遺 言

水野 文

第1話

外には冷たい冬風が吹いていた。十二月の風は外を行きかう人たちをまるで慌ただしく払い除けるかのように吹いていた。この季節ではそう珍しくない光景である。人々は街に流れるクリスマスキャロルに耳を傾けながら、くるべきその日に備え七面鳥の準備だのツリーの飾りつけ、子供とサンタクロースについて語り合う日々を楽しんでいた。それはどんなに裕福な家庭でも、どんなに貧しい家庭でもその楽しみに差はないであろう。ただ、キャッシーを除いては……


クリスマスを前に慌ただしく陽気に賑わう街の通り沿いに、三階建ての建物があった。その一室にキャッシーは老紳士と向かい合って座っていた。老紳士は数枚の文章をまるで判事が判決文を読み上げるかのように、感情のこもる余地の無いほど淡々とした口調で読み続けた。キャッシーはその読み上げられる文章を姿勢一つ崩すことなく、老紳士を見据え静かに聞いていた。その姿は威風堂々として毅然としたものであり、一人のレディーとしての姿そのものであった。それもそのはず、キャッシーの父は世界でも有数のホテル王としてこの地方だけでなく各地でも名を馳せた人物であった。その一人娘としてキャッシーは生まれた。幼きときに母を亡くし、父の手一つで育てられたキャッシーはいまや母の美しさと父の威厳をそのまま受け継いだ立派なレディーとなっていた。しかし、その父もキャッシーにとって二十回目のクリスマスを祝う前に母のもとへと旅立ってしまった。これで身内と呼べる者は従姉妹のフローレン以外キャッシーにはいなくなってしまった。そして今、この老紳士の弁護士により父からの遺言をキャッシーは静かに聞いていた。


「以上です」老弁護士は顔を上げると初めて感情のこもった表情をキャッシーに向けた。「なんと酷いこと……」老弁護士の目は哀れみの念で細く輝いていた。

「それがお父様の御意志なら」キャッシーは何かを言おうとする老弁護士をさえぎるように言った。「私は全てを承知致しました。あと、フローレンへのご説明、よろしくお願い致します」キャッシーはゆっくりと立ち上がり、静かにしっかりとした足どりでドアまで近づくと再び老弁護士の方に向き直った。「それでは、私は準備がありますのでこれで失礼致します」キャッシーは静かにドアを閉め、部屋を出ていった。

 

 老弁護士はキャッシーをその場で見送ると一人目を細めて考えた。

(ああ……こんなことがあっていいのだろうか。あんなに、あんなにできた娘さんをこの寒空のなかに放り出すとは……もうあの子には一日の糧、いや一切れのパンを買うお金も残されないとは……)

 キャッシーの父が残した遺言とは、自分のもてる全ての財産、権利をキャッシーの従姉妹のフローレンに全て託すというものであった。キャッシーには何も残されなかった。大きな屋敷も暖かい部屋も、今まで使ってきたあらゆる家具も残されることはなかった。いや、キャッシーに残された財産は二つあった。一つは小さい頃より学んだピアノを奏でるその美しい指、もう一つはキャッシーにとって十九回目のクリスマスに父より贈られた淡いピンクのパーティードレスであった。しかし、今のキャッシーにとってはどれも無用の物となってしまった。

 屋敷に戻ったキャッシーはわずかな身のまわりの物を鞄一つに詰め、部屋のなかで一人考えていた。

(いいじゃないのキャッシー。今まで自分がしてきた生活をそのまま従姉妹にしてもらうんだもの。そして私は今までフローレンがしてきた生活をするだけよ。何も変わりはないわ。別に他人にこの部屋を使われるわけじゃないし、私の好きなフローレンが使うのだもの。きっとあなた達を大切にしてくれるわ) キャッシーはもう一度、部屋をグルリと見渡すと鞄を手に部屋を出ていった。その足どりはどういうわけか軽く弾むような感じであった。数日後、フローレンが老弁護士に呼び出され遺言の説明がされたが、その席にキャッシーは現れなかった。


──── 一年が過ぎた。


 安い古びたアパートにキャッシーは一人住んでいた。玄関にはネームのプレートさえ掛ける場所もなく、以前住んでいた屋敷の部屋よりもはるかに狭いこの空間が生活の全ての場所であった。かつてピアノを奏でていたその美しい指は、今は冷たく忙しいタイプを打つものとなっていた。社交界では華々しい主賓を演じてきたが、今ではそれとは無縁のものであった。落ち目になればこれほど他人とは無縁になれるものなのだろうか?キャッシーは今までのばしてきた美しいブロンドの髪を短く束ねると、キャッシーと同じ歳の娘では到底身に着けそうにない地味なスカートを少しひらめかせて、鏡に映る自分に問いかけた。「キャッシー、今の生活はどう?楽しんでいるの?少しは強くなった?何、その姿。街角の花売りも勤められそうにないわね」キャッシーは少し微笑んだ。「ええ、楽しいわ。身のまわりもすっきりして満足よ。勤め先も決まったし、食べてはいけそうよ。フローレンは楽しんでいるのかしら?……でもね、まだ私がお金持ちだと思って言い寄る男性がいるみたいね。少し悩んだけど、だんだん馴れてきたわ。今では『おあいにくさま。財産は全部従姉妹のものよ』なんてことぐらいは言い返せるようになったわ……」キャッシーは両手でスカートを摘んで軽く会釈のまねごとをしたそのとき、一通の手紙が届けられた。この一年間、手紙など受け取ったことのないキャッシーにはちょっとした驚きであった。差出人はフローレンでクリスマスの日に行われるパーティーの招待状が入っており、是非出席していただきたいと言葉が添えられてあった。毎年クリスマスに業界の関係者や友人を屋敷に招いて行われるパーティーは、キャッシーの家では恒例のものとなっていた。ただ、昨年は父の死のため行うことができなかったし、今回の主催者はフローレンであった。キャッシーは迷った。

(今さら無一文の自分がどうしてこの席に出られるのだろうか?誰が相手にするというのだろうか?しかし、断ればフローレンを一人にすることになってしまう。きっとフローレンは主催者として不安に違いない)

 キャッシーは出席する事に決めた。キャッシーはくたびれたタンスの奥から、まるで封印されていたかのようにしまっておいたピンクのパーティードレスを取り出すとそれを眺めながら、二年前にこのドレスを着てパーティーにでた日のことを思い浮かべた。

(まさかもう一度着る日がくるとは……)

「あら、いけない!私としたことがこれに合う靴がないわ」

 キャッシーは軽い叫び声をあげると棚の奥から陶器の入れ物を取り出してそれを机の上で粉々に壊してしまった。中からは硬貨ばかりが一面に散らばった。

 週ごとに貰える給金は食べていくだけでほとんど残りはしなかったが、それでもこの一年で銅貨、銀貨程度の小銭ばかりをなんとか貯めることができた。キャッシーはそれらをかき集めると、街中を駆けまわってあのドレスに合う靴を探した。はたして靴は見付かった。白く美しい光沢のあるその靴はあのピンクのドレスにピッタリであった。キャッシーは店に駆け込むと、硬貨ばかりをぶちまけてその靴の代金を支払った。誇り高く、威厳ある家に生まれたこのレディーがいま銅貨、銀貨をぶちまけて靴を買ったのだ。店の主人も、他の客もキャッシーをしみったれと罵る目で笑った。しかし、キャッシーの誇りはこのしみったれた買い物で消し飛ぶほど軽いものではなかった。フローレンの初主催のパーティーにふさわしい格好を、父から贈られたドレスにふさわしい物を持つことにキャッシーは誇りを感じていた。たとえその場ではしみったれでもこれから上がる舞台のためにキャッシーは恥と外聞を捨てたのである。威厳と誇りを持って。


 パーティーの日、フローレンは来賓の応対に忙しそうに動きまわっていたが、一人の女性を見るなり飛びついて抱きしめた。ピンクのドレスに白い靴、美しく長いブロンドの髪、そして何処からともなく感じられる気品をたずさえたキャッシーがその腕の中にいた。キャッシーは抱きつくフローレンの肩を軽く撫でた。「いけないわ」キャッシーは不安と喜びで一杯の表情で見つめるフローレンに向かって微笑んだ。「貴方はこのパーティーの主催者なのよ。そのような軽々しい行動はいけないわ。ほら、まだたくさん来賓の方々が見えられているでしょ。あの方たちをお迎えしなくてわ」 

 フローレンはキャッシーに促されるまま、来賓を迎えにいった。キャッシーはフローレンを見守るように会場の隅に引っ込んでいった。二人は明らかに違っていた。それはどちらがどう劣っているというわけではなく、清楚で純情なまだ少女の面影さえ残るフローレンに対して、高潔で風格を携えたキャッシーは誰が見てもレディーとしての資格を十分持っていた。キャッシーは、主賓として招かれ我こそは将来を有望視されているという男性達に囲まれているフローレンを見ながらかつての自分を思い浮かべていた。

「フローレン様でしょうか?」 

 キャッシーは突然の呼びかけに驚いたが、すぐに冷静な態度でその主に対応した。

「いいえ。お人違いですわ」

 キャッシーの冷静な態度に男は思わずあとずさった。

「これは失礼いたしました。あまりにも貴方様が輝いて見えたものですから。なんとお詫びを……」

 男の必死で滑稽な慌てぶりとお詫びにキャッシーは思わず吹き出しそうになった。

「いいえ。よろしいですのよ。フローレンに間違われるなど光栄なことですわ。私も彼女のように振る舞えたらと思うことがありますもの」

 キャッシーのこたえに男は少し安心したような笑顔をみせた。

「本当に貴方のようなレディーに対してとんだ失礼を」

「もうよろしいのですよ。それよりもフローレンならあちらに」  

 そう言いながらキャッシーは幾重もの人の輪に囲まれている女性のほうに手をさした。

「ああ、あれでは私などとても近寄れるものではありませんね。やはり場違いでしたか」

 男はキャッシーの手の先を見ながら笑って言った。

 キャッシーは男の飾り気のない笑顔とともにその服装を見た。確かに所々にシワのある借り物のような夜会服はこの場にはあまりにも貧弱であった。しかしそれはキャッシーとて同じことであった。ピンクのドレスのしたには、ただの忙しいタイピストであるキャッシーがいるだけであった。自分こそこの場にいるべきではない一人に思えた。しかし、この男は違うとキャッシーは思った。借り物のような夜会服のしたには何かそれ以上に輝くものがあるのではないかという気がしてしならなかった。とたんキャッシーはこの男に、ほのかな興味がわいてきた。

「今夜はどうして出席なさったのですか」

「ええ、本当は私などとてもこの場に来ることのできる者ではないのですが、無理に事務所の社長と一緒に連れてきてもらったんです。一度でいいからこの建物をじかに見たかったんです」

男はキャッシーの問いをきっかけに、パンパンの水玉風船がはじけとぶように自分のことを語りはじめた。名前がジャンであること。自分は建築事務所の見習い技師であること。そしてなによりも企業で募集する新ホテルの完成図の懸賞に応募すること。そしてその参考のために是非このパーティー会場の建物を見たかったこと。ジャンが次から次に語りだす自分の夢をキャッシーは小さい頃父から話してもらったおとぎ話のように目を輝かせて聞いていた。ジャンもキャッシーの輝く目についつい熱をいれて話した。いつしか二人は屋敷を出て庭にいた。クリスマスを迎える聖なる夜にふさわしく空からは粉雪が降り、あたりを白い世界へと変えつつあった。にぎやかに音楽を奏でる屋敷を二人は庭からながめていた。

「なるほど……ここからなら中から見るよりも外見が把握できる」

 ジャンは感謝の念を込めてキャッシーを見た。その瞬間ジャンの心は奪われた。キャッシーはただ手を後ろに組んだままジッと屋敷のほうを見て、その目は亡き父を思い浮かべていた。そしてその姿にわずかな光が白い地面から反射してピンクのドレスにうつり、それはまるでそう、大寺院で見た女神の羽織のように美しく、そしてその靴は雪の白さよりもひときわ白く輝いていた。さらにブロンドの髪は降りゆく雪をとかすほどの暖かみをもっており、指先までにもその輝きがあふれていた。ジャンはかつて狩場で女神アルテミスを見た少年のようにすべてを奪われてキャッシーを見つめた。

「ありがとうございます」ジャンはそう言葉をかけると、うちに秘めた熱い思いをこめて言った。「どうやら僕は今夜、とてつもない贈り物をもらったような気がします。是非、貴方に見てもらいたいもです。もしよろしければ、いえ、こんなことはお願いできるか。どうか、明日、私の部屋まで来ていただけないでしょうか」

 キャッシーはハッと我に返えるとジャンに驚きの目をむけた。

「失礼なことは百も承知です。貴方にだけに見て欲しいのです」

 キャッシーは微笑みを返すと優しい声でこたえた。

「私でよろしければいつでもお招きにあずかります」

 二人は雪の夜空に笑った。

 

 夕方、キャッシーは薄汚い建物のドアの前にたっていた。短くまとめたブロンドの髪に地味なワンピース、いつものキャッシーであった。ドアが開きなかからジャンが顔をのぞかせた。キャッシーを見たジャンは驚きとともに感嘆のいろをあらわした。

「驚きになりまして。これがほんとうの私です」

 キャッシーは軽く会釈をした。ジャンはドアを全開にしてキャッシーを招き入れた。キャッシーは部屋を見渡した。何もない部屋、飾りようのない部屋、忙しそうに生活している部屋、自分の部屋と同じでキャッシーは思わずその顔に笑みを浮かべた。

 ジャンはキャッシーを部屋の中央にある大きなキャンバスまで招いた。

「誤解しないでください。僕が驚いたのは、僕が昨夜見た貴方は貴方であったことに驚いたのです」       

 キャッシーはキャンバスを覗き込むと思わず声を上げた。

「まあ、なんて壮大なホテルなんでしょう」

「一晩で描きあげました。貴方のイメージが消えないうちに」

 ジャンは失言を覚悟で言った。キャッシーはただ言葉を失った。もはや二人に説明はやぼというものであろう。これ以上は結ばれるべきものが結ばれた、そして二人は自然にそれを受け入れた。ただ、それだけなのだから。


 キャッシーはアパートで一通の手紙を読んでいた。フローレンに近況を報告してすぐのことである。もちろんジャンのことも告げた。手紙の主はあの老弁護士からだった。キャッシーは静かに手紙をひざの上において、なんの飾りけもない窓から差し込む光をながめていた。そのうちにキャッシーはいまにもくずれそうな木の階段をこれでもかとばかりに駆け上がってくる音を聞いた。足音はキャッシーの部屋の前で止まった。キャッシーは静かに立ち上がり、ドアをあけた。とたん、男が部屋に飛び込むように入ると、キャッシーを見るなり興奮した様子で抱きしめた。  

「やったー、とったんだ。大賞だ!僕のが採用されたんだ」

 キャッシーは飛び上がって一緒に喜んだ。そして一息はいったところでジャンに言った。

「これから私と一緒に弁護士のところに行ってもらいたいの」

「弁護士?どうしたというのだい」

 ジャンはキャッシーの肩を抱きよせた。

「私にも分からないけど、この手紙にはあなたの名前もでています」

 キャッシーはそう言うと手紙を渡した。ジャンはそれを見ると肩を軽く上げてキャッシーに目を移した。

「何だか分からないけど。どうやら君に関係があるらしい。僕はかまわないよ」

 ジャンの言葉にキャッシーはうなずいた。そして二人は先程の興奮の余韻を残しながら、部屋を出ていった。


 二年以上も見ていない建物は相変わらずであった。二人は三階の一室のドアをノックした。あの老弁護士の声がドアをはさんで聞こえると、キャッシーとジャンは部屋に入った。二人を迎えたのは机に腰をかけた老弁護士とその老弁護士の隣にいたフローレンであった。キャッシーとジャンはお互いに顔を見合わせた。そんな驚く二人を観察するかのように老弁護士は声をかけた。

「君たち二人のことはここにいるフローレン嬢から聞きました」老弁護士はチラリとジャンを見た。「君たち二人が結ばれること、それは心より祝福をします。ただ、ジャンさん。あなたはそこにいるキャッシーがホテル王である父の遺産全てを受けることができないことはご存知ですか?」

 老弁護士はメガネをかけなおしてジャンを見た。

 ジャンは老弁護士の質問らしからぬ質問にその目をジッと老弁護士にむけていた。そして、それはいままでのジャンがジャンであるための、それでいて自分がキャッシーという一人の女性を愛していることを訴えるかのごとく言葉を発した。

「たとえ、ここにいるキャッシーが親のいない哀れな孤児院の女性だろうと、いや、全ての悪事を重ねた父親がいるとしてもそれがなにになるのですか?私が悔しがり、呪いの言葉でもはけばご満足なのですか?」

 ジャンは老弁護士の好奇な目からキャッシーを守るように立ちはだかった。

 老弁護士はフローレンの顔を見ると深くうなずいて、ジャンに丁重にことわりの言葉を述べてから机の中から一枚の紙切れをだして読み上げた。

「もし、キャッシーが(私の娘が)その身分において、貴殿(弁護士様)の目において申しぶんのない者と結ばれるとき、私の財産、その他の権利を姪のフローレンと半分ずつ分け合うようにする」老弁護士はふと顔を上げてキャッシーを見ると、初めて笑った顔を見せて一言つぶやいた。「お父様はあなたのことを一番心配していらしたようです」

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