Ⅴ
「——ナンシー‼」
新米の少女に庇われたのだと、その瞬間にファイズは察した。
頭に血が上り、常に張り巡らせていた警戒感が解けてしまっていた。
気づいたときには自分と、飛びかかってきたアルファのあいだに割り込むように、赤毛の少女が華奢な身体を滑りこませていた。
強烈にすぎるその負の感情が、"感情の獣"とも別名される
体高がファイズの肩ほどもある白銀の巨躯。
天狼のアルファが剥いた凶刃は、易々とブラウンのワイルドジャケットを切り裂き、ある程度の防護性を有する
そうして劇的な反応を示したのは、口元を赤に汚した、アルファだった。先ほどの遠吠えとはまるで異質な、聞く者の魂を粉々に砕いてしまいそうな、そんな痛々しい
「————」
たたらを踏み、壮健な四肢を折って大地へ倒れ伏す。文字通り、毒を盛られたようなアルファの応答に、だがファイズは為す術を持たない。ヒトの血肉への激甚な拒絶反応は、天狼が背負った宿命だった。
「ぐっ……寝るな、ナンシー!」
培ってきた経験と気力を奮い起こし、耳を塞ぐ代わり、ファイズはぐったりと血の気が失せた少女を抱えて距離を取る。そうして地面へ寝かせてから、止血の作業へ素早く取りかかる。同時に、緊急通報のハンドサインを血まみれの手で結んで、救助の依頼を送った。
『——んー? こちら、
「天狼に自然保護官が嚙まれたっ! 出血が激しい! 大至急、座標にきてくれっ‼」
ファイズの
「ファイズ、保護官……どうか、アル、ファを……」
「しゃべるなっ! あれはもう助からん。じき救助がくる。気をしっかり持てっ‼」
「父を……ゆるして」
「——なっ……」
少女のこぼした懇願の言葉。その衝撃的にすぎる真実の告白に、ファイズの応急処置の手が止まってしまう。そうして半ば反射的に真実を確かめるように、地へ伏せた巨獣へと目を向けた。
絶え絶えの息をかろうじてつないでいる白銀の体毛。
ふいに、その光を失いかけた月色の双眸と、視線が交わった。全身が粟立つ猛獣の目元が、きらりと反射を返す。
——天狼が今際に流す、最期の泪。それは、万能の霊薬。
地に伏した密猟者の姿へ目を移し、ファイズはもう一度、腕に抱えた少女と白銀の巨躯のあいだで視線を移動させた。——迷っている時間は、なかった。
「——アルファ」
そう震えないよう努めて声を掛け、ファイズは息絶えようとしている白銀の狼の首元へ、片膝を突いた。待ち構えて銀狼が鎌首をもたげることはなく、ただ閉まらない顎のあいだから生温かい吐息を漏らしていた。
ファイズは、ジャケットのポケットからサンプル収集用の小ビンを取り出し、そっと天狼の目元へあてがった。見計らったように長い睫毛が打ち下ろされ、透き通った雫がビンの底へと流れ落ちていく。
そうして左右の目を幾度か往復し、ファイズの小ビンには半分ほど、液体——〈月泪〉が満たされていた。青白い夜空の下、月泪が脈動するように渦を巻く。
そうして背を向け、来た道を引き返そうとしたファイズの耳へ、確かにその"言葉"は届いた。
——健やかなれ。
ハッと振り返り、だがすぐにファイズは前を向く。天狼は言葉など発さない。今のは、風が残したいたずらだろう。そう、自分へ言い聞かせる。
「父上の、贈り物だ」
ナンシーの頭を優しく抱え、張りを失った唇へ、霊薬を滴し入れる。
遠くのほうから、狼の遠吠えのようなサイレンの音が近づいてきていた。
——草原の大地へ横たわる白銀の巨躯は、もう動かなかった。
——その苦痛に満ちていた表情は、いつしか安らかに目元が緩んでいるようだった。
《了》
【RF】外伝 月下の天涙/Under the Moon, Wonder Tears ウツユリン @lin_utsuyu1992
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