第2話 恋よりも事業のたのし春の星
はっと気づくと、男性のすがたは消えていました。
厚いつけまつ毛のどんぐりまなこをパチクリさせているバイトの子の手の平には、いまはつかわれていない千円札が1枚、枯葉のようにカサコソと載っていました。
そういえば、今日は月刊文芸誌の発売日です。
あのころ、郊外の村から市内の県立高校に通っていた彼は、放課後、女子高に通うスミレが店番をしている時間帯に店に立ち寄ることを楽しみにしていてくれました。
でも、あの朝、彼が乗ったバスは崖から転落して、湖底に沈んでしまいました。
それからスミレはずっと独身を通し、両親から継いだ書店を守って来たのです。
――ありがとう、シンヤさん。
心配して来てくれたのね。
おかげで元気が出て来たわ。
もう少しがんばってみるね。
スミレは集金カバンの内ポケットに、しわくちゃの千円札を大事にしまいました。
☆☆☆☆
そのことがあってから、長い長い歳月が過ぎました。
そのあいだには声をかけてくれる男性もいましたが、スミレは深いお付き合いする気にはなれませんでした。シンヤさんと同じようにアツく文学を語り合えない人は、話していてもどこか物足りなくて、ついついシンヤさんと比べてしまうので……。
その分、書店の経営にいっそう力を傾けました。
趣味の俳句を始めたのもちょうどこのころです。
――恋よりも事業のたのし春の星
定期的に読み聞かせの会を開いたり、文学や歴史の文化講座を開いたり、ホーミーやアフリカ音楽などのミニライブを店内で開催したりしたのは、祖父母や父母がそうだったように、この地域の文化の殿堂を守っているという気構えがあったからです。
*
いつしかシニアと呼ばれる年代に入り、自慢の黒髪にも霜が目立ち始めました。
大型ショッピングモールの出現で立ちゆかなくなった店の閉業を決めたスミレは、コンビニやスーパーのレジ打ち、パチンコ店の清掃バイトで生計を立てる一方、趣味の俳句や小説執筆、史跡歩き、ウクレレ教室などで充実した後半生を送っています。
住み慣れた地域を離れずに済んだことは、独り身のスミレにとって果報でした。
日本海側とちがって雪が少ないこの地方としては相当な降雪があった朝は、早々に家の前を除雪してくれたり、「力仕事があったら言ってね」と声をかけてくれたり、向かいの同年齢の夫婦の労わりと親切に、スミレは素直に甘えることにしています。
けれども……決して憐れんで欲しくないのです。
――憐みは無用にて
オンライン句会でその思いを詠むと、同じ境遇の女性が特選に選んでくれました。
――固く凍みついた土に張り付くように生えている冬の草。「そんなに憐みの眼で見ないでください。春になれば、ぐんぐん伸びて見せますよ」という心に共感する。
理解し合える仲間がいてくれることは、大きな生きるエネルギーとなります。✨
*
新しい年が始まりました。
相変わらずの独り暮らしを、夕方から降り始めた雪が真白に塗りこめていきます。
閉業時、これだけは手放さずに済んだ茅屋も、すっぽりと六花に覆われています。
雪の結晶の6つの花びらを透きとおった便箋にたとえた詩人がいたことを思い出しながら、小さな窓から外を見ると、夜半なのにぼうっと雪あかりがともっています。
――シンヤさん。
さらさらした粉雪が大粒の牡丹雪に変わると、春はもうすぐそこまで来ています。
雪あかり ❄ 上月くるを @kurutan
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