夜鷹の名

初音

夜鷹の名

「お前か。噂の夜鷹は」


 警官は煙管の煙をふーっと吐いた。


「へえ、あたし、有名人なのかい」


 女は悪びれもせず、にやりとした笑みさえ見せた。


 この取調室には二人きりしかいない。窓はなく、女が逃げるとすれば扉からということになるが、扉の外にも帯刀した警官がいる。強行突破したところで捕まるのがオチだ。悪くすれば斬り捨てられて命もないかもしれない。

 扉には小さな格子窓がついており、外の警官にも話は聞こえる。女を取り調べているこの警官だけなら色仕掛けを駆使して言いくるめられるかもしれないが、外に立っているもう一人には通じないだろう。

 観念したように、女はだらりと背中を丸めた。


 警官は調書に視線を落とした。


「先月から少なくとも五件、訴えが出ている。齢二十歳くらい。その夜鷹を買って事に及んだと思ったら、いつの間にか朝になっている。で、有り金全部盗られている、とな」

「あたしゃ代金をいただいただけだよ」

「夜鷹の相場はせいぜい一銭と聞く。有り金全部はぼったくりだ。全部で何件やってる」

「さあね。今回のは認めるよ。現行犯だし。でも、それ以外は知らないね」


 不遜な態度を見せる女だが、警官も警官で、それに激高するわけでもなく淡々と何やら調書に記入している。


「では質問を変えよう。なぜこんなことをした」

「金がないからに決まってるだろう。あたしゃね、そこそこ売れた芸妓だったのさ。芸は売るが身は売らないと決めていた。それがあたしの価値を高めた。けどね、足をやっちまって、クビになったのさ」


 確かに、かつては売れっ子だったのだろうと思わせる風格のようなものが女にはあった。一見するとみすぼらしい風体だが、きちんと結い上げられた髪には乱れがないし、着ている着物だって、色あせてはいるもののかつては鮮やかな朱色をしていたのだろうと察しがつく。


「それで食い扶持を稼ごうとしたのか。男たちを騙して」

「そうだよ。なんでこのあたしが汚いオヤジどもと寝なきゃならないんだ。あたしを買うって決まったら、さっさと眠り薬を飲ませて、有り金もらってずらかるのさ」


 女は、諦めたような溜息をついた。「その言い方だと、やはり他にもやっているな」という警官の追及に、女は肯定も否定もしなかった。


「さて、名前を聞きそびれていたな。なんという名だ」

「最初に名乗っただろう。田中ハルだ」

「本当の名を聞いている」

「なんだよ。これが本当の名だよ」

「名乗る時に、一瞬ためらうような素振りがあったな。顔つきも少し変わった。それに、『田中』という苗字はとっさに思いつく苗字の代表格だ。せっかく誰でも苗字を名乗れるようになったのになァ。意外と皆安直な苗字をつけるものだ」

「あんた、日本中の田中さんに謝りなよ」


 ふむ、と警官は女を見据えた。


「本名を名乗れない事情があるのか。さては前科者か」

 

 女は答えなかった。だが、ややあって諦めたような笑みを浮かべた。


「前科、といえば前科かもね。あたしは生まれつき、あんたらに追われる身だったんだから。まあ、今こうしてとうとう捕まっちまったんだから、もう、いいか」

「どういう意味だ」

「あたしの父親は、たぶん、近藤勇だ。新選組の」


 警官の表情に初めて変化が生じた。処刑されて二十年が経とうとしているのに、その名には思うところがあるらしい。新選組に親でも殺されたのかもしれない。


「たぶん、とはどういうことだ」


 女は少し間を置き、「おっしゃる通り。田中ハルは偽名だよ」とため息混じりに打ち明けた。


「あたしの名前、イサミと書いてユウっていうんだ。母さんは子供のころに病気で死んだけど、近藤勇が処刑された時の瓦版を後生大事に持ってた。手掛かりはそれだけ。母さんは府中の宿で客を取ってたことがあったらしいから、馴染みの客の一人だったんだろうな、近藤は。御一新の後、好きな苗字を決めていいとなったら、母さんは『大久保』を名乗った。近藤勇の変名だったんだろう?大久保大和おおくぼやまと


 警官は黙りこくってしまった。煙管を置き、腕を組んでいる。扉の格子窓から、見張りの警官が室内をじっと見ているのに女は気づいたが、何事もなかったかのように話を続けた。


「確証はないけどね。たぶん、そうだと思うよ。大罪人、近藤勇の私生児。それがあたしの前科さ。盗みとどっちが重い罪なんだろうね。まあどっちでもいいか。しょっ引いたらいいさ。それで、維新志士の皆さんの恨みを晴らせばいい」


 ずっと黙っていた警官は、ようやく口を開いた。


「もう二十年も経っている。今更新選組だというだけで、ましてや娘かもしれないというだけで、罪に問うような真似はしない」

「そうかい。じゃあ盗みの方でいいよ。さっさと牢にぶちこんでくれ。牢の中なら少なくとも雨風はしのげるだろ」


 警官は、さらに何かを書きつけた。そして、扉の向こうにいる警官に声をかけた。


「調べは終わりだ。こいつを牢屋棟へ」



 女の身柄は扉の外にいた警官に引き渡された。取り調べをしていた警官と同い年くらいの中年の男だ。見張りを若造に任せないあたり、人手不足か何かなのか。はたまた女が本当に逃げ出す可能性を見越したのか。どの道、女にとってはどうでもよいこと。

 女の手に繋がれた縄をぐいと引っ張りながら、中年の警官はずんずんと警察署の建物を出ていく。女は抵抗することなくついていった。

 

 外に出ると、少しだけ冷たい風が吹いた。夏が終わる。寒くなれば夜鷹を続けるのも難儀するだろうから、今回捕まったのは女にしてみればむしろ都合のいいことかもしれなかった。


 牢屋は隣の建物のようだ。

 だが、その警官は中には入らず建物の前を通り過ぎた。そして、小さな路地に入った。


「手を出せ」

 

 警官の鋭い目つき。女に、拒否という選択肢はなかった。


 警官は、胸ポケットから小刀を取り出した。鞘からすっと抜くと、女の手に近づけていく。女は斬られるとでも思ったのか、目をぎゅっと瞑り体をこわばらせた。だが、女がおそるおそる目を開けてみると、手首には切れた縄がはらりとぶら下がっていた。


「え?」


 不思議そうな顔をする女に、警官はこう言った。


「近藤局長には世話になった。目を見ればわかる。確かにあんたは局長の娘御なんだろう。……これを」


 警官は再びポケットから何かを取り出した。今度は、財布だった。女の手から縄を回収すると、代わりにその財布を押し付けるように握らせた。


「多くはないが……これを足掛かりに。せめて、局長の分も幸せに生きてくれ」


 警官は、くるりと踵を返した。


「待って、あんた一体……」

「藤田五郎。警察官が全員維新志士とは限らない」


 藤田と名乗った警官は、雑踏の中に消えていった。

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夜鷹の名 初音 @hatsune

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