街に雪が降る

サトウ・レン

街に雪が降る

 もう暖かいところにいるから、十二月に雪なんてほとんど見れないよ。

 じゃあ、僕のいるところですこしはやめの雪を見たら、すぐに連絡する。



 窓越しに舞いはじめた雪を見て、ふいに思い出したのは、感傷的になってしまった私と冗談めかした彼の間での短いやり取りだった。私の住む街にも、雪が降っている。しんしんと降り落ちるような大粒の雪ではない。風に、ひらひらと揺れながら、地面についてはすぐにとけて消えていく、ちいさな雪片を見ながら、その儚さはいまの私に似合いだ、と思った。


 朝霞あさかさん、きみにこの仕事は向いてないよ。


 もう一年近く経つのに、その言葉はいまでも、前触れもなく突然よみがえり、私の心を苦しめた。


 そんなの、私が一番よく分かっている。いっそ吐き出してしまおう、と思った言葉は外に出ることなく、私の身体のうちだけ駆け巡って、消えてしまった。結局私はいままでそれしか考えられず辿ってきた道を、退職、という形で諦めることになったわけだが、きっかけは間違いなくあの言葉だった。


 直属の上司は、とても優しいひとだった。決して傷付ける言葉を平気で吐ける人物ではなかった。だから恨む気持ちは、何ひとつない。私にはつまり才能がなかったのだ。才能がある、と勘違いしたまま、進み続けた先の未来を私よりも深く想像して、あのひとは私に言ってくれたのだ。向いてないよ、と。


 パソコンのキーボードを叩く指を止めて、私はひとつ息を吐く。趣味で書くラクガキのような絵は、完成の形に持っていくこともできないまま、やがて削除されるだろう。私自身の手によって。


 本当に、どこまでも無駄な一年になってしまったかもしれない。


 以前の会社を退職した時、私は辞め癖が付いてしまったのかもしれない。地元に戻った私は、実家から通う形で、雑貨の販売、運送会社の事務、飲食店のホールスタッフ……といくつかのアルバイトを転々とするようになった。私は決して不真面目なほうではなく、自分で言うのもなんだが、どの職場の人間からの評判も悪くはなかった、と思う。でも長続きしない。特別つらい出来事があったわけでも、嫌なことがあって苦しんだわけでもない。


 漠然とした不安、それに耐えられなくなるのだ。


 呪縛、という言葉が頭に浮かぶ。


 上司の言葉が、抗うこともできずにその仕事から逃げてしまったような感覚が、私を呪い、縛り付けているのかもしれない。


 気持ちを切り替えようと、一週間くらい見ていなかったパソコンのメールを確認することにした。


〈ぼくの住む街に、今冬最初の雪が降りました。あなたの街ではどうですか? ……なんてね。何年か前に約束したよね。同窓会の時、覚えてる? きみが暖かいところにいるから、ぼくの住む街に、はやめの雪が降った時には教えるよ、ってやつ。いやごめん。実は忘れてて、でも今年になって思い出したんだ〉


 長く見ていなかったアドレスからメールがあった。雪を見て、彼の言葉を思い出していたばかりの私は、その偶然に驚いてしまったが、それと同時に、彼らしいな、とも思ってしまう。必要以上に、自ら距離感を近づけてきたりはしない。でも寂しい時や落ち込んでいる時に、もっとも身近にその存在を感じられる。彼は、そんなひとだった。


 あぁ、そっか。彼には、伝えていなかったな。私が地元の雪国に戻ってきていることを。


 彼は、中学と高校が一緒だった。卒業後に、私も彼も一度、地元を離れたのだ。私は福岡にある専門学校へ行き、彼は確か東京の私立大学だ。最初の頃はお互いにメールのやり取りだったり、手紙を交換してみたり、とそんなことをしていたが、あまり長くは続かなかった。すこしずつ目に見える周囲のことで私は手一杯になってきて、向こうで彼がどうだったかは分からないが、おそらく彼も似たような状況になったのだ、と思う。


 私と彼のことを知る共通の知り合いには、

『あれ、もう遠距離恋愛は終了?』

 と、からかわれた。


 私たちは、恋人同士ではなかった。たぶん。すくなくともはっきりと言葉にして、自分たちの関係を確かめ合ったことはない。仲の良い友人だった、と私は考えている。ただ友人と恋人の境目なんて、意外と曖昧なものだ。


 はじめて会ったのは中学一年の時だ。私と彼は同じクラスだった。クラスメートだけど、あまり会話はなく、印象は薄かった。クラスメートだったその時期も含めて、中学時代の彼との関わりは、ほとんどなかった。共通の趣味や話題でもあれば違ったのかもしれないが、好みは似ていなかった。彼はスポーツ観戦全般が好きで、私は小説や漫画をひとり読んでいるのが好きな人間だったし、部活も彼は幽霊部員だったが野球部で、私は絵画といったいわゆる芸術作品というものには興味を持てなかったが美術部だった。ただ漫画が好きでそれなりに絵心はある、とそんな程度の理由で、友達に強引に誘われて、私は美術部員になったのだ。


 ただこの部活選択が、私にひとつの夢を抱かせるきっかけになった。


 芸術作品への興味はあまり強く抱けなかったが、とは言っても、絵やイラストに対する興味自体は美術部に入ることで増していったように思う。


 抽象的で不明瞭に描かれた世界の美しさも確かに分かる。好きなひとを否定する気持ちはひとつもない。だけど、何よりも私の心を強く惹いた表現は、


 広告デザインだった。


 街中のいたるところで誰かに伝えるために創られたそれらの中で、特に私の記憶に残っているのが、駅のホームで偶然見掛けた、とある清涼飲料水のメーカーが出していた広告だ。缶のジュースから飛び出す液体が文字となり、その会社のメーカー名を描き出す、という写真と絵が混じり合った広告に、当時の私は魅了された。それ以降、あらゆる広告が、私にとって気になるものになった。高校生になったくらいの頃からは、大袈裟ではなく、私の生きる意味になっていた。


『あれ、朝霞さん? 同じ高校だったんだ……。同じ中学のひとなんていないと思ってたから、びっくりしたよ』


 入学式の日、私に気付いてそう話しかけてきたのが、彼だった。


 私と彼が入った高校は、地元の私立であることは間違いないのだが、私たちの住んでいた地域の子があまり行くようなところではなかったのだ。


 私には当時、憧れのひとがいた。


 それは身近なひとへの恋心として使われる、憧れ、ではない。もっと遠い存在だ。私と同じ地元出身の、有名なグラフィックデザイナーだ。私が広告デザインにのめり込むきっかけになった、あの清涼飲料水の広告を作ったのも、そのひとだ。そのデザイナーの出身校ということで、私はそこを選んだのだ。別にその学校にデザイナー科みたいなものがあるわけではなく、普通科しかないのだが、憧れ、というのは本当に怖いものだ。良くも悪くも、どこまでも勢いがつく。


 高校一年の時のクラスメートで、私と同じ中学校の出身者は彼しかいなかった。


 彼がなぜその高校を選んだのか、はっきりと彼の口から聞いたことはない。ただ想像することはできる。きっとその想像を口にしてしまえば彼は嫌な気持ちになるだろう。誰かに言ったことは一度もない。


 中学時代の、特に後半の頃、彼はあまり周囲との人間関係がうまくいっていないように見えた。私はその頃、彼とはクラスも違っていて、そもそも見掛けること自体すくなかったのだが、たまに見る彼の雰囲気に他者を避けるような色合いを感じ取ったのだ。


 同じ中学の人間があまり行かないだろう高校をわざと選んだのだ、と私は勝手に想像している。


 学力的にも、もっと有名な進学校だって彼なら合格していたはずだ。だから余計にそう思うのかもしれない。


『同じクラスにいた元々の知り合いが、朝霞さんで良かったよ』

 と言っていたこともある。もっと密接な中学時代の同級生じゃなくて良かった、という意味だろう。


 高校生活は私にとっても彼にとっても地続きではない、新たなスタートに近くて、唯一のかすかな地続きがお互いだったのだ。彼がそのことをどう思っていたかは分からないが、私はまったくゼロからのスタートではないことにほっとして、特に最初の頃は、よく彼に話し掛けに行っていた。


 高校の時に、グラフィックデザイナーになりたい、と具体的な夢を持ったが、揺るぎのない覚悟があったわけではなく、心はいつも揺れ動いていた。自分には無理かもしれない、とか、学校の先生が薦めてくれる進路のほうが自分には合っているのではないか、とか、卒業が近付けば近付くほど、迷い、不安になった。


『暗いね。……あ、外のことだよ』

 と冗談めかして彼が言ったのは、私が泣いている時だった。進路もそうだが、当時の私は本当に悩みが多かった。高校生なんてそんなもんだよ、と言ってしまえばそれまで、なのだが、他のひとが悩んでいるから、私の苦しみが減る、というものでもない。


 離婚危機にあった両親、同級生との人間関係、初めて経験する失恋……と、特に一番つらいことが重なった時期、放課後ひとりになった教室で、私は思わず泣いてしまったのだ。高校二年の冬、外は暗くなって、雪がちらついていた。


 彼が、ぼさぼさに伸びた長めの髪をかきながら、困ったようにほほ笑んだ。


『見られたくなかったな』

 恥ずかしさを隠すように、私は彼から背を向けた。


『ごめん。ちょっと忘れ物しちゃって』

『するな』


 彼が忘れ物らしき何かをかばんに入れる音が聞こえてきた。そのまま帰るだろう、と思っていた。はやく帰れ、と願いながら、その心が同時に、帰らないでくれ、と祈っていた。


 向けた背のせいで、その姿は見えなかったけれど、椅子を引く音が聞こえた。


 近くに誰かがいる安心感は間違いなくあった。だけど何かをしゃべりかけられることは嫌で、不安だった。面倒くさい思考だが、それが本心だったのだから仕方ない。


 彼は、何も言わなかった。


 元々の彼の性格もあったのかもしれないが、高校時代の私たちは中学の時とは反対に関わり合う機会が本当に多かったから、私の性格を察してくれたのかもしれない。ここであれやこれや言われるのは嫌がるだろう、と。


 どのくらい無言の時間が続いたかは覚えていないが、確か私が背を向けたまま、ありがとう、もういいよ、と言って、彼に先に帰ってもらったのだ。私の涙がしっかりと止まったタイミングで。失礼な態度なのは分かっていたけど、泣き腫らした顔を見られたくはなかったのだ。


 これをきっかけに、お互いが意識しあって、やがて付き合うようになる。どこかでそんな関係を期待していたところはある。だけど実際は、意識してしまったせいで、私は必要以上にそういった特別な関係になりそうな話題や状況を避け、友達である、と自分自身に言い聞かせた。


 私と彼を知る共通の知り合いが、遠距離恋愛、とからかったのも、私たちがそういう関係だったからだ。


 結局離婚、という形を選ばなかった両親に背中を押されるように、卒業後の私は福岡へと向かった。たぶん両親が離婚していたなら、私は就職を選んでいた、と思う。


 その専門学校を選んだのも高校の時と同じ理由で、憧れのひと、の通っていた学校だったからだ。一本気になれず、揺らいでばかりの高校時代だったが、高校三年の時に、あのひとの講演会を見に行ったことが最後の一押しになった。


『クライアントの未来を、広告に宿すのが私の使命だと思っています』


 そう力強く、メッセージを放つ姿を見て、

 専門学校のグラフィックデザイン科に入ることに決めたのだ。卒業後は、あのひとのいる広告代理店の面接を受けたが、落ちてしまった。落選の知らせのショックはあまりにも大きくて、まったく別の業種に行こうとも考えたが、いまさら引けない、という思いもあり、私はちいさなデザイン事務所に入り、そこで出会ったのが、山川さん、という男性のグラフィックデザイナーだった。


 上司である山川さんはとても優しいひとで、私のことをすごく気に掛けてくれたが、仕事の面で山川さんは、私をまったく評価していなかったはずだ。


 朝霞さん、きみは不明瞭な未来にこだわり過ぎて、いまをしっかりと見据えることを忘れているよ。


 あれは事務所に入って、二年目だっただろうか。山川さんは私にそう言って、すこし長めの休暇を取ることを勧めてくれた。


『いえ、大丈夫です』

『無理は禁物だよ。確かきみの地元は北陸だったよね。良かったら、すこし遊んでくるといいよ。焦っている中では見れない、違う視野が手に入るかもしれない』


 本当に偶然だったのだが、ちょうどその時期、私のもとに高校の同窓会の案内が来ていた。断るつもりだったそのハガキに出席の返事をした。


 久し振りの地元は、その時も雪が降っていた。十二月に降る雪なんて南のほうの暖かい地域に住む私にとっては懐かしいものになっていた。


 同窓会の参加はその時がはじめてだったが、結構な人数が集まっていた。

 いないと思っていた、東京の大学に行ってしまってから長く会っていなかった彼の姿も、そこにはあった。


 彼としっかりと話したのは同窓会が終わって、外に出てからだった。


『どうしたの?』


 ふたり並んで歩く道すがら、彼が言った。

 外を出て、駅へと向かう私と道が同じだから、と彼が送ってくれることになったのだ。


『どうしたの、って何が?』

『いや、さっき雪を不思議そうに眺めてたから』

『だっていま私が暮らしているところは、こんなにはやくから雪なんて降らないし、懐かしくなって』

『そっか……。どう、最近は?』

『うーん、どうなんだろうね。……というか、なんとなく察して聞いたでしょ』

『まぁ、浮かない表情してるな、とは思ったかな』

『色々とあるんだよ』

『そっか……』


 彼は、またあの時のように、私から必要以上のことは聞こうとしなかった。


『聞かないんだ? 何が、どう、色々なのか、って』

 彼らしいな、と思いながら、ふと変わらない彼をからかいたくなって、私は彼にそう聞いた。


『やっぱりこういう時は聞くべきなんだよね。前に、さ。付き合ってた女の子に言われたんだ。何も聞いてくれないことが、私に興味がないみたいで嫌だ、って。もっと私に興味を持って、なんて。胸に秘めておきたい想いだってあるだろうから、って思って、そうしてたんだけど……』


 困ったような髪をかく癖も、以前とまったく変わらない。


『私は、嫌じゃないよ。懐かしくなっただけ。……最近、仕事のほうがうまくいってなくて。こっちでまったく別の人生を送っていたら、どうなっていたのかな、って。雪を見てたら、ちょっとそんな気持ちになったの。それだけ。あなたの最近は?』


『いま目の前にあることで、精一杯だから』


 ふいにその言葉が、山川さんの言葉に重なった。みんないまを生きているのに、私だけがいまを生きていないような感覚に陥っていた。



 もう暖かいところにいるから、十二月に雪なんてほとんど見れないよ。

 じゃあ、僕のいるところですこしはやめの雪を見たら、すぐに連絡する。



 その時に、私たちの間でそんなやり取りもあったのだ。これが幸せな結末を迎えるお仕事小説ならば、新しい視野を得た私はグラフィックデザイナーとして成功していくのだろう。だけど残念ながら、私がこの世界で芽吹くことはなかった。


 五年目の春を前にした冬の終わり、山川さんが私に静かに告げた。


『私はきみのことが大好きだ。もちろん人間として、だよ。だから私はきみによりよい人生を送って欲しい、と思っている。どういう人生を、良い人生、と捉えるかはひとによって違う。つまりこれは私の自分勝手な気持ちを押し付けるだけに過ぎなくて、私の言葉を受け入れたくなかったら無視してくれていい』


 そして山川さんは続けて、

 朝霞さん、きみにこの仕事は向いてないよ。

 と言った。


 夢に破れた瞬間だった。山川さんの言葉を無視することもできた。だけど山川さんの言葉だったからこそ、強烈に刺さったのだ。かつて憧れのひとの言葉よりも、ずっと。私は事務所を辞めた。他の広告代理店やデザイナー事務所に入る、という考えは起きなかった。ただ、いまとはまったく違う環境に身を委ねたかった。たった一言で十年も抱えた夢を諦めてしまうのか、と何度も自問自答し、逃げ出してしまった、という気持ちにさえなったが、それ以外の行動が思い付かなかった。


 それから一年弱が経った。十二月までの間に、私はアルバイトを転々として、

 いまにいたる、というわけだ。山川さんがかつて言った、いまを見据える、というよりは、いまのことしか考えられないような感じだ。


〈ぼくの住む街に、今冬最初の雪が降りました。あなたの街ではどうですか? ……なんてね。何年か前に約束したよね。同窓会の時、覚えてる? きみが暖かいところにいるから、ぼくの住む街に、はやめの雪が降った時には教えるよ、ってやつ。いやごめん。実は忘れてて、でも今年になって思い出したんだ〉


 彼からのメールをもう一度、読み直す。

 もし彼に現状を相談したら、なんて言うだろう。


〈実は、私の住む街にも、いま雪が降っています。……ねぇ、急に変なことを聞いてもいい? もし未来に迷ったとして、いまをどう生きる?〉

〈いまやりたいことをやるかなぁ。……というか降ってるんだ、そっちでも〉

〈それが分からないから困ってるの〉

〈迷っている、ってことは、何か思っていることはあるんでしょ。今後やりたい何か、みたいな〉


 鋭いな。


 私はもう一度、先ほどまで描いていたイラストに目を向ける。描いては消し、描いては消し、を繰り返しているオリジナルキャラクターの絵だ。SNSに載せてみようかな、と思いながらも、過去の挫折によって消極的になってしまった心が積極的な行動を拒んでいる。だから怖くて、自分自身の心のうちではまだラクガキとしか呼べない。


〈うん。……ねぇ久し振りに会いに行ってもいいかな〉

 窓越しに見える雪の粒はすこし大きくなっているが、まだ積もるような感じはない。


〈いつ?〉

〈いまから〉

〈遠いでしょ〉

〈すぐ近くだよ〉


 同窓会で会った時点でもう、彼が地元に戻ってきてることは確認している。私たちは同じ街に住んでいる。知らないのは彼だけだ。私はまだ完成途中の描きかけのイラストを保存して、データを一緒に持っていくことにした。


 いまやっていることを伝えて、彼に見てもらいたい、と思ったのだ。


 本当は完成品のほうが良いのは分かっているが、このほうが未完成の私らしい気がしたから。

 これが私の、いま、なのだ。


 いやこれも口実なのかもしれない。とりあえずいま、私が何よりもしたいことは、彼と会って、話したい。


 気付いてしまったら、居ても立ってもいられなくなった。はやく会って、伝えたい。いま私たちは同じ街にいて、同じ雪を見ている。

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