かつての失敗

 一度目の受験に失敗し、私は神に見放された者だと知った。


 だから二度目の受験に挑むにあたり、けして神頼みはすまいと決めた。守ってもくれない存在ものに対してすがりつくのは、これ以上ないほど馬鹿馬鹿しく思えたからだ。

 しかし今年がラストチャンスとあっては、不安は日を追うごとにいや増すばかりで――年の瀬ともなれば、まんじりともせずに日々を過ごしたものだった。


 そして、元日の朝。


 心の弱い私は己の誓いなど容易たやすく破棄して、再び神にすがろうと近所の神社を訪れた。

 賽銭さいせんに関しても、昨年同様の五円ではさしたる効果が見込めぬものと勘違いした私は――今から思えば愚かしいことこの上ないが――今年は奮発して五百円を投入しようなどと考えていた。

 そんな若く愚かな私が賽銭箱の前に立ち、道すがらの自販機で作った五百円玉を取り出そうと、ジーンズのポケットに手を入れた瞬間――不意に携帯電話が着信を告げた。


 その画面ディスプレイに映ったのは、そらんじることができるほど見慣れた番号だった。


「――もしもし」

「お正月だよ? まずは『あけましておめでとう』でしょ」


 電話の向こうにいる良く知った声の女性は、呆れたようにそう告げた。


「受験生に盆も正月もあるかよ」

「去年で終わってれば、今年は盆も正月もあったのにねー」

「おいおい、なんだよ。正月早々、現役合格者の嫌味かよ?」

「応援してんのよ、これでも」

「――解ってるよ」

「それにアンタは、下手な励ましよりもこういうほうがやる気出るでしょ?」

「よくご存知で」

「当たり前じゃない、だって――」


 それまで続いていた、小気味の良い会話がふいに途切れる。

 その先の言葉を言いよどむ彼女に対し、私はこともなげに言った。


「――それで? 新年の挨拶とか、の叱咤激励のために電話してきたわけじゃないんだろ?」

「ん、まあね――実は」


 数秒前とはうって変わって、明るい調子で彼女は続けた。


「今度、新しく付き合う人ができてさ」


 ――雪国の元旦はとても寒い。

 吐く息は嫌でも白く、周囲はまるで白猫の背中のように柔らかい雪に覆われている。放射冷却で発生した白い霧は、五里霧中ホワイトアウトをそのまま表していた。

 田舎の小さな、とても小さなこの神社には、寒風をしのぐ樹木すらない。まして私は長居をする気もなかったので、手袋どころかろくな防寒をしてはいなかった。

 そんな中で、いったい自分は何をしているのだろうか。

 己の愚かしさに、思わず嘆息する。


 よせばいいのに、ありもしない期待を抱いて電話に出た挙句――勝手に裏切られた気分になっているのだから。


 そんな身勝手を神が見通して、罰を与えられている気分だった。


「その相手っていうのが――」

「例の大学の先輩ってんだろ? 今までさんざん、きみの愚痴を聞いてきたのは誰だと思ってんだ」


 いつからか、私は彼女のことを他人行儀に「君」と呼ぶようになっていた。理由は――恋仲である際には名前で呼んでいた彼女のことを、破局してからはなんと呼んだらいいのかわからなくなっていたからだ。


 思い返せば、付き合い始めの時分。


 それまでの友達同士の頃と同じ調子で、相手のことを変わらず名字で呼ぶ私に向かい、初めて口にした彼女のわがままが――


「好きな人には、名前で呼んで欲しいな――」


と、いうものだった。


 ――だがしかし。


 今となっては、そのわがままはもう、私のものではない。

 そしておそらくは、これから彼女が口にするのがきっと――私に対する最後のわがままなのだろう。

 寒さ以外の要因で震えようとする身体を強張こわばらせ、私は携帯電話を握りしめた。


「そうだね、ごめん――今まで、本当にありがとね。でも安心して、もう――」

「『電話もこれっきりにするから』ってか?」


 一瞬の沈黙。

 見えなくても判る。

 きっと彼女は今、口元を抑えて目を見開いているはずだ。

 それは驚いたときの、彼女の癖だった。


「――よくご存知で」


 意趣返しのように、先ほど自分が発した言葉を返される。


「当たり前だろ。だって――」


 そこから先の言葉を語ることは、今の私にとって――自死にも等しい行為だった。

 しかし、ここで言いよどめば、その先はきっと彼女に言われてしまうだろう。

 かつて彼女は私のことを誰よりもよく知り、そして私は誰よりも彼女を知る間柄だったのだから。


 を始めたのは、私からだった。


 だから最後も、私から口にしてやろう。


 彼女が最後のわがままを告げるなら、私も最後くらいは意地を張って見せるさ。

 

「――恋人んだから」

「――うん、そだね」

「なにをしおらしくしてんだか。らしくもない」

「なにそれ、人がせっかく――」

「君はもう、に余計な気をつかってる場合じゃないだろ。とっとと初詣にでも行って、二人の幸せでも祈って来いよ」

「言われなくても、これから行くんだから」

「さいですか。ま、せいぜいお幸せにな」

「そっちこそ――今度こそ、ちゃんと受かりなさいよ」

「そう思うならいい加減、勉強させてくれよ。受験生に盆も正月も無いって言ったろ」

「そっちは初詣、行かないの?」

「行かないよ――」


 ふいに、どうでもいい嘘が口をついて出る。

 その瞬間、すべてが白に包まれた世界の中で――私だけが独り、真っ黒で汚らわしい存在に思えた。


関東そっちと違って、こっちは大雪なんだ。外を出歩いて滑って転んだら、それこそ洒落にならんだろ」


 見えないことをいいことに、嘘に強がりを重ね、もはや取り返しはつかない。

 けれどもそれで痛む心など、とっくに凍り付いていた。


「それもそうだね。じゃあ――」


 後の予定が気になるのだろう。

 名残惜しさも感じさせずに彼女は言った。


「邪魔してごめんね。頑張って」

「ありがと。そっちもお幸せにな」

「うん。じゃあね」

「ああ――じゃあ」


 いつものように「また」と言いかけて、私は口をつぐんだ。

 それはもう二度とかなわないことなのだから。


 震える指で通話を切り、そのままジーンズのポケットへ再び手をやる。

 苦も無く見つかった大きな硬貨を握りしめながら、私は逡巡しゅんじゅんした。

 願うべきことが、判らなくなっていたからだ。


 ――本当に願いたかったことはなんだろう?


 大学合格?


 彼女との再会?


 それとも――彼女と先輩の破局か?


 いずれも切実な願いではあるはずなのに、そのいずれもが身勝手で卑小な願いにしか思えなくなっていた。どれが叶っても、私はそれ以上に大切な何かを失う気がしてならなかったのだ。

 だから私は、これ以上何も失うまいと――もっとも今の自分から縁遠いことを願うことにした。


 ポケットから投げるようにして五百円玉を放り出し、

 首が千切れるほど過剰に深く二礼をしてから、

 不必要に大きな柏手かしわでを二度打ち、

 最後は膝に額を付ける勢いで一礼をして、

 手を合わせながら心の中でこう願ってやった。


 神様、どうかお願いです。

 大学へは自力で合格します。駄目でも後悔はしません。

 加護や奇跡も望みません。自分のことは自力でやりとげます。

 だからどうか、

 五百円この分の加護が得られるならぜひ、

 それはすべて、彼女の幸せに与えてあげてください。

 末永く、彼女が笑顔でいられますように――。


 それが叶わなければ――その時は、私はあなたを恨みます。

 どうか、見守っていてください。


 心の底から、そう祈ってやった。


 すべてを終えて、思わず口から出た大きな白いかたまりは――決して願い事などではなかった。




   *




 その後、月日は流れ。

 私の元へふたつの知らせがほぼ同時に届いた。

 ひとつは、志望校からの合格通知。

 もうひとつは――友人伝いに聞いた、彼女の破局だった。




   *




 本当に彼女の幸せを願うなら、神に祈るのでも、見知らぬ先輩に任せるのでもなく――どれほどみっともなくて、微力であったとしても――己が彼女のために努力をするべきだったのだろう。

 そうすることもせず、ただ神に祈るだけで何かを為した気になっていたのが、私の失敗である。

 その後、私と彼女の連絡は途絶え、今に至る。


 己のあやまちに気付いて以降、私は初詣へは出向いても、何かを祈ることはしなくなった。

 賽銭を投げ、二礼二拍手一礼を行うが――心の中で呟くのは、いつも同じ言葉だ。


「どうか今年も、余計なことだけはしないでください」


 初詣の正しい作法を知ったのは、それから十年以上も後のことである。

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初詣の想い出 ~私の決意と願いの話~ ささたけ はじめ @sasatake-hajime

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