想像していた衝撃も、痛みもやってはこなかった。

 おそるおそるナンシーが振り返ると、引っ付きそうな至近位置に狼の顔があった。

 開け放たれた大顎に並んだ鈍色の牙の羅列が見え、ナンシーは本能的な恐怖に身体が震えてしまった。そんな天狼ラクリミスの口から吐きだされる冷たい息は、どこか深緑の香りがして、ナンシーの赤毛を揺する。

「——父さ、ん……?」

 返事は、ない。

 ただ、ナンシーとよく似たモスク色の瞳が、静かに赤毛の少女の姿を映し返している。

 吸い込まれるようなその瞳に触れたくて、ナンシーはそろりそろりと手を持ち上げた。

 ——が、その指先が触れる寸前、強い衝撃がナンシーの体を引き離した。

「ファイズ保護官⁈」

「死にたいのかっ! それともアルファを殺すつもりか! おまえを喰らえば、アルファは苦しんで死ぬんだぞっ‼」

 肩をつかまれ、強く揺すぶられる。ベテラン保護官の強い語気に、ナンシーはようやく自分の愚行を理解した。

 天狼にとって、人間の血肉は致死性の猛毒だ。

 そんな初歩の初歩を忘れ、ナンシーは"もう一度会いたいから"という自分勝手な願いのために、自分と尊い天狼の生を危険にさらした。危うく、ナンシー自身が、天狼となった父を手に掛けてしまうところだった。

 その事実に膝が笑い、ナンシーは目の前が真っ暗になったように思えた。

 その暗闇に白銀が混じり、知らず、体が動いていた。

「——だめっ‼」

 月下の草原を、乾いた一陣の風が吹き抜ける。

 ——舞い上がった赤い髪に、塗りつぶしてなお赤い染みが、月光を照らし返した。

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