落としたスープパスタは拾えない

憂杞

落としたスープパスタは拾えない

“閉店のお知らせ”というゴシック体の見出しに目を奪われた。木製扉のガラスを塞ぐ張り紙が示す日付はまさに今日で、思わず立ち止まってしまったことは皮肉と言うべきか。

 雑踏、車の走行音、あらゆる都会の喧騒にまみれた道路の歩道沿いに、他店と並んで行儀良く収まる一棟の直方体。社会人に成りたての頃の私がそうだったように、洋食店『ほこほこ屋』は無意識に通り過ぎる方が自然といった佇まいをしていた。

 勤めていた会社を辞めてから、かれこれ半年振りの再訪になるだろうか。元・通勤路としても利用していたここの大通りは、今日だけ私用で仕方なく往復していたに過ぎなかったし、行きの時はそもそも急いでいたから張り紙に気付かなかった。社食では居心地が悪かった私が幾度もお世話になった場所とはいえ、わざわざ社外にまで挨拶に伺うほど私は礼儀正しくないのだ。

 けれど、今日で閉店するなんて知らせを突然受けて。

 断りもなく離れた罪悪感が今更込み上げてきて、私は衝動的に扉を開いた。

 店内に入るなり整然としたアスファルトの世界から切り離され、マホガニーと暖色のあかりに彩られた空間に迎えられる。「いらっしゃいませ。お客様は何名様でしょうか?」声掛けに対して無言で人差し指だけ立てる私を、同じ二十代らしき男性店員さんは笑顔で空席へ案内してくれる。

 分け隔てなく接してくれる『ほこほこ屋』の温かさが好きだった。

 握り締めていた右手が緩みかけて、慌てて力を入れ直す。中に閉じ込めた一粒の小鈴が鳴ってしまわないよう祈りながら。


 奥にある二人席の一脚に腰掛けたところで、壁掛け時計を確認する。お昼の十二時半。社会人時代の私が通っていた時間帯と同じだ。

 お店の混み具合は最終日でありながら従来通りまばらに思えた。良くも悪くも変わらないお店の空気に安心感を覚える。もし『ほこほこ屋』が絶えず人でごった返す大人気店だったとしたら、私は過去も今も気が休まらなかったのではないかと考えてしまう。申し訳ないけれど。

「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます」

 そう言って水とおしぼりを運んできたのはお馴染みの顔だった。他の店員さんと同じ黒い制服を着たこの方は、たしかホールの主任さんだと聞いた気がする。すらっとした顔立ちに少しの顎髭を生やした中年の男性で、芯が通っていながら穏やかなテノールの声が印象的な人だ。『ほこほこ屋』に来るたびに毎度お顔を拝見するものだから、記憶の片隅からすぐに引っ張り出せる存在になっていた。

「メニューはこちらになります。ご注文がお決まり次第そちらのベルで――」

 卒なく案内してくれる主任さんに、私は微笑を返す。なにぶん半年も立ち寄ってなかったのだ。何十何百いたであろうお客の一人に過ぎない私を、向こうが憶えていないのは仕方がない。

 注文はほぼ決まっていたようなものだったけれど、促されるがままにメニューを手に取る。ざっと目を通したところで、セットのミニサラダが無くなっていることに気付く。普段あるはずの前菜が無くて心許ない気はするけれど、閉店前のお店で注文のバリエーションが減っているなんてありがちなことだ。

 単品のお高いサラダに目移りしつつも、私は結局いつものメインディッシュ一品のみで済ませることにした。

 いつものとは他でもない。看板メニューでも何でもないけれど美味しい、浅蜊あさりたっぷりのスープパスタだ。


 注文を済ませて一人になった私は、かばんからスマホを出してニュースを眺める。気が滅入ると分かっているけれど、こればかりは習慣なのだ。

 一昨年からの不景気が未だ続いているという記事、新手の詐欺への注意を呼びかける記事、自称超能力者のインチキを厳しく非難する記事。疎ましい報せばかりが目に映る。最後の記事に関しては大した実害もないのに、連日よくもまあ執着できるものだと思う。

 扉の張り紙は『ほこほこ屋』が閉店する理由を“諸般の事情”と説明していたけれど、その諸般のうち一つは経営難だろうと容易に推測できる。(あくまで推測であって、わざわざお店側に確認を取りたくはないけれど。)飲食業界を中心に経済が打撃を受けているこのご時世、何処も彼処もお金を求めて喘いでばかりだ。仮にも都会の只中で営業している『ほこほこ屋』も例外とは考えられない。

 そのことを踏まえた上で、私はスープパスタしか頼まなかった。私も私で職を手放してしまって収入がないからだ。本来より高い金額を払う余裕なんて、今の私は持ち合わせていないのだ。申し訳ないけれど。申し訳ないとは、思うけれども。

 右てのひらに硬い感触。握る力が僅かに強まっていたことを自覚する。

 ――紅葉もみじ、あんたは自分の身を大切にしなさい。

 小鈴を意識するたびに母の言葉を反芻する。他人を気にかけてばかりでは生きづらくなるのがこの世の中だ。自分一人を守るだけでも必死に動かなければいけない。詐欺に手を染める人達も、気持ちが沈むような報道を繰り返す人達も、人の不幸で稼ぐ人達も同じ考えだと思うと悲しくなるけれど。

 数独のアプリを立ち上げようとしたところへ、ほっとする匂いに感付いた。顔を上げるとお待ちかねの料理を持ってこちらへ向かう若い女性店員さんの姿が見える。

 以前と変わらない宣材写真と匂いとを重ね合わせ、これから再会する思い出の味を想起する。スープに溶け込んだ浅蜊の旨味と塩味の絶妙なマッチを、茹でたての麺に絡めて温かいうちに頂くのだ。そんな親しみのある味も今日で最後なのだから、よく噛み締めないと。私はスマホをしまって食事を受け取る準備をした。

「おっ、お待たせいたしました! あさ、浅蜊たっぷり、のスープパスタです!」

 が、店員さんの上擦った声を聞いて、思わず肩に力が入ってしまう。

 私の記憶が正しければ、この女性店員さんとは初めてお会いする。半年前まではたまたま見なかった人なのか、もしくは半年以内に入ったばかりの人なのか。失礼ながら後者の方が得心がいった。正直なところ歩く姿もなんとなくぎこちなく見えたし、精一杯のスマイルも緊張のためか僅かに引き攣っている。職場での自分を思い出してしまい苦々しい気持ちになる。

 そして何より、二枚の大皿を抱える両腕が明らかにふらついている。差し出してこないもう片方の手に乗せたスープパスタは、おそらく別のお客さんのもとへ運ぶ途中なのだろう。一つずつ持てばいいものをなぜ細腕で無理をしてしまうのか。時短やお客への誠意のためだとしても、事故が起きたり不安を煽ったりするリスクの方が高いだろうに。

 でも分かっている。きっと余計な心配なのだろう。店員さんこそ日が浅いとはいえ、伊達に給仕を担っているわけではないはずだ。今まで『ほこほこ屋』に限らず、どこの飲食店でも見なかったではないか。いくら危うくたって大事に作った料理を落とす人なんて

「あっ」

 店員さんの高い声が響く。悲鳴と言って差し支えのない、甲高い声。

 天秤のように水平を保っていた真っ白な二枚が、声と同時に大きく傾いた。え、そんな、嘘だよね?

 中に湛えられた透明なスープが、きれいな玉子色をした麺の束が、垂れ下がる大きな舌のように床を指して伸びていく。

 目の前に悪夢が映っていた。

 誰かが待ち望む一皿も、私のための一皿も。

 目の前で、墜ちていく。

 ……駄目だ、それだけは!


 手元で鈴の音が鳴った。


 息が詰まった一瞬ののち。私は、目の前の光景に愕然とした。

 口を開けて驚愕する店員さんの胸元から、テーブルの上につく寸前にかけての空中で、散乱した浅蜊のスープパスタが蝋細工のようにぴたりと静止していた。

 否、静止させたのだ。私が。

 水飴のように変形したスープと麺はしなやかな曲線を描いており、浅蜊の貝殻達は各々が好き放題な方を向いて跳ねているように見える。落ちかけた大事な料理は私の念動力サイコキネシスによって、ある種の芸術と勘違いされそうな混沌のまま固められている。

 右手に握り締めていた小鈴は無くなっていた。硬い平面にぶつかった音が近くでしたから、おそらくテーブルの下の床にでも落ちたのだろう。私がスープパスタの落下を止めるために、力を封印する暗示を込めていた小鈴のお守りを、自ら手放してしまったのだから。

「あ…………えっと……」

 今すぐ周囲に何か弁明したいのに、喉が締まって上手く喋れない。必死に言葉を絞り出そうとすると集中が緩みかけて、重力との力比べに負けてしまいそうになる。

 私は両目をかっぴらき、どよめきが聞こえないほどに意識を浮遊物に集中させた。まずは宙を舞う二枚の大皿の向きを慎重に水平に直し、それぞれの真上に麺と浅蜊を割り振ってスープの塊で包んでいく。仕上げに双方をテーブルの上に導いてから緊張の糸を切り離すと、がちゃん、とけたたましく鳴いて二皿の料理が蘇った。雫が少しテーブルに飛んでしまったけれど、スープも麺も具材もお皿の中にはひとまず収まって、十分に食べられそうだ。

 大きく肺を動かして、浅くなっていた呼吸を整える。けれど店員さんの驚いた表情が視界に入って、すぐにフリーズしてしまう。

「あ……ち、違うんです、これは、その……」

 弁明のしようがないほど精巧に力を行使してしまい、私の口からは姑息な言葉しか出てこない。堪らず店員さんから目を逸らしても、見ず知らずのお客さん達の奇異の視線が逃がしてくれなかった。

 こうなることは分かりきっていたはずだった。私は世間でいうところの、生まれついての超能力者だ。物に手を一切触れず意のままに動かせるという、人々が空想の中で思い描いた稀代な力の持ち主。

 そのことを、ずっと秘密にしてきたのに。よりによって私は公共の場で力を明かしてしまった。……最悪だ。

 ずっと周囲の目を恐れながら生きてきた。今のような諸所がお金に飢えている時期なら尚更、世界からどんな扱いを受けるか分からないから。見世物として金蔓のような扱いを受け続けるか、異端者としてれられるか。少なくとも私を紅葉もみじという一個人として見てくれる人はいなくなるだろう。学校に通う時も、社会人として仕事をする時も、普通に生活するだけの時も、家族以外の前で力を晒さないよう気を付けてきたのに。母から貰った小鈴のお守りも、いつだって大事に握っていたのに。それなのに私は、自ら私の世界を壊してしまった。

 どこで間違ってしまったのだろう。スープパスタくらい作り直させればそれで済んだのかな。ああ、こんなことなら懐かしの味なんて求めなければよかった。『ほこほこ屋』の閉店も無視して通り過ぎているべきだったんだ。

「あ、あの」その場に立ち尽くしていた店員さんが声を掛けてくる。世界が終わってしまった今、私に誰が何を言おうと罰は下らない。むしろ私が生まれ落ちた罪を裁かれる羽目になるのだろう。空の右手を握り締めて、大人しく次の言葉を待つ。

「あの! 本当にありがとうございます!」

「……え?」

 予想していなかった言葉に虚を衝かれ、間の抜けた返事をしてしまった。その声が新人の彼女には威圧的に聞こえてしまったのか、店員さんはたじろいで頭を下げる。

「い、いえ失礼致しました、大変申し訳ございません! お洋服に零れたりはしていませんか? 火傷やけどなどは?」

「あ……いえ、大丈夫です。あの、それより……」

 なぜ紙ナプキンを差し出してもらえるのか分からなかった。私はせっかくのご厚意を遮って店員さんに問う。

「なんでしょうか?」

「あの、今の……何も思いませんでした? 私、その……」

 私、念動力を使ってましたよ? なんて台詞はあまりに滑稽に思えて吐き出せなかった。けれど店員さんは皆まで聞かず食い気味に返す。

「あ、はい! 何といいますかその、すごいと思いました!」

「……え、ありがとうございます。って、そうではなくて」

 反応に困るとはこのことを言うのか。奇異な目で見つめ返してしまう店員さんの両目からはしかし、曇り一つ見られない。

 もしや彼女からすれば料理の無事こそが全てで、私の力については救いとしか捉えていないのか。そんな超能力以上に非現実的な思考は、私には信じ難いものに思えた。近所で火事が起きている最中だというのに、夜空に流れ星を見つけてはしゃぐ子供でも見ているみたいだ。ほとぼりが冷めた頃に事の大きさに気付かれる恐れは十分にあるけれど。

「お客様、こちら落とされましたか?」

 出し抜けに店員さんの背後から男性が現れた。主任さんだ。右てのひらに被せた白い布巾の合間から、私が落とした小鈴をこちらへ見せてくる。「……はい、ありがとうございます」私はか細い声でお礼を言い、拾い物をあるべき場所に握り込んだ。

秋川あきかわさん」とテノールの声が呼び掛けると、店員の秋川さんは横に並んだ主任に向き直って応じる。

「確か秋川さん、アレが得意だったよね。あちらのお客様のグラタンがそろそろ出来るから、給仕した時に披露してやってくれるかな。慌てなくていいから」

 主任さんは小声で指示したけれど、なにぶん目の前だから私には丸聞こえだった。アレが得意とは、何のことだろうか。秋川店員さんは察したように「はい」と声に出して返事をし、厨房へ踵を返していった。

「この度は大変失礼致しました。宜しければパスタのお取り替えを受け付けますが?」

 こちらへ頭を下げ丁寧に訊ねてくる主任さんに、私は慌てて「結構です」と返す。私の分はともかくとして、もう一つのスープパスタもテーブルの上に置き去りのままだ。形が乱れているから流石にお出しできないらしい。この一皿の行方はこれからどうなるのか、少し心配になる。

 けれどそれよりも、主任さんはさっきの空中パスタ騒動に何も言わないのだろうか。そればかりが気になって仕方がない。小鈴もお皿も大きな音を立てているから、現場をまとめる人なら私の席での異常に気付いているはずだけれど。

「……お待たせいたしました! ほこほこ特製グラタンです!」

 しばらくすると、斜め前の別席から秋川店員さんの声が聞こえた。今度は一つのグラタンが乗ったお盆を、両手でしかと支えて運んでいる。相手は横並びで座る女子大生二人組のお客さんで、両名とも空中パスタへスマホの背面を向けていたのを私は見逃さなかった。無音カメラで決定的瞬間を撮影されていたかもしれない。SNSで私の顔ごと拡散されたら一巻の終わりだ。

 私は悪いと思いつつお三方を覗き見る。傍でなぜか主任さんが立ち尽くしていたけれど、こちらを咎める様子はない。秋川さんはグラタンをテーブルに置くと、いきなりお客さんに向けて軽く一礼した。

「お客様……本日はご来店、誠にありがとうございます。本日は、えー……、この特別な日にいらしたお客様ということで、お昼の十二時よりその……ささやかなサービスを提供させて頂いております」

 え、そんなこと初めて聞いた。私も一応はサービスの対象者であるはずだけれど、ごたごたがあったせいで忘れられているのだろうか。

 突然、秋川さんがこちらを向いた。何かと思って顔を上げると、主任さんが向こうへ口を動かして何かを伝えているのが見えた。小さく頷き返す秋川さんを見て、彼女が話す途中にもしきりに視線だけ寄越してきたことを思い出す。……もしかして秋川さん、主任さんのアドリブで話してる?

「では、お食事前にお時間を取らせて恐縮ですが……こちらの花をご覧ください」

 私は秋川さんの手元を斜め後ろからかろうじて目視できた。制服の懐か ふところ ら取り出されたそれは、てのひらに収まる大きさの薔薇ばらの頭だ。正確には薔薇をかたどった紙細工であると遠くから見ても分かる。

 その薔薇が、いきなり宙に浮いた。

 風で飛んだのではなく、秋川さんの胸元あたりでぴたりと静止している。

「えっ、すごい!」「どうなってるの?」女子大生のお二人が驚嘆の声を上げた。周囲のお客さんの数名も秋川さんを見てどよめいている。もちろん私は何もしていない。私もしばらく困惑していた。

 けれど“得意だったよね”という主任さんの言葉を思い出して、彼女の神業の正体は初歩的な手品であると思い至った。そうでなければわざわざ小道具を用意する理由がない。そういえば紙類を浮かす手品をタネ込みで紹介した動画をネットで見た気がする。あれはおそらくコツさえ掴めれば誰でもできる芸当に過ぎない。

 それでもお客さんのウケは上々だった。お若い二人なら仕掛けに察しがつきそうなものなのに。互いの人柄とお店の温かい雰囲気が影響し合っているのかもしれない。

「もしかして、さっきのパスタも店員さんが?」

 さっきのパスタと聞いて心臓が跳ねる。興奮覚めやらぬ女子大生さんの質問に、秋川さんは辿々しく答えた。

「はい……そうです。先ほどは驚かせてしまい、すみませんでした」

 違う。それは流石に無理がある。

 そんな私の声無きツッコミとは裏腹に、女子大生のお二人はちらと顔を見合わせてから「すごーい!」と手を叩いた。薔薇を片付けて会釈をする秋川さんに、見ていた他のお客さんの中にも拍手を送る人がいた。隣を見ると主任さんも拍手をしていた。

 たくさんのことへの戸惑いが渦を巻き、しばらく私を放心させていた。自分は夢を見ているのではないかという錯覚に陥るけれど、ここは現実にある飲食店だ。『ほこほこ屋』という半年前まで行きつけだった洋食店であり、今日で閉店する。私は居心地の良いこのお店が好きで、よく浅蜊のスープパスタを食べに来ていた……

 そうだ、私のパスタ。せっかく運んでもらっていたスープパスタが、手付かずのまま目の前で熱を失い続けている。私は慌ててフォークを左手で構え、主任さんに一言断りを入れる。

「す、すみません。すっかり遅くなりましたけど、いただきます……」気まずさを堪えながら言う私に主任さんは応えた。

「はい。

 私ははっと息を呑んだ。

 引き寄せられたように隣を見る。主任さんは私を憶えてくれていた。顎髭を生やした細い顔立ちに、穏やかな笑みが湛えられる。私が社会人の頃から慣れ親しんだ、平和な昼下がりの象徴がそこにある。

 周囲を見回す。天井から注ぐ暖色の光、シックなデザインのテーブルや椅子、温かなスープパスタ。終わったはずの世界の中で、幾度も心を落ち着けてきた居場所がそこにある。

 私は、ようやく気付いた。

『ほこほこ屋』は私の失敗を帳消しにしてくれたのだと。

 世俗を狂わすような力を持つ私を、大きな器で受け止めてくれたのだと。

 目の奥が急に熱くなり、フォークを置いて顔を伏せた。感情の洪水が目からとめどなく溢れてくる。まだ一口もつけていないスープパスタの中に、私の濁った雫が幾つも溶け込んでしまった。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。私はきっとそればかりを声に出して繰り返していた。

 どうして忘れていたのだろう。険しい世界でいつだって日常をくれた人達の優しさを。どうして疑ってしまったのだろう。ごめんなさい。ごめんなさい。

 主任さんは何もせずただ傍にいてくれた。私が落ち着くまでの間、『ほこほこ屋』の変わらない温かな時間を共に過ごしてくれた。


 一皿目のスープパスタを完食した私は軽くお腹をさすって、まだ大丈夫そうだと確信して二皿目に向き合った。色々あってすっかり冷めてしまっても、スープのさっぱりとした旨味はまだ健在といえた。流石に時間を置きすぎたことに勿体無さは感じるけれども。

 元々のお客さんへ届けられなかった二皿目のスープパスタは、秋川さんからのお詫びとして“私さえ良ければ”ということでサービスしてもらえた。小さな胃に収めきれるか最初は不安だったものの、働いていた頃と違って時間に余裕があるからゆっくり挑むことができた。二皿とも食べ終えた頃には、午後二時半過ぎを回っていた。

 レジでお会計を済ませた後、私はお話がしたくて主任さんをつかまえた。丁度良いことに秋川さんも一緒だった。「今までありがとうございました」と私は頭を下げてから続きを言う。こうして言葉を交わす機会も、今日で最後になるかもしれない。

「半年前までのお昼のこと、いつも本当にお世話になりました。私が仕事を辞めるまでの間、『ほこほこ屋』にはずっと支えられてきました。お店の空気もお料理も人の温かさも、大好きでした」

 主任さんは笑みながら聞いてくれていた。隣の秋川さんは知らないはずなのに、感極まって泣いてしまっている。彼女も彼女で『ほこほこ屋』が好きだったのだとすぐに伝わった。

「だからどうか、このお店が終わってしまっても、またどこかで飲食店を続けてくださったら、嬉しいです。近ければまた、必ず伺います。ですからどうか、それまでお元気で」

 互いにお礼を言い合って、二人の店員さんとはそこで別れた。もし世界が『ほこほこ屋』を失った彼らを見ているならば、暗闇へ堕ちる前に相応しい器を授けてほしいと願う。禁忌を侵してなお地に足をつけている私のように。

 出口へ向かおうとする途中の受付近くで、テイクアウトメニューに書かれた特製サラダが目に留まる。そういえば、野菜を食べていないままだったな。「すみません、お持ち帰りの注文をしたいのですが……」私は担当の男性店員さんに声をかけて、一人分のサラダとついでに日持ちするデザートを三つほど買った。

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落としたスープパスタは拾えない 憂杞 @MgAiYK

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