第5話(最終話)
真っすぐな一本道の遠くに、田舎道でよく見かける地蔵様を雨風から囲う屋根の付いた小さな地蔵堂が見えて来た。
私はお地蔵様を見かけるとほっとする。
あの穢れの無いお顔は、苦しみを和らげ安心を与えてくれるからだ。
その優しいお顔が、「大変だったろう。けれどここでは肩の力を抜いて一休みなされ。」と言ってくれているように思うからだ。
私も人になったという事だろうか。
そこにようやく辿り着いた時は心からほっとし救われたい気持ちで地蔵様に手を合わせ、脇の切り株に腰を降ろした。
幾百幾千の人がこの切り株に腰を降ろした事だろう。
その人達は何を考えただろうか。
私はいつか無心に経を唱えていた。
風も無く、寒くも無い静かな昼下がりだった。
私は経を唱えながら、何故か救われる筈なのに無性に泣きたい気持ちになっていた。
するとその小さな地蔵堂の後ろの方から、「もしやお坊様ではございませんか。」という男の声がした。その声は聞き覚えのある声だった。
腰をあげて地蔵堂の後ろに回ってみると、お堂の後ろの草むらに一人の男と白い犬が休んでいる所であった
男は草の上に呑気に横になって笑って、私を見上げていた。
白い大きいな犬はその男に寄り添うようにして座って、素直そうな目をこっちに向けている。
男はあの男だった。
旅に出たばかりの時に一緒に歩いたおしゃべり好きのあの男だ。
自分はこんなに髪も黒いし歯も丈夫だ。皆から若く見えると自慢していた男だ。
道の十字路で別れ別れになった時、何だか物悲しい気持ちになったあの男だ。
私は先程まで抱いていた泣きたい気持ちをすっかり忘れて嬉しくて近づいて行った。
心細い旅の空ではこんなに知り合いに会う事が懐かしく、嬉しいものか。それこそ涙が出る程だった。
男は寝たまま起き上がろうともしないで呑気に笑いながら、
「ああ、やっぱり。あの時のお坊様だ。ずっとまた会えたらいいナと思っていたんですヨ。道々、よくあなたの事を思い出しましてネ。もう一度会わせて下さいって頼んだりしたのが本当に叶いました。嬉しいナ。本当に嬉しい。
最後の最後、知り合いに会えるっていう事はこんなにも嬉しい事なんですネ。」
男は笑顔でそう言った。
よく見ると男の目尻に涙が滲んでいる。
私は急に切ない程、胸がいっぱいになって、自分らしくもなく、
「最後の最後なんて、そんな縁起の悪い事を話すものではありませんヨ。」と叱るように声をかけていた。
すると、「お坊様、随分人らしくなりましたネ。最初合った時はろくに返事もしてくれなかったのに、あの時は余程心のないお地蔵様に見えたものですが、今は血の通った人間らしくなりました。」
そう話す眼差しは、まるで私を見守ってくれるような温かさを湛えていて更に私の心を切なくした。
私の喉元はぐっと詰まったがかろうじて、
「いったいどうしたと言うのです。起き上がれないのですか!」
と、わざと邪険な物言いで叱るように言った。
もしも私が人の子でこの人が父親ならそう言って激励して力をつけないではいられないような気持ちだった。
しかし、男は私の強い言葉にも少しも気分を害する事なく落ち着いた様子で、
「ええ、もう駄目なようです。私も随分若さには自信があったし、それを自慢にもしていたんですが、いくら髪が黒いと言っても、いくら歯が丈夫だと言っても体の中身はいつまでも若い訳ではありません。
いえね、私も馬鹿じゃありません。そんな事は本当は先刻承知していたんですけど、どうも負けず嫌いの所があって隣近所に見栄もあってハッタリし宣言したんですヨ。
何せおさなじみ達は子供や孫に囲まれたヨボヨボの年寄りじみた連中ばかりです。
何だか羨ましいやら、悔しいやらで。俺はこれから長い旅に出るんだ!って格好つけたんです。俺はまだまだ若いんだ。どうだ羨ましいだろとそんな気持ちです。
今まで散々皆から小馬鹿にされて来た身にとって、それが精一杯の人生の仕返しみたいなもんですヨ。おかしいでしょ?
それでも思い切って旅に出て良かった。世の中もいろいろ見れましたし、何と言ってもこの“息子”に会えましたからネ。」と言って、側の白い犬を見た。
「私はずっと独りだったんですが、やはり人並みに嫁を貰って、人並みに子供がいる連中が羨ましかった。
そんな気持ちを隠しながら表面は片肘張ってしゃべりまくっていたんですから、周りから見たらさぞ可笑しかったでしょう。
でもネ、旅に出てお坊様と別れてから間も無く、この息子と会ったんです。」
そう言って、男は自分の側にぴったりくっついている白い犬の首を撫でた。
「これは私のたった一人の心強い“息子”です。こんな私を唯一頼りにしてずっとついて来るんです。最初は邪魔な犬だと思いましたが、いつの間にかこいつの目を見ていると、こいつの心が手にとるように解って来るんです。
誰が何と言おうと、こんな私の事を心底信じて慕ってくれるのはこいつだけです。
こいつは私の息子なんです。こいつはいつの間にか私の頼りになる力強い息子になりました。
この息子がいたから旅も楽しかった。
息子が一緒だったからどこにいても淋しくは無く楽しく心強かったんです。
どんなに寒い夜に泊まる場所がなくっても、私と息子は抱き合っているとあったかくて何の心配も無く眠れました。
私は生まれて初めて自分の心が本当に慰められるこいつと巡り合ったんです。
私はこの息子にいろんなことを話して聞かせました。今まで抱えていて誰にも話せなかった事も話して聞かせました。
全て包み隠さずこの息子に話して聞かせました。
こいつは決してうるさがったりしません。いつも本当に心のある目でこんな私の話をいつまでも聞いてくれるんです。
その楽しかった事。満足感は最高です。
私の旅はこの“息子”に出会えた事で充分果たされました。良い旅になりました。
それにお坊様と知り合えて、そしてまたこうして再び会えたのは幸せの限りです。
お坊様、私は最初に言いましたよネ。
道端で野垂れ死にしてもいいって。本当に私はここが最後のようです。
まあ、お地蔵様は傍におられるし、息子もこうして見守ってくれている。
それにお坊様とも会えた。申し分なしです。
これで私は何の悔いも残さずにあの世に旅立って行けるというものです。
お坊様、私が死んだら地蔵堂の後ろのここに埋めて下さい。
なに、別に穴は掘らなくていいんです。ここは少しくぼんでいますから近くの土を少しかけてくれれば良いんです。
ただ、私が死んだ後、残されたこの“息子”が心配です。
犬は忠義心が強くて、死んだ主の傍をなかなか離れないとも聞きます。
お坊様、私が死んだらこいつに話してやって下さい。
少しはここにいても良いけれど、後は自分の好きな道を行くようにと話してやって下さい。その方が私も余程安心なんです。
いつまでもここに座っていられては、きっと心配で成仏出来ないでしょうからネ。」
男は最後にそんな事を言ったが、かなり疲れているようだった。
やがてあの話好きな男が口数も少なくなり、目を閉じて時々、まどろんではまた少し目を開けて息子のいる事を知ると、また安心して目を閉じる事を繰り返した。
白い犬は男が弱って行くのが解るのだろう。
悲し気にクーンと泣いて、時には男の顔や手をペロペロ舐めて元気づけようとした。
男は目を閉じていても幸せそうだった。
やがて吐く息が弱くなって私にもとうとうその時が近づいている事が解った。
もう励ましの言葉は不要だった。
私は心を込めて経を唱えた。
この男の為に、この男の一生が価値あるもので心安らかに旅立って行けるようにと唱えた。この男は男なりに一生懸命生きたのだ。
この男は自分が人に尽くす事で自分を認めて欲しいと願って一生懸命だったのだ。
この男は立派に生きたのだ。
この男は人生を立派に全うしたのだ。
本当に本当に、お疲れ様でした。あの世では安心して安らかな魂になって幸せに過ごして下さい。
私はそういう思いを込めて経を唱え続けた。私はそうしながらもいつか泣いていた。
どうした訳だろう。涙はとめどなく流れ落ち、経の声も泣き声になっていた。
そんな私を見たのか男は最後にうす目を開けて嬉しそうに笑ったようだった。
そして、そのまま眠るように逝ってしまった。
男はとうとう死んでしまった。
もうあの人懐っこい目でさかんにおしゃべりをする事もない。
二度と私に話し掛ける事はないのだと思うと、私は犬の首を抱いて泣いた。
犬もクーン、クーンと鳴いた。
私も声を出してオイオイ泣いた。こんなに悲しい辛い事は今までない事だった。
私と犬は冷たくなって行く男の側で次の朝まで、通夜をした。
朝になると、涙も枯れたが声も枯れていた。
犬は主の臭いの残るその場所から離れようとはしなかった。
私はその忠義心のあつい犬の顔や体を撫でながら、こんこんと諭した。
「お前は大変立派な息子だ。あの男はお前のお陰で満足して幸せに一生を終える事が出来た。ありがとう。
だが、お前がここを離れないでいればあの男はきっと心配して悲しむだろう。
今すぐにとは言わないが、もう暫らくここにいてあげたら、ここを離れるのだヨ。
お前は充分孝行を尽くしたら、自分の為にここを離れるのだヨ。」
私はこれからこの道を真っすぐ行く。よいか、私の後を追いかけて来るも良し。
また、この辺りを通る心の温かい人に拾われてついて行くも良し。
お前がしたいようにするんだヨ。そして必ず幸せになるのだヨ。解ったネ。」
その犬の温かい体を撫でながら私が話すと、“息子”の犬は私の目をじっと見返していた。
その目は何もかも充分に理解しているという目だった。
私がその場を立って歩き出すと、犬は付いて来ないで私をじっと見送っていた。
かなり歩いてから振り返っても、まだその場にいてこちらを見ているのだった。
あの犬は人より余程心を持っている。
自分がどうしたいのか、これからどう生きて行くのかもしっかり考えているのだと思った。
私の方が余程頼りなく小さいような気がした。
人と知り合えば、そこに親しみが生まれ情が湧き、相手が男であれ女であれ老人であれ子供であれ、それが犬であれ猫であれ、心に湧き上がる情が相手に向かって流れて行く。相手からも流れて来る。
だから別れが辛くなるのだ。
一人ぽっちになると、自分が頼りなく弱くなっているのがよく解る。
あてどの無い旅が無性にやるせなく思えて来る。
この場にしゃがみ込んで幼子のように泣けたらどんなに楽だろう。
だが私はこの先も、重い足を一足一足と前に運んでいくより道は無いのだ。
心の持ちようだろうか。
以前は疲れを知らずにグングン大股で歩いていたのに、今は暫らく歩けばやはり体も足も疲れて休息を欲しがった。
そうしながらも、私は時々後ろの方を気にかけていた。
もしやあの犬が私を追って気はしないかと心待ち歩きを遅くしてみたりした。
だが何日経っても犬は私を追いかけては来なかった。
それならどうか新たな優しい飼い主に巡り逢ってくれと祈った。
あの心ある犬にはどうしても幸せになって貰いたいと思った。
それからも私の旅は続いた。
あれからもいろんな人々に会ったが、どういう訳か以前のようにまっさらな好奇心と無心な親切心は湧いて来なかったし、また人に乞われて何かの役に立てたとしても、かすかな達成感や満足感といったものも感じなくなっていた。
ただただ、この世に漂う哀しみのようなものがいつも私の心をとらえて私の周りを漂っているようだった。
もう私は無垢なあの頃の気持ちになれる事はないだろうと思っていた。
その時も私はボーッと歩いていた。
だが足取りは最初の頃のように軽くはなく、珍しい事だがその時は分けもなく胸苦しいような、この重苦しさがどこから来るのか、何がこうも自分を切なくするのかを誰かに教えてもらいたいと考えながらも、しかし、この自分は前に向かって進むしかないと、時には立ち止まって天を見上げ、青い空を流れて行く雲を見つめては涙ぐみ、一歩一歩歩みを前に進めているだけだった。
特に真夜中の道を夜空に煌々と輝く月を仰ぐ時は、一層どうにも耐えられぬ程、訳も無く悲しくなった。
そういう日々をただひたすら一人前に進んで行った。
あるどこかの田舎道を歩いている時だった。
突然、フワッと菊の香りがした。それも、かなり強く匂って、私は思わずボンヤリしていた所を夢から覚まされたように目を足元から上げて辺りを見回した。
一本道は真っすぐにどこまでも続き、そのどこにも人影は無く、道の両側は背の高い草が茂り、遠くの畑らしき所にも人影は見えない。
すると、行く先の右手の草陰に何か白く動く物があった。
あっ誰かいる!
しかも、その白い着物の者は若い娘の姿だとわかった。
何故なら、少し離れた所にいるその者がまるで鈴の鳴るというような美しい愛らしい声で、
「あっ、もし、お聖人様。御願いがございます。」と言うのであった。
私がその娘の方へ近づくと、娘は恥じらうようにこっちを見ずに顔を見られまいとするように、顔を背けたかと思うと、右手に伸びているらしい道を先に歩きながら、後を行く私に向けて、
「置いた老いた母が死にそうでございます。お聖人様、是非に是非にお経を上げて下さいませ。」と言うのだった。
立ち止まって目を見て話しをしないのを不審に思いながらも、それ程、この娘は若くて恥じらいが強いのだろうと思いながら、私はその娘の後を追う形で右手に登りになっている草藪のような道無き道をついて行った。
娘は若い事もあってか、この深い草藪を少しのためらいも無く、スタスタと進んで行くのだった。
私はすぐに両脇の草が元に戻って道を塞がないように娘の着ている白っぽい着物の裾だけを目標について行った。
白い着物だと思ったのは真白では無く、薄い水色の地に桔梗のような濃い青色の花が散っているのが解った。
そしてそれがまた、この若い娘にはいかにも似つかわしいと思ったりした。
普段は誰も通らぬのだろう。
草は伸び放題で二人が踏みしめた所だけが、ほんの束の間、跡が残るだけで道らしい道では無かった。
こんな草原の向こうに本当に家があるのだろうか?いや、ここは道ではなくて、ここ以外にきちんとした道がある筈だ。
この娘は遠くから私の姿を見かけて、大急ぎで道の無い所を飛んで来たのだろう。
それにしても娘から少し離れている私の所まで、菊の香りが漂って来て、私は暫らくぶりにここ数日間、抱えて来た憂いを忘れて、夢見心地で匂いの跡を追いかけて行った。
よく目を凝らすと、娘が背中で髪を一つに束ねた、そこにさしてある白い菊が目に入った。
ああ、これは娘が髪にさした花飾りが匂うのだ。
そう解ってからは尚更、この若い娘の娘らしさが偲ばれて、それと共に鈴の鳴るような愛らしい声とも併せて、この娘の美しさが想像された。そして、早くその顔が見てみたいと思い始めた。
すぐにもその顔を見れるだろうと思いながらも、一足一足に力を込めて坂道の草わらを登って行った。
しかし、どんなに早足で追いかけても娘との間の距離は少しも縮まらず、いつの間にか、あれからかなり歩いたようだった。
すると、いきなり菊の香りが強く匂って来た。
身の丈もある草藪の向こうからそれは漂って来るのであった。
そしてその草藪を突然抜けると、藪の向こうに一面に白く見える所があった。
きちんと手入れされたあれは菊畑か?実に見事なものだった。
疲れも忘れて飛び込んだそこはやはり一面の菊畑だった。
それも咲いているのは白い花ばかりだ。
見事に大ぶりの白い花がぎっしりと咲き誇っている。
その花々の香りはむせる程、強く私の鼻孔に入って来た。
ここまで見事に育てるのには並大抵の事では無かっただろう。
私は思わずそこに立ち止まってしばし見とれていたのだろう。
いつの間にか前を歩いていた娘の姿は消えていた。
しかし、菊畑の中にポツンと小さな小さな家があるのが解り、ああ、あの家が娘の家だナ。そしてそこには病気の母御がいるのだナ。
私はそう思って、その小さな家の前に立った。
戸は開けられていた。
「ごめん下さい。失礼致します。」
私はそう言いながら、静かに足を踏み入れたが、しーんとして人の気配が全く無かった。
辺りを見回しながら入ったが、娘の姿はどこにも無かった。
部屋の中央に布団が敷かれ、そこに誰かが寝かされているがさっきの娘の姿は見えない。
「失礼します。只今、娘さんに頼まれて来たのです。」
そう言っても、そこに寝ている母親とおぼしき人もピクリともしない。
もはや、もう待ちきれずに亡くなってしまったのではないか。
それにしても妙だ。あの娘はどこに行ったのだろう。死にかけた病人を置いてどこに行ったというのだ。この小さく狭い家の事だから、きっとこの一間きりだろう。
次第に奇妙な感じに襲われて改めてその布団を見ると、掛布団の上には白っぽい着物がかけられている。
それは寝ている人の顔をも覆っていた。
しかも。その着物は見ればみる程、さっき自分の前を歩いていた娘が来て着ていたあの青い桔梗の花が散っている着物のように見えるのだった。
もしや、ここに伏っているのはあの娘か?
私はにじり寄ってその着物をはぐって顔を見ようとした。
そして驚いた。はぐった途端、菊が強く匂ったのだ。そこに寝ている人の頭の脇に束ねた髪にさされた大輪の菊
が匂ったのだった。
だが、それは若い娘では無かった。
眼下の落ち窪んだ年老いた老婆の死顔だった。
目は瞑っているが、肌は茶色でシミやシワだらけの見るに耐えぬ程、醜く哀れな顔だった。老いるとはこういう事なのだ。
今まで世の老人、老婆は星の数程いて、その老人達を見ても何も思わなかった。
しかし、今の私は今の今まで、あの後ろ姿ばかりを見て、あの美しい声を聞いて、瑞々しい若い娘だけを思い描いていただけに衝撃だった。
暫らく驚きで声も出なかったが、こうしていても他に人の気配は無かった。
やはり恐らく、この老婆の魂が娘の姿になって私をここまで導いて来たものだろう。
そう考える他無かった。老婆の白髪混じりの艶の無い髪には白い大輪の菊の花が飾られて、その花が常に香っているのだった。
やはりその着物は先程、前を歩いていた娘が来ている着物に違いなかった。
この老婆もその昔は若く美しかったに違いない。そして、あのような美しい愛らしい鈴の音のような声をしていたのだ。
あの娘は是非に是非にお経をあげて欲しいと言っていた。私は思わず驚いてざわめかせた心を落ち着けて経を唱えた。
長い長い経を唱えても、やはりあの若い娘は二度と現れなかった。
経を終えて外に出て菊畑を見回したが、やはりそのどこにも娘の姿は無かった。
思えばそこは両隣の村からも遠く離れて、見た所、その場所からは道らしい道も無かった。こんな山の中の人の気配の無い所であの老婆はどのように生きて来たのだろうか。
何もかも不思議な事だった。
菊畑だけが今まで見た事が無い程見事に丹精されていた。
やがて私は心を決め、さっき自分が歩んできたかすかになぎ倒された踏み跡のある草の中を考えながら帰って来た。
あの若い娘は恐らく、あの死んだ老婆の若い頃の姿だったろう。
そう思うより他無かった。
どんな事情であの山の中の草わらの中に住み、一人死ぬ事になったのだろう。
他人には解らない深い事情があった筈だ。
もしもずっと独りで生き、独りで死んだのならあまりに哀れで淋しい。
私は草藪の中を歩きながら、いつか泣いていた。
あの女には幸せな時があっただろうか?ほんの束の間でもあったと思いたい。
あの娘はほんの束の間の幸せを抱きしめながら、長い間一人でも生きて来たのだ。
そうでなければあんまりにも哀しい。
あの見事な菊畑もあの小さな小屋も、あの女を支えていたのだ。
だがいつの間にか全て誰にも知られず、草の中に埋もれてしまうだろう。
かつては若く美しく鈴の鳴るような声の主も、あんなにむせる程咲き誇った菊も、草に覆われて草の下になってしまうだろう。
誰にも知られずひっそりとこの世から消えて行く女が確かに一人いた事を、この私だけは覚えておこう。
私は泣きながら、幾度も幾度も自分に言い聞かせて降りて来た。
陽はいつか西に傾いていた。
私はその西日に向かって草藪の中を下って行った。
人になりたかった私が、人の悲しさ苦しさを知るにつけ、その痛みを身をもって知ってからは、人から離れて、むしろすれ違う牛や馬等に安らぎを求めるようになっていた。
それとても無条件に安らぎを与えてくれるばかりでは無かったが…。
思い荷車を引く牛や馬の目が私に何かを訴えているような気になった。
そんな牛に向かって心の中で、
「お前は随分苦労しているナ。辛くは無いか?お前の飼い主はお前に優しくしてくれるか?」
私はすれ違う時、いつも心の中でそう問いかけた。
「お前は牛に生まれて幸せか?」
「お前は馬でいて良かったか?」
そう問いかける私に馬の心は何かを語りかけているような目をした。
「その苦し気な目は、お坊様は今苦しまれていますネ。」
と逆に同情してくれている目だった。
「そうだヨ。お前は私よりずっと幸せだ。自分が何者かなどと考えなくて良いし、どこへ行けば良いか不安になる事も無い。
お前は帰る場所もあれば自分がどう働けば良いかも知っている。
だが、この私には何も無いんだヨ。どこまで行っても、そこは自分の場所では無いし、また後戻りしてもどこにもどこを見渡しても自分の帰る所なんて無いんだ。
もう私はこんな生活が嫌になったヨ。
どうして良いか解らなくなったヨ。」
そう話し掛けたりした。
行く道の向こうは、山また山の青い世界だった。
菊畑を後にしてあれから一ヶ月以上も過ぎていたが、あの時の菊の強い香りと一人誰にも知られず死んだ女の事が思い出されて、私を悲しくさせた。
相変わらず目的も無しに歩いていると、その道の先の方に白い物がチラッと見えたような気がした。
すぐにあの白い犬の事を思い出したが、それなら後ろの方から私を追ってくる筈だった。
もしかしたら、あの白い犬が先回りしているのかと思って足を速めて、白い物のいた辺りまで行ってみたけれど、そこには犬の姿は無く、道を外れた右手の急な斜面のずっと上の方にまた白い物が見えた。
遠くて確かめようが無いが、その動きからして白っぽい生き物には違いなかった。
私は無性にあの犬の事が思い出されて会いたくて、道から外れたその斜面を必死に登り始めた。
傾斜の急なそのけもの道を登るのは容易では無かったが、私は這いあがるようにして必死で登って行った。
その白い物は、草陰や雑木の陰にチラチラしながら少しも私との距離を縮めないでどこかに向かっているようであった。
あの白い物はあの犬とは限らない。白いうさぎかも知れないではないか。
それにあの賢い犬なら私の気配や匂いを察知して必ず私に会いに来てくれる筈ではないか。それなのに、この私は何故こんなに苦労してまで険しい道のない所を這い回っているのだろう。何の確証もないのにただ白い生き物というだけで、あの白い犬を思い出しあの犬の顔を見たさに彷徨っているのだろう。
私は余程の阿呆だろう。そう思いながらも、今はひたすらあの犬に会いたかった。
あの死んで行った男の死を私と共に看取り、一緒に悲しみ、泣いたあの犬に会いたかった。
私が今どんなに悲しいか、今どんなに虚しい気持ちでいるかはあの犬だけが知ってくれるような気がした。
私はゼーハー言いながら、時にその白い影を見失う事があった。もしもそのまま、見つからなかったなら私は我に返って引き返しただろう。
だが、諦めようとすると、また遠くにチラッと姿が見えるのであった。
その白い物は、まるで草深い森の中を、私を道案内してくれているようにも思われた。
とにかく行ってみよう。無駄骨に終わるかも知れないが行ってみよう。私はそう決めた。
追いかけても追いかけても、その白い物はどんどん高い方へ高い方へと登って行って、私は少しも近づく事は出来なかった。
その物が犬かそうでないかは解らないが、追いかけているうちにその物は確かに私を導いているような気がしてならなくなった。
もう随分山に入ってしまって、道のようなものはすっかり無くて、右も左も東も西も解らない所に来てしまった。
けれど白い物は、いつも遠く先を行きながら私の進むべき道を案内してくれているような気がしてならなかった。
ここまで来たならもうそう信じる他無かった。
ここ暫らく人に会っていなかったし。こんな深い山奥に分け入ってしまっている。
腹は空かないが、「ああ、冷たい水が飲みたい。」と思った時だった。
幽かにどこからか水の音が聞こえたと思った。耳を澄ませて私は慎重に音のする方へと分け入って行った。
すると木々の向こうにまさしく滝が見えた。
滝だ!水がある!水が飲める!
私はそこに向かって走って行った。
すると何と、滝壺のあるその手前の流れの所で一匹の白い犬が水を飲んでいるではないか!
やっぱり幻ではなくて犬だったんだ!
私は嬉しくて疲れも忘れて駆け寄って行った。
すると白い犬は私の気配に気が付いて振り返って、私を見た。
その目はやっぱりあの犬だった!
あの時、別れた犬に違いなかった。死んだ男が大切にしていた犬だった!
私が走り寄って触ろうとすると、犬は何故かその場を逃げるように立ち上がり、今度は滝の右脇の急な崖をポンポンと軽く飛び登って行ってしまった。
私も急いで滝壺の所で冷たい水を手にすくって飲んだ。
生き返るような冷たい水だった。何度も何度も手にすくって水を飲んだ。
この水の冷たさ、水しぶきの涼しいこの場所はそれだけで倒れそうになっていた私の目も体も心の中までも覚ましてくれた。
あの犬は私をどこかに連れて行こうとしている。もともと私にはどこというあては無いのだから。行ける所までついて行ってみよう。
私は心にそう決めると、犬が登って行った崖をあちこちに掴まりながら、必死で登り始めた。そして登りながら、もしかしたら私が来るべき場所はここなのだろうか?と考えたりした。
師が歩め歩めどこまでも歩めと言われたのは、ここに来る事を指していたのだろうか。
登りながらそんな事もチラリと頭をよぎったが、私は遮二無二登って行った。
ようやく登りきると、そこは少し平たい台地のようになっていて、目の前には、あの白い犬が私を待っていた。
「やはりお前は私をここまで連れて来てくれたのか?」
私は懐かしさでいっぱいの気持ちで、その白い犬の方に近づいて行ったが、何歩か歩いた時、突然グラリとめまいがして、そこで何も解らなくなってしまった。
そのままどれ程の時が過ぎただろう。
私は崖の上の岩にあいた大きな穴、洞窟のような所の入り口で寝かせられて目が覚めた。
その洞窟は何故か懐かしい気がした。そうだ師と過ごしたあの小屋にもどこか似ている。
すると気配がしてその方を見ると、洞窟の壁に向かって座禅を組んでいる何者かがいる。
その姿は覚えのある姿だ。
あの死んで灰になった筈の師に違いない。
「お師匠様ですか?」と声を掛けたが返事は無い。
目を凝らして見てもやはり覚えのある後ろ姿だ。
焼いて灰になってからは諦めていたお方だ。
私は無性に嬉しくて、安心してまた眠りの中に入って行った。
私はとうとう帰って来たのだ。生まれた所に帰って来たのだという感動と安心感でぐっすりと眠った。
それまで積もりに積もった疲れがそうさせたのだろう。
明るい気配に目を覚ますと、そこに師の後姿はなくて見知らぬ老人の姿があった。
初めて見る顔だった。
髪もひげも白いが何故か懐かしい。
私は懐の袋を確かめたが、そこには灰の入った袋は無かった。
思えば師は常に後ろ姿で、顔を見せた事が無かった。
「あなたはお師匠様ですね。またお会いする事が出来たのですね。」
私は嬉しさのあまり起き上がってにじり寄ろうとしたが、体は金縛りにあったように少しも動かない。
しかもその懐かしい白髪の白ぜんのお姿は、またゆらりゆらりと姿を変えた。
老人から美しい女の人の姿に見えたかと思うとまた、ゆらりゆらりと今度は若い男の姿になり、更には老婆に見えたり、あんなに会いたくて追いかけて来たあの犬のようにも見えるのである。
どれが本当の姿なのか解らない。目を凝らす度に角度を変えて見る度に、姿は違って見えるのであった。
私はその時、「観音様はいろいろに姿を変えて衆生の中におわすのだ。」と言った。
湯の里での老人の言葉を思い出していた。
このお方は普通の人間では無い。きっと観音様に違いない。
私の心の内が解ったのだろう。
声無き声が、
「シューよ。お前はこの旅で何を学んだ?
お前はその目で何を見た?
人がどういう者か解ったのか?
私は土くれからお前を作った。
その土くれが人になりたいと思い始めた。
それなら自分で自分を育ててみよと私は言った。
お前は旅をし、人と会いながら自分をも育てて来た。そして、ここまで辿り着く事が出来た。ここまで来たからにはお前はもうこの先人として生きても行ける。
お前は既に充分人間らしくなっているからだ。
だが、気が付いているだろうが、人として生きて行く事はなかなか辛いものだぞ。
お前はそれでも人になりたいか?」
私はそう聞かれて返事が出来ないでいると、
「なりたいならお前は人にもなれる。
鳥にもなれるし、牛にも馬にも魚にもなれる。
虫にも草木にもなれる。
お前が真実望むなら、その望むものに姿を変えてどこまでも行ける。
またここにいて多くの修行層のようにここで修行するも良し。」と言った。
そう言われて私がもう一度しっかり目を開けて見渡すと、
その広い洞窟の中は奥の方に幾十人というそう僧がゴツゴツした岩肌に向かって無言で座禅をしているのであった。
「ここで修行した者は、やがて人の持たない力を手に入れる事が出来る。
ついには“土くれ”で人らしき形を作る事も出来るまでになる。そうなるにはまた、長い長い修行が必要だが、いつかはそういう者にもなれる。
だがここにやって来る者が全てここに残るのでは無い。ある者は人になり、ある者は鳥になって空に帰って行った。
ある者は一本の草木になっていつか大木になろうと思い立ち、地に根を張る者もある。
ああ、犬になるものもおるヨ。猫になる者もおる。
それはめいめい自由だ。
お前はここまで来たからにはどんなものにもなれるのだ。
急ぐ事はない。よーく考えて決めれば良い。
そしてお前の心が本当に求めている所に行くがいい。
そして、そこで本当に満足して暮らし、今度こそ全うするのだぞ。」
その最後の声には慈しみが込められていた。
快い疲れがまだ私の体を動かさなかった。
私はまた、目を閉じて考えた。
私が望むものとは何だろう。
ここにいて一心不乱に修行したならば、私を作り出した師にもなれるという。
旅の途中に出会った人々が頭をよぎった。
もし、私が人間としてこのままの姿を望むのだとしたらどうなるのだろう。
するとまた声がした。
「何かになったなら、なった途端に今までの記憶は消えてしまう。全ての過去は消えてしまうのだ。」と声無き声がした。
私は更に思い出していた。
途中で死んだ男の事も思い出した。
男に付き従っていた犬も思い出した。
いろいろな人々を思い出しながらふとあの赤子はどうなっただろうと考えた。
橋の下に住む乞食のお婆さんはきっとあの後、赤子を無事取り上げただろう。
そして、その赤子はきっと心ある人にもらわれて行ったろう。
だがせっかく腕に抱いて情をかけた赤子を人にやる時のあの乞食のお婆さんの気持ちを思った。
また一人ぽっちに戻って、あの橋の下にいるのだろうか?
どうした訳かしきりにあの老婆の事が気にかかる。
そう思い出すと、矢も楯も堪らず行って慰めてやりたくなる。
あのお婆さんは淋しい人だ。何より悲しみを知っている。
そうだ、私は師のように偉くなれなくていい。
世の中に貧しく淋しく生きている人の所に行って少しでも慰めてあげたい。
それが一番私に似合っている。
そしてこの私にも自分を大事にし、慈しんでくれる人が必要なのだ。
私はどうしてもそれが欲しいと思った。
観音様、
私がなりたいものが解りました。
それが叶いますならば、姿を変えて行きたい所がございます。
私にもう一度、命を下さるのなら、なりたいものがございます。」
私の心は決まっていた。私は一心にその姿を思い描いた。
すると最後に私の心に声無き声がした。
「もう、そのものに姿を変えたならば二度と元には戻れないのだぞ。
よいか、それでは確かにお前の願いを叶えよう。」
冬、間近の朝、まだ薄暗い。
そこいらの草も土も霜柱を立てている一本道、空気もキーンとして、
こんな日は温かい日のように朝早くに通る人の姿も無い。
あまりに寒いから近くを流れる川から湯気が上がっている。
その橋の袂で声がした。
「また、寒い季節がやって来たわい。
年寄りにはことさら、辛い季節じゃけれど。これは何も私一人にだけ特別な事じゃ無し。世の中の年寄り誰もがそう思ってるに違いない。
何事も神様仏様は平等にして下さるのだから。文句も言えはしないがネ。
だけどねー。せめて厚い綿の入ったどてらがあったらのー。それに山程の炭があったらのー。それにそれに人様に渡してしまった、あのめんこい赤子がいたならどんなにこの婆の心も温まった事か。
だが、せん無い、せん無い。
あの子の幸せの為だもの。
なまじこんな所に置いたら、風邪をひかせたり無事に育っても乞食婆の孫だって馬鹿にされるだけだもの。
それにしてもあの子は綺麗な子だった。丁度、通りかかった尼があの子を見て、どこかの長者様の所に世話をしてくれたのは幸運だった。
あの子を産んだ母親も後でその事を聞いて涙を流して喜んどった。
私はあの若いお聖人様に会ったお陰で、死ぬ前に良い事をさせて貰ったワ。
それにしても手離すのは辛かったのー。
せん無い、せん無い。
あの子の幸せの為だもの。」
話す相手の無い老婆がそんなグチを言いながら橋の根元の細い坂をよっこらしょと登って来ると、お地蔵様の所に誰が置いて行ったのか、まだ作り立てのいかにも暖かそうな綿入れの長いどてらが畳んで置いてある。
「あれまあ、これはどういう事かネ。私がたった今、欲しいって言っていた物だヨ。誰かが落としていったのだろうか。
もしもそうなら今頃困っておられるんじゃないだろうか。
でもこうしてきちんと畳んで置いてある所を見ると、この私にどうぞと言ってあるようじゃないか。
思い当たるふしは無いが、誰かが私に下さったのじゃないかネ。
それにしても、まあ本当に暖かそうなどてらだ事。」
手に取ってみると、フワフワでたっぷり綿が入っている。
「お地蔵様、これはいかがしたものじゃろうネ。ちょっとだけ羽織らせて頂いても罰はあたりゃせんでしょうネ。」
そう言いながら肩にかけて着てみると、まるで真綿の入った掛布団を羽織ったようにぬくい。
それにその時初めて気が付いたのだが、畳んだ綿入れの下にはさも使って下さいといわんばかりに炭の束が小さい山を作って置いてあった。
「あれまあ、この炭も私が欲しいってさっき願ったものじゃないか。
これはお地蔵様が私の事を哀れに思って下さったものじゃ無いだろうか。
そうに違いない。有難や、有難や。
いや、それともあの赤子を産んだ母親かの?
それとも赤子を授かった長者様かの?
どなたか存じませんが、本当に本当にありがとうございます。
お地蔵様、お陰様でこの婆もまた、この冬を越せますじゃ。
それにしても今朝はよう冷えますじゃ。」
そう言っていると、ようやく東の山から朝陽が顔を出して薄暗かった辺りがいっぺんにパーッと明るくなった。
霜柱も、陽に当ってじきに溶け出すだろう。
全体がフワーッとした湯気が立って、何とも言えぬ良い一日になるような朝の道を遠くから何かがヒョイヒョイと歩いて来る。
近頃とみに目がかすんで来た婆様だが、今朝はよく見える。
あれは何だろう?きつねだろうか?たぬきだろうか?
それとも犬だろうか?猫だろうか?
それにしてもかなり小さい何かが一目散にこっちに向かって来る。
この綿入れを羽織った婆様を目指して来るのだった。
それはヒョンヒョンヒョンヒョンと小走りになり、少しもためらわず、このしばれた朝の霜を踏んで一心にこっちに向かって来るのだった。
婆様は垂れ下がった瞼をいっぱいに開けて、それをボーッと見ていた。
陽が昇ると、増々辺り一面湯気のあがった一本道での事だった。
その様子はあんまり美しくて夢を見ているようだった。
私ゃ夢を見ているんだろうか?
それとも幻なんじゃろうか?
婆様はそのものから一瞬も目を離すまいとして見ていた。
するとその物はついに婆様の足元まで来ると、ここが自分の目的地だとでも言うように、婆様を見上げて、
「ミャー」と一声鳴いた。
それは小さい子猫だった。
可愛い可愛い小猫の鈴の鳴るような声だった。
あまりにも不思議な事ばかり続いてボンヤリしていたが、急に目の覚めた婆様は、
「オーオー、お前は私の所に来たのかい?
この婆の所に来たのかい?
こんなに小さくて、さぞ寒かったろう。」と言って、婆様は子猫を両手で拾い上げた。
それは両手にすっぽり入る程の生まれたての小さな小さな子猫だった。
フワフワしているけれど今にも消えそうな小さな命だった。
婆様はすぐに着ている綿入れのどてらの懐に入れて、改めて間近に子猫を見た。
まだ生まれて間もない目の青い子猫が、手足や鼻の先を冷たくして震えながらも、婆様の顔をじっと見た。
婆様も子猫をじっと見た。お互いに暫らく見つめ合った。
それから子猫は婆様の鼻先や婆様の口の辺りをクンクン嗅ぐように自分の冷たい鼻を近づけた。
子猫の濡れた鼻先が婆様の唇に触れた。
その一瞬の冷たさと、子猫のかすかな息が婆様の鼻先や頬をフッフッフッフッとかすかに撫でた。
「ああ、ああ。お前は生きているんだネ。
お前は確かに生きて私の懐の中にいるんだネ。
ああ、ああ。ありがたや、ありがたや。
お前は生きているんだネ。
私の所に来た命なんだネ。ああ嬉しや。私はお前を守るヨ。大事にするヨ。精一杯大切にするからネ。約束するヨ。」
婆様は小さくて小さくて今にも消えてしまいそうなフワフワの小さな子猫を抱えて自分の小屋に帰って行きました。
婆様も幸せだったかも知れないけれど、婆様の懐に抱かれた子猫はその何十倍も何百倍も幸せだったに違いありません。
何故なら、ほら、子猫は
もう安心しきって眠ってしまいました。
その寝顔を見れば解ります。子猫は幸せを見つけたのです。
そして婆様の顔も幸せそのものじゃありませんか。
終わり
昔話 シュー/土くれの旅 やまの かなた @genno-tei70
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