第11話 あなたは生まれ変わりました
為男は、もうモノを壊さなくなった。
なぜ自分があんなことをしていたのか、今ではよく思い出せない。
とにかくなんだか色々なものを壊して、壊して、壊し続けていたかった時期があった、らしい。
理由もなく、あらゆるものを。あらゆる方法で。
そうして部屋の中から様々なものが壊れて消えていき、為男の部屋はスカスカになり、為男もスカスカのまま生活を続けていたが、それでも時間と生活がまた少しずつ少しずつ日々を堆積させて、新たに部屋にやってきた様々なものが以前何かがあったりなかったりした場所に置かれていく。
まだ不完全な充足のそこかしこで口をあけている隙間からは、いつかの記憶が顔を覗かせている気もするが、そのほとんどはぼんやりとした形だ。
為男は首をかしげながら、その記憶の面影だけをどうにかなぞろうとする。
そんなときいつも為男の口から漏れるのはあるメロディで、星の流れる音から始まる三拍子はとても懐かしいのだが、記憶はやっぱりはっきりとしないままに終わる。
そうして、はっきりしない面影すらもやがて思い出せなくなっていく。
為男の毎日からはそうして少しずつ、何かが忘れ去られていく。
おそらく、忘れ去られていくということすらもそのうち忘れ去られていくのだと、それだけはわかっている。
時々夢を見る。
夢の中の為男は小さな鉢植えに植え付けられた植物で、部屋の中には三拍子の音楽が流れている。
あの音楽だ、と思いながら、辺りを見回すと、ほっそりとした女の人影が優しくその鉢植えを日向へと連れていく。
女は何かを話しかけて来るが、その多くは判別のつかない言葉だ。為男は植物なのだから当然だろう。
だけどその抑制された、感情を薄い膜でくるんでホイップクリームのように絞り出したまとまった発声の、ある一部分だけはいつもはっきりと聞き取れる。
――おめでとおうございます! あなたは生まれ変わりました!
祝福の言葉で為男は目を覚ます。
今日は自分は何に生まれ変わったのだろうと、寝ぼけながら両手を確認して笑う。
また人間で、また亜梅為男だ。
自分は自分のままだ。
今のところはそうして、為男は普通の暮らしをしている。
着信音はジミ・ヘンドリックスの『ジプシーアイズ』で、部屋から隙間は消えつつある。
為男はもう狂っていない。
時折、その事実に、狂っていないということに、たまらない寂しさを覚えることがある。
自分は何か取り返しのつかないことをしたのではないか。
何かとても大事なものを失うかわりに、この正常な暮らしに戻ってきたのではないか。根拠なくそんな風に思えるのだ。
その不安から逃げるように記憶をまさぐると、指に触れるのはやはりあの三拍子のメロディで、為男はそれを手繰り寄せ、どこで覚えたのかもわからないままに口ずさむ。
窓際に置かれたアドロミスクスの鉢植えになぜか懐かしい三拍子を投げかけていると不思議と気持ちは安らいでいき、今のこの状況もそれでいいのだと思えるようになる。誰かにそう言ってもらっているような気持ちになる。それが誰なのかはわからない。夢の中の女かもしれない。
為男はそうして、おぼろげな思い出と安らかな生活とを行き来して生きながら、毎日少しずつ忘れ続けている。
いつかすべてを、過去だけでなく今も、未来も、自分にまつわるすべてを忘れてしまう時がおとずれるとしたら、その時が為男が新しく何かに生まれ変わる時なのかもしれない。
すべてを失くして新しくなった自分がどんな姿で、どんな一生を歩むことになるのかはわからない。
でも、そのとき聞こえる言葉が為男にはちゃんと想像できる。
――おめでとおうございます!
弾むような高らかな祝福の響きを、為男はずっと忘れられずにいる。
ジュ・トゥ・ヴ 森宇 悠 @mori_u_you
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