよそよそしかった。「これ、本当にあの子かしら」と、弟の骨壷を撫でながら母が呟いた。


 ここまで来ると、いかに私たちが都合の悪いことに目を瞑っていたとはいえ、あることを意識せずにはいられない。すなわちリトルビリーに「あんたセイウチみたいな声してるねぇ!」と言われたら死ぬのだ。何がなんだかわからないけれど、そういうものなのだ。

 私はなんとなくリトルビリーとよそよそしくなってしまった。あの子の声を聞くのが怖かったのだ。一方で、母はよくリトルビリーとおしゃべりするようになっていた。ふたりは私の知らない話をしては、くすくすと笑っていた。

 ある夜私が仕事から帰ってくると、母がリビングのソファに腰かけ、膝にリトルビリーを載せて話をしていた。というよりはリトルビリーが一方的にしゃべり、母はうんうんとうなずいていた。まるで講義を受けているみたいに見えた。

「だからねママさん、元々おかしかったのは我々ではない、世界の方だったというわけ。そうなるとはっきりするでしょう? この世界にしがみついていなければならない理由なんてないのよ。見てご覧なさい、外を」

 窓の外には雨がしとしとと降っていた。湿度が高くて生ぬるい夜だった。母はぼんやりとした視線を外に向け、「とても脆弱だわ」と答えた。

「そのとおりよ、ママさん」

 リトルビリーの声が続く。「でなけりゃ私たちがしゃべるようなこともないってわけ。これが何よりの証拠よ、わかるでしょう? いかにこの世界が危なっかしいか。どんなに脆いか。ねぇ、なぜ壊れ物の世界を抱くの?」

「とんでもない、理由なんてないわ。無理して大事にする必要なんてなかったのよ」

「そうよママさん」

 私は立ち聞きを止め、洗面所に向かった。手を洗い、メイクを落として、風呂にも入ってしまった。髪をいつもより丁寧に乾かし、フェイスパックもやった。

 そうやって存分に時間を潰してからリビングに向かうと、母はソファにはいなかった。リトルビリーだけがちょこんと座っていた。母は私が見ていない隙に、階段の手摺にロープをかけ、首を吊っていたのだ。


 こうして骨壷は四つ並び、私は家にひとりぼっちになった。いや、ひとりぼっちではない。リトルビリーとふたりきりになった。

 リトルビリーは今のところ当たり障りのない話しかしない。私の声が何かに似ているなどとは言わないし、世界の脆弱性について語ることもしない。ただ挨拶とか、お天気の話とか、私の忘れ物を注意するとか、飲み過ぎを嗜めるとか、そういった類のコミュニケーションしかとってこない。

 そのことに私は安堵しつつ、反面寂しいと思う。それに納得がいかない。なぜ私だけこの家に残されているのかがわからない。

 悶々としたままに月日が過ぎていった。

 私とリトルビリーは相変わらずだった。一度友人に「うちのぬいぐるみがしゃべるんだけど」と打ち明けて怖い顔をされて以来、誰かに相談などはしていない。状況を打開する手がかりがないままに、何となくしっくり来ない感じが続いていた。


 会社の後輩に、喫煙所で「最近調子悪いんですか?」と話しかけられたのはちょうど、リトルビリーおしゃべり一周年記念の日のことだった。私はなんだかぎょっとして煙草を消してしまった。

「そんな風に見える?」

「ええ、まぁ」

 見えるのなら仕方ない。私は後輩の慧眼にすっかり観念してしまった。そこで新しい煙草に火を点け、彼女にリトルビリーと家族の話をすることにした。

 後輩はメンソールを燻らせながら聞いていたが、私が話し終えると「それは先輩が、リトルビリーに心を開いてないからじゃないですか」と言った。

「そうかなぁ」

「そうだと思うんですけどねぇ」

 後輩はふーっと紫煙を吐き出した。「何かこうもっと、素直でいいと思うんですよ。だいたい先輩、人と話すときに構えがちだし」

「そりゃ相手は他人だもの」

「家族だったら別でしょ」

 家族だったら、という言葉に、私はふととっかかりを感じた。そうか、リトルビリーは家族なのだ。ぬいぐるみだけど私の、たったひとりの家族なのだ。

「ありがと。その方向で考えてみる」

「ですです」

 これ以上粘ると、さすがにサボりと叱られてしまう。私は煙草を消し、後輩にお礼を言って喫煙室を出ようとした。そのとき、彼女が唐突に「実はうちのもしゃべるんです」と私の背中に向かって声をかけてきた。

 私は振り返って尋ねた。「ほんとに?」

「ほんとですよ」

 そう答えて、後輩はにっこりと笑った。

 その日、私は帰宅しながら考えた。もっと素直に、あるがままにリトルビリーに接するのだ。私の疑問をぶつけ、感情をぶつけ、思ったことを言い合うべきなのだ。

「ただいま」

 私が声をかけると、リトルビリーは「おかえり」と応えた。その姿はやっぱりどこまでも愛らしい。自然に微笑みが溢れる。素直にならねば、と私は心に決めた。そのとき、ふいにある言葉が、待っていたかのように口から溢れ出した。

「あんたセイウチみたいな声してるねぇ!」

 リトルビリーは何も答えなかった。

 きっとすごく驚いたのだろう。私は彼に微笑みかけると、ダイニングテーブルで家中のビールを飲んで寝てしまった。


 翌日から、リトルビリーは何もしゃべらなくなった。


 

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