「——ナンシー‼」

 新米の少女に庇われたのだと、その瞬間にファイズは察した。

 頭に血が上り、常に張り巡らせていた警戒感が解けてしまっていた。

 気づいたときには自分と、飛びかかってきたアルファのあいだに割り込むように、赤毛の少女が華奢な身体を滑りこませていた。

 自然保護官パークレンジャーとしての責務からくる怒りと、恐怖——相棒を目の前で失ってしまうのではないか、という怖れ。

 強烈にすぎるその負の感情が、"感情の獣"とも別名される天狼ラクリミスを焚きつけてしまった。

 体高がファイズの肩ほどもある白銀の巨躯。

 天狼のアルファが剥いた凶刃は、易々とブラウンのワイルドジャケットを切り裂き、ある程度の防護性を有する機能性内衣アンダーアーマーをも貫通して、ナンシーの細い左腕を亡きものにしていた。

 そうして劇的な反応を示したのは、口元を赤に汚した、アルファだった。先ほどの遠吠えとはまるで異質な、聞く者の魂を粉々に砕いてしまいそうな、そんな痛々しい咆哮ハウリング天狼域ヘリテージ全体へと響き渡る。

「————」

 たたらを踏み、壮健な四肢を折って大地へ倒れ伏す。文字通り、毒を盛られたようなアルファの応答に、だがファイズは為す術を持たない。ヒトの血肉への激甚な拒絶反応は、天狼が背負った宿命だった。

「ぐっ……寝るな、ナンシー!」

 培ってきた経験と気力を奮い起こし、耳を塞ぐ代わり、ファイズはぐったりと血の気が失せた少女を抱えて距離を取る。そうして地面へ寝かせてから、止血の作業へ素早く取りかかる。同時に、緊急通報のハンドサインを血まみれの手で結んで、救助の依頼を送った。

『——んー? こちら、救助体レンジャーチーム・CL。どうしたー?』

「天狼に自然保護官が嚙まれたっ! 出血が激しい! 大至急、座標にきてくれっ‼」

 ファイズの眼鏡型端末グラシスギアに返った、覇気を感じさせない救助体の少女の声。それが見知った相手でなければ、甚だ不適切な対応だとファイズも憤っていただろう。——が、ファイズの簡潔かつ差し迫った声音を聞かされ、応答した救助体メンバーの態度が一変する。刹那の息を吞む一拍だけ置いて『七十秒でいくよ』と短く返し、通信が向こうから切られた。

「ファイズ、保護官……どうか、アル、ファを……」

「しゃべるなっ! あれはもう助からん。じき救助がくる。気をしっかり持てっ‼」

……ゆるして」

「——なっ……」

 少女のこぼした懇願の言葉。その衝撃的にすぎる真実の告白に、ファイズの応急処置の手が止まってしまう。そうして半ば反射的に真実を確かめるように、地へ伏せた巨獣へと目を向けた。

 絶え絶えの息をかろうじてつないでいる白銀の体毛。

 ふいに、その光を失いかけた月色の双眸と、視線が交わった。全身が粟立つ猛獣の目元が、きらりと反射を返す。

 ——天狼が今際に流す、最期の泪。それは、万能の霊薬。

 地に伏した密猟者の姿へ目を移し、ファイズはもう一度、腕に抱えた少女と白銀の巨躯のあいだで視線を移動させた。——迷っている時間は、なかった。

「——アルファ」

 そう震えないよう努めて声を掛け、ファイズは息絶えようとしている白銀の狼の首元へ、片膝を突いた。待ち構えて銀狼が鎌首をもたげることはなく、ただ閉まらない顎のあいだから生温かい吐息を漏らしていた。

 ファイズは、ジャケットのポケットからサンプル収集用の小ビンを取り出し、そっと天狼の目元へあてがった。見計らったように長い睫毛が打ち下ろされ、透き通った雫がビンの底へと流れ落ちていく。

 そうして左右の目を幾度か往復し、ファイズの小ビンには半分ほど、液体——〈月泪〉が満たされていた。青白い夜空の下、月泪が脈動するように渦を巻く。

 そうして背を向け、来た道を引き返そうとしたファイズの耳へ、確かにその"言葉"は届いた。


 ——健やかなれ。


 ハッと振り返り、だがすぐにファイズは前を向く。天狼は言葉など発さない。今のは、風が残したいたずらだろう。そう、自分へ言い聞かせる。

「父上の、贈り物だ」

 ナンシーの頭を優しく抱え、張りを失った唇へ、霊薬を滴し入れる。

 遠くのほうから、狼の遠吠えのようなサイレンの音が近づいてきていた。


 ——草原の大地へ横たわる白銀の巨躯は、もう動かなかった。

 ——その苦痛に満ちていた表情は、いつしか安らかに目元が緩んでいるようだった。


《了》

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【RF】外伝 月下の天涙/Under the Moon, Wonder Tears ウツユリン @lin_utsuyu1992

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