雪あかり ❄

上月くるを

第1話 20年前の文芸誌と古い千円札



 さざ波が立つお堀に、白鳥が2羽、置き物のように仲よく並んで浮かんでいます。


 岸辺にはみずみずしい群青色の菖蒲が咲いていて、柳の古木の枝葉がしなり、空を隠すほど生い茂った葉桜をふるわせつつ、爽やかな5月の風が吹き過ぎてゆきます。


 スミレは黒いヘルメットを取ると、軽く頭をゆすり、長い髪をほぐしました。

 艶やかな黒髪が波打って、小柄な背中のなかほどまで、ゆたかに広がります。


 この節はカラーが流行りですが、スミレはいまだに髪を染めたことがありません。

 まっすぐな髪質は、若いころと少しも変わっていませんし、それがまた、ほとんどお化粧をしない丸顔に似合っているので、思い出せないほど昔から同じ髪型で……。


 わずかな風に他愛もなく誘われた水が、縮緬ちりめんのように細かいさざ波となってお城の石垣に打ち寄せてゆく水面を見ながら、スミレは「ほう……」吐息をつきました。


      *


 コンビニが雑誌を置くようになってから、定期購読のお客さまが激減しました。

 雑誌の売上自体は大したものではなく、配達の費用も捻出できないくらいですが、ついでの外商ができなくなったことが、まちの書店にとっては一番の痛手なのです。


 それに、最近の大手取次のやり方ときたらどうでしょう。

 ただでさえ加速する一方の活字ばなれで悲鳴をあげている老舗書店に狙いを定め、ベストセラーを搬入しないなどの作為で廃業に追いこみ、空いた場所に大型チェーンを出店させるというやり口には、文化の殿堂としての誇りの欠片も感じられません。


 つい先年も、スミレの知り合いの書店さんが、同じ方法で無理やり閉店させられ、亡き夫のあとを継いで懸命に店を守って来た女性の苦労は、水の泡となりました。


 定期的に巡回して来る各版元の営業マンからそんな話を聞かされるたび、曽祖父が創業した書店をひとりで守っているスミレは、見えない敵に身がまえるような、でも半ば諦めるような、それではいけないような……複雑な気持ちに駆られるのでした。


 まったく昨今の社会ときたら、大は小を強者は弱者を足蹴にし、すべて自己責任のひと言で片付けてしまうのですから、人情もなにもあったものではありません……。


      *

 

 そんなことを思いながら、ふと気づくとけっこうな時間が経過しています。

 スミレは長い髪をヘルメットに押しこむと、スクーターにまたがりました。

 

      ****

 

 店にもどってみると、果たしてバイトの女子高生が困ったような顔をしています。

 版元のロゴ入りエプロンの前に突っ立っているのは、どこかレトロな雰囲気のトレンチコートの襟を立て、濃いサングラスをかけた、背の高い男性のお客さんでした。


「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」

 フミエが声をかけても、男性は黙っています。

「店になければお取り寄せもできますが……」


 男性はちらりとスミレを見たようですが、やはりなにも言いません。

 そのさびしげな横顔が、なぜかスミレの胸をザワザワさせるのです。

 

 ――あの、もしかして……。

   まさか、そんなこと。

 

 心臓がドキドキして、頬に血がのぼって来ました。

 スミレは思いきって、男性に話しかけてみました。


「もしちがっていたらごめんなさい、シンヤさん、あなた、シンヤさんでしょう?」

 男性の削げたような頬を、喜色とも羞恥ともとれるかげが、さっとよぎりました。


「あなたなのね! なぜいままで連絡をくださらなかったの?」

 性急な問いかけに、男性は済まなそうに頭を垂れています。

 古びた蛍光灯の下とはいえ、ずいぶん顔が青白く見えます。


「大丈夫? どこか具合がわるいんじゃないの?」

 男性は片方の頬だけで、うっそりと笑いました。

 よく見ると、額や顎に、うっすらと傷痕が……。


 男性は、おずおずとサングラスを外しました。

 すると、あの懐かしい眸があらわれたのです!


 そうそう、この眸。

 好きで、大好きで。

 見つめられると、とろけてしまいそうだった……。


      *


 どちらからともなくふたりが近寄りかけたとき。

 壁の柱時計から鳩が飛び出し6時を告げました。


 ふとわれに返った男性は、いましもスミレの方に伸ばしかけていた手を引っこめると、ズボンのポケットから、しわくちゃになった1枚のお札を引っ張り出しました。


 かわりにバイトの子が差し出したものを見たフミエは、あっと小さく叫びました。

 それは、20年前のあの日、男性のためにとっておいた月刊文芸誌だったのです。

 

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