第10話 さようなら、為男

 ――奥さまはアドロミスクスに生まれ変わりました!



 その声を聞いてソファへと頭を突っ込み、また期待が淡く消えたことを悟りながらも、為男の行動は迅速だった。



 まだ喜多瀬川との通話がつながったままの状態で彼は寝室へと向かう。ベッド脇の出窓のカーテンを開く。小さな植木鉢がそこに、隠れるようにして日光浴をささやかに続けていた。

 アドロミスクス、多肉植物は艶々と輝き、いつも通りに物言わぬままだった。


 昨日までのその植物と今のこの佳乃とどう違うのか、為男にはその違いはよくわからなかったが、佳乃はそこにいるはずだった。今までもそうだったのだから。今回もそうなのだ。いつも通りの納得。



 佳乃を鉢ごとつかみ、為男は改めて寝室を見渡した。



 歯抜けのように、寝室には様々なものが欠けていた。



 ダブルベッドの枕は切り刻んで捨てたためひとつしかなく、布団はあるが布団カバーは燃やしてしまったのでない。



 何冊も何冊もバラバラにして廃棄したので本棚には空白ばかりがある。



 その本棚の脇の床に、置物や家電が雑多に、直に、置かれている。メタルラックを壊したから行き場がないのだ。



 その他の様々なものが、この部屋には欠けていた。

 あるべきもの、あるはずのもの、かつてあったものがこの部屋にはなかった。

 ここ半年で破壊されたそれらは、すべて佳乃の肉体だったものだ。



 この部屋には佳乃がいなかった。佳乃が欠けていた。



 為男は走ってベランダへ出た。

 裸足のままコンクリートを踏みしめ、そのままの勢いで鉢植えを思いきりベランダの床へと叩きつけようと振りかぶった。


 ぱらぱらと、軽石が落ちて為男の首筋を、続いてコンクリートを打った。


 その後を追う様に、涙が軽石と同じ軌跡をたどってコンクリートにシミを残した。


 誰の涙だろう、と為男は一瞬考えてから、自分が涙を流しているということに気が付いた。


 気が付くと、もう止まらなかった。

 まるで全身の力が涙になって流れ出て行ってしまったかのように、その場に膝をつき、鉢植えを握りしめながら、隣近所に声が聞こえるのも気にせず、大声で泣いた。



 涙はすべて佳乃へふりかかり、そこに鼻水と唾液が混じり、佳乃は艶々と輝いて、しかし相変わらず何も言わなかった。

 佳乃が何も言わないということで、為男はさらに泣いた。

 声は枯れ、激しい呼吸のせいで胸がきりきりと痛んだが構わず泣き続けた。

 もう何が悲しいのかもわからず、泣いているということがさらに為男を悲しませ、泣き続けた。


 こんな真っ昼間のベランダで、自分は一人で、鉢植えを抱えて、泣きわめき、なのに愛する人は何も言ってくれない。何も言えない。考えれば考えるほどすべての物事は涙の水源となって流れ続けた。



 何時間もそうして泣き続け、やがてまだまだ泣ける為男の心とは無関係に、体が先にギブアップをした。

 体の水分はすべてが失われ、酸素が足りなくなって頭痛が視界を揺さぶっていた。

 喉は恐らくどこかが裂けているか腫れているかしているのだろう、ずきずきと痛み、体はこわばって、うずくまった体勢から動こうとすれば全身が悲鳴をあげた。


 為男はそのまま床に転がった。コンクリートは埃にまみれ、冷たかった。鉢植えの佳乃は相変わらず艶々とてらてらと床の上にいて、夕日を受けて紅くなっている。



 きらり。



 遠くから星が流れる音は聞こえ、そしていつもの三拍子が始まった。



 そういえば自分はスマートフォンをどこへやっただろう、と為男は考えたがうまく思い出せなかった。通話を切った記憶もない。

 『ジュ・トゥ・ヴ』はいつから流れていたのだろう。喜多瀬川は自分が泣くのを聞いていただろうか。


 三拍子は鳴りやまなかった。ずっとずっと、遠くから、為男の心の届かないリズムで弾んでいた。


 そのうち日は完全に暮れて、夜は空いっぱいに広がり、暗闇は街へと降りていった。

 為男が横たわるベランダも夜となり、冷たいコンクリートはより一層冷たくなった。それでも『ジュ・トゥ・ヴ』は鳴りやまなかった。


 諦めた為男は這いずり始める。

 フローリングに落ちたスマートフォンへとボロボロの心と身体を動かし始める。

 全身の痛みに呻き声を上げながら、なんとかまずキッチンへと這い戻り、冷蔵庫を開けて麦茶を飲んだ。それからリビングへと行き、スマートフォンを探した。



 キッチンにも、リビングにもあらゆるものが欠けていた。



 佳乃が欠けたままだった。



 再び涙が出て動けなくなりそうなのをこらえてリビングを這いまわり、クッションをすべて燃やされて捨てられたソファの下からスマートフォンを見つけ出した。



 ――亜梅さん、ですか?



 喜多瀬川の声はいつもの通りだった。わざわざスマートフォンにかけているくせに名前を確認するのもいつも通り。



「そうです」



 為男もいつも通りに冷静に振る舞おうとしたが、枯れた鼻声ではそれも難しかった。



 ――電話が突然切れたので驚きました。


「ええ、すいません」


 ――どうされたんですか。


「すいません」


 ――何かあったんですか。


「すいません、すいません……」



 再び丸くなり、途切れずそう呟き続けながらスマートフォンを握りしめフローリングに転がった。もう涙は流れなかった。乾いていた。


 ――佳乃さんを。



 と、喜多瀬川は一拍置いてから、



 ――殺していたんですね、ずうっと。



 彼女の言葉にはトゲも当てつけもなく、しかし優しくもなかった。自分とは無縁の悲劇について世間話するような冷たさがあった。その遠さに、また泣きたくなった。



「喜多瀬川さん、佳乃は……佳乃は、いつになったら戻って来るんですか……」



 どうにか振り絞って言う。

 喜多瀬川はやはりいつもの調子で返す。



 ――亜梅さん、佳乃さんはいつも一緒におられますよ。あなたのそばに、姿かたちは変わっても……。


「そういうことじゃないっ!」



 床を叩くと、じんじんと痛みが手から肩へ抜けていく。

 その痛みで、為男は自分がまだ狂っていないと辛うじて思うことができた。

 しかし為男は狂いたかった。狂って、そこに佳乃がいると思い込みたかった。

 いつか佳乃は戻って来ると、佳乃とまた触れあえるのだと、佳乃の笑顔をまた見られるのだと、思いたかった。

 しかしもう、そんな荒唐無稽な夢物語が信じられないほどに、為男は正気だった。



「違うんです……違うでしょう。佳乃は、佳乃はあんな鉢植えの中のぶつぶつした植物なんかじゃない。佳乃は風に揺れるウールのカーディガンなんかじゃない。佳乃は金属製のマグカップなんかじゃない。佳乃はギャグマンガじゃないしジャズのレコードでもないし片付けの指南本なんかじゃない。佳乃は……佳乃は人間です。人間なんです。いくら魂が同じって言っても、姿や! 形が! 違ってしまったらそれはもう別の、別の……! か、か、佳乃は……あたたかくてやわらかくてうるさくて可愛らしくて……佳乃は……佳乃はぁ! 佳乃は!」



 床を叩く。叩き、痛みは肩どころか首にまで広がり、そのうち麻痺してくる。

 喜多瀬川は何も言わない。



「佳乃は……佳乃は」



 為男はそれ以上言葉を続けられない自分に愕然としていた。



「佳乃は……?」




 佳乃のことを、もう、思い出せなくなっていた。




 人間だった佳乃のことを。




 佳乃のことを想おうとする為男の脳裏に浮かぶのは、粉々のオルゴールや、滑らかな陶器の曲線、風にめくれるページの音、麻の肌触りの気持ちよさ、埃っぽいぬいぐるみの軽さ、それらの記憶だった。



 為男は慌てて佳乃の痕跡を探した。佳乃を思い出そうとした。しかし部屋の中には佳乃を思い出せるものはもう数えるほどしか残っていなかった。佳乃はこの部屋から消えて無くなろうとしていた。



 ――……亜梅さん、ねえ聞こえる?



 喜多瀬川はまるで別人のような声で言った。

 今まで話していたのは、そして今話しているのは誰なんだろう、と為男が思うほど、まったく先ほどまでとは違う話し方だった。



 ――私はね、亜梅さん。人が死んでしまうことも、もう二度と戻ってこないことも、悲しいことじゃないと思ってるの。だってそれは普通のことでしょう、私たちはお互いの人生の道行きにたまたま出会っただけで、本当は顔も見ないで生きて死んでいくのが普通なのに、偶然そこにいたから知りあえただけなの。だから誰かを失うことを悲しむ必要はない、ね。



 もう流れないはずの涙を流しながら、ふと、がらりと変わった喜多瀬川の声に聞き覚えがある気がしていた。ひどく懐かしい、気がしていた。しかしそれが誰の声なのかはもう思い出せなかった。

 ここにはいない誰かの声だった。



 ――失うことが悲しいのは知ってしまったからでしょう。知らない頃に戻れるのなら悲しくはないでしょう。失ったはずのものがあなたに与えたすべてを消せれば壊せれば、あなたは悲しまないで済むでしょう。



 この声を為男は知っている。この話し方を、この言葉の選び方を。でも誰のものなのかだけが思い出せない。



 ――姿かたちが変わってしまったら、それはもう本人じゃないって、あなたさっきそう言ったわよね。そうでしょう、その通りでしょう。だから、もう別人なの、もういないの、佳乃は、どこにもいない。佳乃はもう死んで魂を別のところへ移した、その時点でね、もう消えたんだよ。あなたはずっとありもしない、もうないものを、存在しないものを求め続けていたの。



 思い出せない懐かしい声は、為男の心を優しく撫でながら同時に残酷に刺し続ける。

 佳乃はいない。もういない。

 わかっていたはずだった。狂ったふりをしてそれを忘れようとしていただけなのもちゃんとわかっていた。



 ――ねえもう、思い出せないでしょう。その部屋にはもう何もないでしょう。佳乃の痕跡は。佳乃は最初からいなかったみたいに、あなたは佳乃を知らなかったみたいに、もう生きていけるでしょう?


「生きていけない」


 ――いいえ、生きていける。それを認めようとしていないだけ。




 その通りだった。




「違う」


 ――いいえ。亜梅さん。佳乃はもう生まれ変わらない。佳乃の生まれ変わりはこれで最後。佳乃は消えた。いなくなった。別の体で別の人生を生きている。時間も場所も飛び越えて別のものへと魂を宿らせて。


「あなた……きみは……」



 声は笑った。とても懐かしい笑い方だった。愛しい、可愛らしい、強い、笑い方だった。為男はそれが誰なのかを知っていた。でもその名前はもう思い出せなくなっていた。



 ――さようなら、為男。


「待って!」



 通話は切れた。



 為男は咆哮した。



 しかし通話は切れたままで、そしてそれ以来二度と、喜多瀬川章世からの電話はかかってこなかった。

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