第4話

次の朝、息子の部屋に行くと布団に寝かされた息子の傍に老下男が付き添っていた。

こうして片時も目を離さずに誰かが見守っている事が解った。

その付き添いの者に、

「私がいるから安心です。あなたは少し休んで来て下さい。」と言うと、下男は安心したように部屋を出て行った。

息子は私を見ると心細そうな心配な顔をしている。

「安心しなさい。私はたまたま、ここを通りかかった者です。いわばあなたにとって見知らぬ旅の者です。今日にはまた、この土地を離れて他国に行ってしまう者です。

それに、私は人であって人では無いのです。ですからどうか体の力を抜いて下さい。」

そう言って、礼二郎というその若い男の額に手を当てた。

額は汗ばんで冷たかったが、私はその男の心の中にスーッと入って行った。

幼い頃からの心の様子が手に取るように解る。愛らしくて誰からも好かれる子供だった事が解る。それから、やがて少年になるとその心の中に愁いの陰が見え始めた。他の男の子達は女の子に興味を持ち始めるのに自分は少しもそうではない。むしろ自身は男の子ではなく女の子に生まれて来たかったという思いがして、そう思う自分に戸惑うばかりだ。

そう思う自分がどこかおかしいのだと思って、しきりにそんな自分を否定し変えようとする。だけれども、どんなに考えても自分のこころはどうしても男になりきれない。

男友達と陽気に遊んでいても、心の中では時々ふと、自分が女の子のような気がして罪悪感を感じる。

しかし、それは心の内の事だから隠し通して来た。

そのうちに母親や親戚の者達がそろそろ嫁をとるようにと言い始めた。

嫁を迎えるなんてとんでもない。出来るなら、このまま独り身を通して過ごして行きたい。

そんなある日、一人の若い僧が宿に泊まった。

たまたま女中の手が足りなくて、そのお坊様の世話をしたり部屋まで案内した時にその方と目と目があった時、ドキッとした。

その瞬間、いいようのない胸苦しさに襲われた。

そして、一目でその人に心を奪われた。

その人をずっと見ていたい。その人の傍にいたい。

その人が好きだという気持ちがはっきり解った。こんな気持ちは初めてだった。

何て事だろう。何て事だろう。

こんな気持ちの自分はまともじゃない、おかしいんだ。

こんな事が人に知れたら、とんでもない事だと大騒ぎになるし笑い者になる。

母親に知れたらどんなに悲しむだろう。

だが、あの若い僧の事は苦しい程好きになってしまった。

そして、あのお坊様は次の朝、宿を発って行かれた。

一言の言葉も交わさないうちに…。

その時の何かを失った悲しみと、自分の心が普通でない事を痛い程知らされた今、自分はこのままこの土地で今までのように普通の顔をして生きては行けないと思った。

苦しくて苦しくて、悲しくていっそ死んでしまいたい。自分のようなものは死んでしまった方が良いのだ。

死んでしまえばこの苦しみは終わる。

母親も何も知らずに済む。笑い者にされる事もない。

死ぬしかない。死ぬしか他に道は無いのだ。

私の中にこの礼二郎という男の苦しみが痛い程、伝わって来た。


「随分、苦しかったのですネ。」と言うと、

「お聖人様には解るのですか?」と怯えた目をして見上げている。

「安心なさい。何も言わなくて良いのですヨ。人は誰もがいろんな苦しみを抱えて生きています。他人に話せないから悩むのです。しかし、人に話せない悩みを抱えていても生きて行く道はあります。

自分の心を鍛錬する事で支えを備えるのです。一生付き合って行く事になるかも知れないその苦しみを自分の中に生まれる杖で支えながら生きて行くのです。

死ぬのはきっと、その気になれば簡単に死ねるでしょう。あなたは何度も死のうとして死ねなかったと言うでしょうが、それはあなたの心が死ぬのをためらったか、または何かの大きな力が働いてまだ死ぬ事を許さなかったのでしょう。まだ命を捨てるのは早いと言われているのですヨ。

それならば、こう考えてはいかがでしょう。

一度はあの世に置いて来た命だと思って下さい。ですから、今のあなたは以前の自分ではない。全く新しい違う自分だと思う事が出来ますか?

先程、あなたの母御と話をしました。息子が生きてさえいれば例え自分の傍にいなくても良いと言っておいででした。

ですから、ここから先はあなたは自由です。

自分が思うように好きな所に行き、好きなように生きて行けるのです。

旅も出来ます。修行も出来ます。また、大きな町に出て自分の事を知らない人達に混じって気楽に生きて行く事も出来ます。

よく考えて下さい。よくよく考えて選んで下さい。一時的に安易に選ぶ道は本当の解決になりません。

一生、本気で自分と向き合う道を選んで下さい。一心に修行する者達の多くは必ず何か苦しみを抱えているものです。

その人達はあなたの仲間でもあるのです。よーく考えて自分の道を決める事です。

どうですか?

死ぬ事だけが一つの道では無かった事に気が付きましたか?」

そう言うと、礼二郎の目からは涙が溢れていた。

だが、その目からはいつの間にか暗さが消えていて、むしろ明るかった。

私がそっと立って襖を開けると、そこには心配そうな母親と下男が控えていた。

私はただ目礼だけをしてその場を去った。

もう心配は無いだろう。

あの若者はきっとよく考えて良い道を決めるだろう。もう二度と死のうとする事は無いだろう。例え母親に本当の事を話さないでも、あの母なれば息子が死神から離れて再び生きる道を見い出した事で納得するだろう。

私には礼二郎が、体力をつけてから頭を丸め、出家

する道が見えるような気がした。

山の奥に入った所の大きな寺に向かって歩む姿が見えるようだs。

どの道にも困難はあるだろうが、絶望的になって自ら命を絶つ事よりは母をも救い、自分をも救う事になる。

私はまた、少しばかりの達成感のようなものを感じた。だが、その気持ちの下に子を思う母の姿が時々、浮かんだ。

私には母はいない。

あんなに思って泣いてくれる母はいない。

そんな気持ちを振り払うように私はまたズンズン大股に歩いて行く。

私には母はいない。

そんなことを考えたって仕方が無いのに。時折ちらつくその事が私を辛くした。

しゃにむに歩いているうちに、いつか辺りは木々の茂る山道で陽も暮れようとしていた。

しかし、私はそんな事には動じない。

私は人であるが人ではないからだ。

こんな山道を陽が落ちてから歩く者などいないのだろう。

遠くで山犬か狼の遠吠えが聞こえる。

しかし、私はそんな事も気にならないのだ。

突然、目の前にバラバラと黒い影が現れた。

山犬では無い。人のようだ。

私が黙っていると、その中の一人が目の前に近づいて来た。

「何だ。坊主か。」と言った。

それでも尚、私が黙っていると、

「おい、坊主。お前は坊主なら殺されないと高を括っていないか?妙に落ち着き払って気に食わない!お前、俺達の事を恐ろしくないのか!」と恫喝した。

「私は少しも恐くありません。

もしも、ここで殺されるのなら、それが私の寿命であり、旅もここで終わる。それだけです。」と言うと、

「本当に恐ろしくはないのか!」と尚も凄んだ。

「ええ、私は人の形はしておりますが、元々人ではありません。」

私は当たり前の事を言ったのだが、

「妙な事を言う坊主だナ。よし、お頭の所へ連れて行け!」

私は無理矢理に五・六人の男達に腕を掴まれて隠れ家のような所に連れて行かれた。

その中には思いがけなく、こうこうと灯りがともされ明るかった。

中央の奥まった所に座っているのが恐らく頭だと思われる。

両側に一人ずつ控えていた。

私は頭の前に座らせられたが、私を取り囲むように十人ほどの男共が円陣を組んで、一斉に私を見ているのが解った。

まず頭らしい男が、

「お前はどこから来た。」と聞いた。

私は正直、旅立ったところの土地の名も知らないでいた。

ある村はずれの小さな小屋を出て歩き出して随分歩いた事だけがボーッと思い出された。

すると、「何故、答えないんだ!」

「ふざけるな!」

「何とか言え!」

手下の者共が口々にわめいた。

それを制するように、また頭が聞いた。

「どこへ行く?」

だが自分でもどこへ行こうとははっきりした目的地が無いので黙っていた。

すると、手下共がまた口々に騒いだ。

それを静かにするように一喝すると、

「名前は何と言う?」と頭が聞いた。

その時初めて、我に返ったような心地がして、師から呼ばれた名前を思い出した。

「師は私をシューと呼んでいました。」と答えると、

「その師は今、どこにいるのだ。」と聞いた。

「ここにおります。」

そう言って懐の布袋に手を当てた。

すると周りの者達全部が、

「おっ、この坊主。懐に金を持ってるぞ!」と騒ぎ出した。

何故なら懐に入れてあった袋がボーッと明るく光ったように私にも見えたのだ。

だが、頭はじっと私を見て、

「その懐の袋は金では無くて、お前の師だというのだナ。それなら出して見せてみろ!」と言った。

私は懐から袋を出して自分の前に置いた。

不思議な事に、小屋を出る時は両手ですくえる程の白い灰だったのに、今はズシリと重い金包みのようになっている。

手下の者がその袋を取り上げて頭の目の前に持って行った。

頭は袋の紐をほどいて中を見た。その途端、顔色が変わった。

その時の頭の顔は明らかに驚いていた。

何かとんでもないものを目にしたという目だ。

びっくりして食い入るように見ている目だった。

だが、それはほんの一瞬の事で、すぐまた紐を結んでしまった。

そして私に返してよこした。

それからの頭の態度は急に一変して、

「お聖人様、大変失礼な事を致しました。今日は遅うございますから、むさ苦しい所ですがここにお泊り下さい。」

そう言った後、手下共を下がらせた。

一人残らず手下共を部屋から出すと、頭は礼儀正しい静かな様子で、

「こんなに偉いお方とは知らず本当に申し訳ない事をしました。恐ろしい思いをさせました。ですが、私はともかくとして、ここにいる者共はこう言ってはお笑いになるかも知れませんが、そんなに悪い根性の者達ではありません。

どれもこれも貧しい百姓の二男、三男ばかりでございます。

耕す田も畑も貰えず、どこに行っても食っていける目途の立たないあぶれ者ばかりなのです。こんな事は理由になりませんが、そういう者達が知らず知らず集まって、いつの間にかそういう者達の頭になって道行く人々から金品を巻き上げて恐ろしい思いをさせたのは全て私の責任でございます。

本当に申し訳ない事をしました。」

頭は急にまるで夢から覚めたように真正直な心を取り戻したようであった。

しかし、この先、どうしたら良いのかと思案し困っているようであった。

私は頭の座っている所ににじり寄って額に手をかざしてみた。

頭は怒りもせずにされるままにしている。

この男は元、浪人で貧しさから妻子を死なせてしまって、自分も食って行けず彷徨っていた所、似た者同士が自然に集まって、最初はほん食うだけを頂戴するつもりが、今ではこの辺りで誰もが恐れる山賊の頭になってしまっているのだった。

長い間奪って来た金やまた、品物を売りさばいてかなりの金高になっているのが解った。

私は、「今までの悪事は白紙には出来ないが、今までの事は今までの事として、集めた金は土地を持たない二男三男の手下に平等に配分してしまった方が良いでしょう。

そして、これからはまっとうな生活をするようにと言い渡すのです。

今からでも遅くはありません。しかし、この薄暗い峠道はあなた達がこの仕事から手を引いても同じような事をする者は必ず現れるでしょう。

もしも、あなたに本当にその心があるならば、同じ志の者達数人で、この峠道を守って下さるのはいかがでしょう。それは罪滅ぼしにもなります。」

私がそう言うと、頭は急に表情を明るくした。

私はこの者達の先が明るく見えた気がした。

大方はまとまった金を手にして故郷に帰るだろう。後、何人かはこの小屋を庵の形に変えて僧侶の衣をまとい、日中は畑を作ったり、経を読んだりし、薄暗くなってからは通りがかって困っている旅人に宿を貸したり、仮に良からぬ者共が現れたなら、懲らしめもするだろう。

その事が彼等を少しずつまっとうな者にし、人から感謝される姿が見えるのであった。

何事においても遅いという事はないのだ。

悔い改めるならいつでもやり直しは出来る。


あくる朝早く、私はそこを出た。

まだ暗いから途中まで送って行くと言ってくれたが、私はそれを丁寧に辞退した。

頭も手下共も皆が揃って私を見送ってくれた。

私は何か胸の中がすーっとする思いだった。

人はこれを清々しいというのだろうか。

山の端が薄く白んで来た。まもなく朝陽が昇って明るくなるだろう。

私はこの夜明け前のひと時が最も好きだと思った。

私は一層清々しい気持ちで峠道を大股でズンズンと下って行った。

そうしながらも懐の袋に手を当ててみる。

昨夜はあんなにずしりと金包みのような重みのあった袋は、今は元のように少しの灰が入った柔らかい袋に戻っていた。

それにしても昨夜の事が思い出された。

あの頭は袋の紐をほどいて何を見たのだろう。あの男は本当に驚いていた。

何を見たのだろう?

まさか師がそこに形作って睨んでいたのか?

いや、一瞬であの男を改心させたものが入っていたのだ。

それを見てあの男は自分を取り戻したのだ。あの男にとってそれは何だろう。

もしかしたら亡くした妻子かも知れない。

そんな事を考えて下って行く道の向こうに、薄明るくなった空に白い煙が何本もまっすぐ登っている。風が全くない印だ。

あそこに人々の住む町があるのだろう。

今度は何が私を待っているのか。私は大股でグングン勢いよく歩いて行った。

やがて陽がすっかりあがって熱いぐらいの日だった。

辿り着いたそこは湯の出る所であった。

湯治宿が道の両側の何軒も並び、どの軒先もあちこちから来る客で賑わっている。

どの宿にも客引きがいて一人でも多くの客を呼ぼうと甲高い声を張り上げていた。

私がそこを通り過ぎようとすると、いきなり腕を掴まれて、無理矢理客引きらしい女に目の前の宿に連れて行かれそうになった。

そこで私は正直に金を持っていないと言った。

すると店の前にいたもう一人の女が、

「あれまあ、お坊様じゃないか。お金が無いって?でもまあいいヨ。お坊様は大事にしなくっちゃネ。」

二人はそう言って、強引に私を宿の上に上げてしまった。

そして連れて行かれたのは上客用ではなくて、何人もの雑多な客達が雑魚寝をする大きな部屋だった。

昼近くだったが湯からあがって来る者。これから湯に浸かりに行く者。あるいは持参して来た握り飯を食っている者。知り合って気が合ったのか盛んに話をしている者。男も女も雑多で実に呑気で様々である。

私はそれらの人達の邪魔にならないように押し分けて進み、丁度奥の方に空いている所を見つけて、そこに腰を降ろした。

その騒々しさは、ここずっと一人旅を続けて来た身にとって驚きであった。

最初は物珍しく辺りを見回していたが、

“余計な者は見るな、聞くな、しゃべるな”のあの教えを思い出せば、外の耳は閉ざされていつか自分だけの静寂の中にいるのだった。

私は静かに目を閉じ深い世界に歩み入り、しばし無我の境地にいた。

すると、その瞑想はあっけなく破られた。

しきりに私の腕を叩いたり、袖を引っ張る者がいたからである。

私が目を開けるといつの間にか見知らぬ女が二人私の目の前にいて話し掛けている。

「お坊様はどこから来たんだい?」

「年は何歳だネ?」

「いい男だネー。」

「これからどこへ行くのさ。」

「こんな所は初めてかい?」

「湯に入って来たのかい?」

と競うように矢継ぎ早に問いかけて来る。

見ると年の頃はそんなに若くは無いが、さりとて年寄りでもない。

子がいる年頃なのに子を連れてもいない。

私がそんな事を考えていると、

「何も話してくれないんだネー。」

「偉いお坊様はこんな所、初めてなんだヨ。」

「私達のような者と付き合うと修行の妨げになるからネ。」

「そりゃ、そうだ。」

「あらゆる雑念ってやつを振り払うのが修行だって聞くからネ。」

「そういうお方が何でこんな所にいるんだヨ。」

「ああ、きっと客引きのあのおばさん達にひっかかったんだネ。」

「まあ、いいサ。何事も世の中の勉強になるからネ。」

と二人の女は何も返答しない私に対しても別に気分を害したふうでも無く、むしろ何が面白いのか機嫌良く、自分達の持ち物の中から食い物を取り出して、それを無理矢理私の手にも握らせて自分達も食べ始めた。

それはゴマやら海藻やら梅干し

を混ぜて握った握り飯だった。

私はそれを食べて良いものかと少し思案していると、

「お坊様、食べなさいヨ。どうぞ召し上がって下さい。

これは私達からのいわゆる供物ですからネ。」と言う。

供物と言われてはそれを断る理由は無い。

私は礼を言って、それを素直に食べ始めた。

二人に女は物を食べながら盛んに休みなく二人で話し続けていた。

何の仕事をしているのか噂話は途切れる事は無かった。

ああだこうだと話しては笑い、笑っては話をしている。

それは誰かの噂話らしかった。

「今度はどなたの子供を生むのかネー。」

「五人いるから今度は六人目かい?」

「本当によく大儀がらずに生むもんだヨ。」

「しかも毎日休まずにビワを引きながらネ。ポロポロと生むっていうんだから余程、お産が楽なんだろうサ。」

「私達には到底出来ない芸当だヨ。」

と言ってまた、ワッハッハ、ハッハッハと豪快にひとしきりに笑った。

何がそんなに楽しいのだろう?

すると二人の女は今度は私を見て、

「お坊様、お坊様も気を付けた方がいいですヨ。この湯治場には西施様がおいでになるんですからネ。ほら、あの唐の国で有名な美女ですヨ。

お坊様は修行三昧の毎日でしょうから御存知ないかも知れませんが、大昔の唐の国で美女と言ったら“西施”って有名なんですヨ。

そのお方にも負けない程の美女だというので、この辺りでは“びわ弾きの西施”って呼ばれているんだけどネ。

その西施様がとんでもないクセ者なのサ。これぞと思う男を見つけると必ずものしてしまうのサ。

悔しいけれど、あの西施に例えられる美貌だもの。男という男はみんなまいっちまんだヨ。そこまではいいんだヨ。仕方が無いさネ。

だがとんでも無いのは、あの女は今まであの顔で五人も子供を生んでいるんだヨ。それも皆、違う男の子供をサ。

人の噂じゃ、その子供達を生んで付き合った男共からたっぷり金を絞り取っていると噂だヨ。」

「金の為に子供を次々と生んでいるのかネ。」

「きっとそうだヨ。そうでなきゃ何であんなに次から次と子供を生むのサ。それが不思議な事にとっても五人の子持ちに見えない事だヨ。

子供はあの女の母親が面倒見てるらしいヨ。とにかくいつの間にかスルリスルリと五人も子供を生んでサ。自分は独り者ですっていう涼しい顔で毎日、ビワを弾いて歩いているのサ。こっちは一人だって子供を生んだ事がないのにサ。羨ましいやら、憎たらしいやら。

とにかくお坊様、そんな女がいますからくれぐれも気を付けた方がいいですヨ。」

女達はそう私に忠告すると慌ただしく髪を撫でつけたり紅を引いたりして出て行った。

女達が行ってしまうと急に静かになったような気がした。

すると今度は廊下の方が、ザワザワしてやがて一人の女がこの雑多な大部屋に現れた。

部屋の中にいた者は男も女も一層ざわめいた。

誰か男が、

「西施様だ!」と叫んだ。

するとまた違う男が、

「観音様だ!いや弁天様だ!」と言い合った。

隣りにいた老人が、「観音様はいろいろに姿を変えて衆正の中におわすと言いますからナ。正しくそうなのかも知れませんぞ。」と言った。

私も思わず目を向けると、そこに現れたのはスラリとした紫の女だった。

ああ、これがあの二人の女達が言っていた「びわ弾きの西施」かと思って見上げた。

それは正しく遠目にも一瞬で人の心を捉えて離さないあでやなか姿であった。

白い単衣の上には目にしみるような鮮やかな紫の衣を羽織っている。

頭のてっぺんで一つにまとめて結んだ髪、その結んだ紐を両肩に長く垂らしているが、それだけが唯一彩りをそえる色鮮やかな錦だった。

それに何よりもその女の顔立ちの美しさと、気配の優雅さだった。

透き通るような白い肌に今、花開いたばかりのような可憐な唇、鼻筋は楚々と高く、目を伏せていても長く黒いまつげはそれだけで人を魅了するのに、開いた目は何とも言えず潤んだ黒目で、それが見る者の心を一瞬にして奪うような美しさがあった。

私も、その美しさにボンヤリと見とれていた。

すると、「ヨーッ、西施様!ここで一曲弾いて下さらんか!」と叫んだのはかつぎ売りの爺さんだった。

この老人も西施を応援する一人らしい。

すると西施なる女ははじらいのある若い娘のような様でかすかにお辞儀をするとその場に座った。

そして携えていたびわを胸に抱くと、ベベーンと弾き語りを始めた。

そしてまたも驚いた事にはその声だった。

楚々としたか弱そうなその様子とは裏腹に、ずしりと重い威厳のあるその声は、ろうろうと平家物語を語り始めた。

するとたちまち、騒々しかったその場はしんと静まり返り、先程までの喧騒が嘘のようにしわぶき一つ無い厳粛なしじまの森に変わっていた。

もはや目さえ閉じれば誰もがその中に自分だけが一人そこにいて、この悲しい物語の世界にたゆたう気分になれただろう。

私もこれは初めての経験だった。

物語の悲しさと語る者の美しさ、その語りに見事さが相まって超絶の幽玄の世界へ誘うのだった。

やがて物語は一区切りのある所で終えた。

終わった事が解った後でも暫らく沈黙が続いた。

やがて誰かが、「頂上!」と叫ぶと皆が皆、

「頂上!頂上!」と叫んで拍手をした。

語りを終えたその女はいかにも嬉しそうであった。

そうしているうちにも初めに声掛けをした老人が回したのだろう。布袋が私の所にも回って来た。

めいめいが貧しいなりにもわずかばかりの“志”を入れているのだ。

このような雑魚寝の部屋に泊まる者達は皆貧しい。その貧しい懐の中から例え少しでもこの袋に入れて今の感動と謝礼を表しているのだった。

私の所に回って来た時、私は何も持ってはいなかった。

けれど私の中にも何かしないではいられない感動が溢れる程、息づいていた。

私はやりきれぬ思いから思わず懐の中のあの袋の口を開けた。

だがやはりその中には白い灰が入っているばかりであった。

しかし、私は感動の証しにその灰をほんの一つまみつまんで、その袋の中に入れずにはいられなかった。

この西施なる女に幸いがあるようにと願ったのである。

やがて女は皆から集められた“志”の入った袋を有難そうに受け取ると嬉しそうに笑い帰って行った。

その女が去ると大部屋はまた、元のように騒々しさを取り戻した。

私は奥の隅の方に座っていたのだが、どういう訳か男も女もいろいろな人が入れ替わり立ち替わり私の前に来て食い物を差し出したり、飲み物を勧めたりして話をしたがった。

そうしながら自分の腹の中にある心配事や悩み事、果ては失せ物等の相談をするのであった。

そうして一日は暮れ、その日はそこに雑魚寝をした。

翌朝早く隣に寝ていたあの爺さんに誘われて、沢にある露天風呂に入りに行った。

早朝という事もあって、辺りは少しの先も見えない程の深い霧が立ち込めていた。

老人が、

「霧の中の露天風呂もなかなかいいじゃありませんか。これこそ頂上ですヨ。この短い一時が浮世の辛い事も一瞬だけ忘れさせてくれます。

ねえ、お坊様。お坊様にも悩みというものはあるんでしょうネ。

心が痛むって事はあるんでしょうネ。」と話し掛けて来た。

私はこれまで旅の中で出会った人々の心に触れ、その時の心の痛みを思い出していた。

その痛みが自分のもののように私の胸を刺し、あるいは重苦しくしたのを覚えていたので、

「人の心の痛みが私の痛みです。」と私はありのままを話したが、

「さすが、お坊様だ。そうでなくっちゃいけません。どんなに偉くなっても、今のこの気持ちを忘れないで下さいヨ。」

老人はそう言って、先に湯を出て行った。

その後、私は湯気と霧の中でまだ暫らくボーッとしていた。何か悔いのようなものが残った。今の老人は確かに私を人間として、自分の仲間として語りかけて来たのだ。

私を親しい者の一人として心に触れようとして来たのだ。

その老人の話し掛けに対して、私は嘘を言ったのでは無かったし、単なる建て前を語ったのでは無かったが、あの老人はそう受け取ったのかも知れないと思うと淋しかった。

私がもっと違う答え方をしたならもっとあの老人と心というものの触れ合いを感じたのかも知れない。

私はまだまだ未熟だ。まだまだ駄目だと思って何故か悲しかった。

人から度々、相談を持ち掛けられるが、今の老人のように人として友達として触れ合う事はそうそうあるものでは無い。

私はその大切な機会を逃してしまったのだ。

それならば他にどんな答えようがあったろう。私は果たして人間と言えるのだろうか。やはりまだ人ではないのだろうか。

私は以前に師にお前は“土くれ”だと言われて疑わなかった。だが、もし土くれなら湯に溶けるだろう。

今、私はこのように湯に浸かっている。

だが、形は人であっても中身は土くれに過ぎないような気がする。

湯から出て衣をつけ、今朝は大部屋に戻らずにこのまま行こうと宿を出た。

すると、まだ朝もやの立ち込める宿の表で一人の女とばったり出くわした。

女が私を驚いたように見ている。

この女にはどこかで会ったような気がした。

私がそれを思い出すかどうかのせつなに、

「そうです。昨日びわを弾いた者です。」とその女は言った。

そうだ。この目だ。あの時の西施の目だ。

濃い朝もやを背に建っているその姿は、粗末な普段着で髪も真上で縛っているのではなくて、洗い髪を無造作にゆるく肩の所でまとめたものだった。が、それだけに現実の生きた血の通う若い娘のように瑞々しく、初々しく一層、その美しさが匂い立つようであった。

私は思わずドキリとした。

そして、この女を好もしく思っている自分を認めない訳にはいかなかった。

今まで感じた事のない心の動きだった。

私が驚いて黙っていると、

「あの、昨日は大層なお宝を頂き、ありがとうございました。」と女は言った。

あの袋の中に小判が二枚入っていたという、失礼な物言いをするが、あの大部屋に寝泊まりをする人達は、その日生きて行くのもやっとの人達で、とても小判を二枚も弾む人はいない。

驚いてあのかつぎ売りのお爺さんに聞いた所、それならきっと旅の途中のお坊様だろうと言ったと言う。

「旅に必要な貴重なお金を私の為に入れて下さって、本当に有難くて是非、お礼を言いたいと思ってこうしてお待ちしておりました。」と西施なる女は言った。

私は即座に、

「それは私ではありません。他のどなたかなのでしょう。」と私は自分の心の動揺を隠しながらすげなく言った。

朝早くからここで待ち伏せしていたのが驚きだったし、昨日の二人の女達が、お坊様、気を付けた方がいいヨと言った言葉が思い出されたからだった。

だがその一方で、この女が子を五人も生んだのかというような単純な驚きがあったのだ。

子が五人もいるならば、こんなに若くは無い筈だ。

五人の子の母親ならば、どんなに繕っても所帯臭さや疲れを隠せない筈だ。

だが今、目の前にいる女はまだ嫁にも行かぬ若い娘の初々しさをたたえている。

「子が五人いるというのは本当ですか?」

私は突然そう聞いていた。

女は一瞬、あっと驚いて私を見上げ、それから目を伏せた。

長い睫毛で目の色を隠しながら、

「誰かから話を聞いたのですネ。いろんな噂が飛び交っている事は知っています。

その噂は本当です。私には五人の子がおります。

私の大切な子供達です。」と言った。

女が話すのを私は改めてボーッと見ていたようだ。

「その事は嘘ではありません。本当の事です。母が子供達を見てくれています。私は子供達と母の為に働いています。それと夫の為に。」と女は言った。

「夫?」

「はい。私には夫がおります。ちょっとした諍いが元で右手を駄目にした人です。私の父は包斉というびわひきでした。

父には小さい頃から可愛がっていた包雪という弟子がおりました。それが私の夫です。

父の包斉が思いがけなく早く亡くなって、私は包雪と一緒になりました。

包雪も声の良いびわひきでした。

それが妬まれたのかどうか解りません。喧嘩を売られて、その時、相手が攻撃したのは大事な右手でした。

夫はその時の怪我が元で右手がすっかり駄目になってしまいました。びわが思い通りに弾けなくなって自暴自棄になった夫は毎日酒を呑んでばかりいてすっかり駄目な人間になってしまいました。

ですから、私が代わりに生活の為にびわを弾き、この湯の里を周り始めました。

子供の頃から、父と夫の引き語りを聞き、自然に覚えたものです。食べる為に始めたそれが、思いがけず評判になり、今では誰が言い出したかびわ弾きの西施だなどと言われています。本当は包寿という名で仕事をしております。

西施だなどと言われるのは嫌なのですが、その噂のお陰であちこちから声を掛けて頂いているのも事実です。

私達家族が食べて行けるのも、その噂のお陰です。

私がこの仕事を辞めたなら、明日にも食べて行けなくなるでしょう。

お聖人様はどんな噂を耳にしましたか?

夫は世間の噂を真に受けて、子供達は自分の子では無いと言います。

お前はいろんな客の子供を生んだのだろうと言って私を責めるのです。

でも天に誓って申し上げます。

私は夫以外の人と一度だって間違いを犯した事はございません。

女を武器に金を無心した事も絶対にありません。

五人の子は全て夫の子です。

持って帰るお金は私がびわを弾き語りして頂いたお金です。

私の性質を知っております母だけが信じてくれていますが、世間の噂を耳にした夫は、もしかしたら五人が五人とも自分の子供ではないかも知れないと疑っています。

昨日思いがけなくあの大部屋で集めて下さった袋の中に、小判が二枚も入っておりました。

ああ、これで当分は子供達を安心して食べさせて行けると母と喜び合いましたが、その反面、夫がどう邪推するか心配でもありました。

まさか隠し通す訳にも参りません。夫には正直に話しましたが、やはり疑っているようです。

あれから夫の様子が以前に増してひどくなりました。

このお金はどこから出たお金か、誰がこのような大金を袋の中に入れて下さったのか是非に知りとうございます。

あのお金を入れて下さったのはお聖人様ではございませんか?」

そう言って私を見上げた目は涙で濡れていた。

包寿なるこのびわ弾きは本当に話を聞けば聞く程哀れに思えた。

類まれな美貌を持ち、びわ弾きの腕と声を持ち、既に五人もの子宝に恵まれて理解ある母親がいる。人から羨ましがられ妬まれ、歴史に名を残した絶世の美女、西施にも例えられ評判をとっている。

それ程の女がこんなに悩んで苦しんでいるとは誰も思いはしないだろう。

この女の言った事が真実だという事はその目の中に見てとれた。

私はあえて女の額に手を当てる事はしなかった。この女は今、助けを求めている。

ほんのわずかな人の情けにもすぐにも流れて来るような切羽詰まった情念のようなものを抱えて生きている。

それが伝わって来るだけに、私はあえて冷静を装って話した。


「その二枚の小判に私は思い当たるふしはありません。この私は一銭も金を持たない貧しい修行の身です。道々出逢う人からの温かい施しを受けて旅を続けているのです。

もしかしたら、そのお金は御仏があなたに下さったものではないでしょう。

あの時、私の前に袋が回って来た時、恥ずかしい話ですが、私はその中に入れる一銭のお金も持っていませんでした。

ですが、あなたの語りには本当に心を揺さぶられました。今まで知る事のなかった幽玄の世界にひと時いざなわれました。

その感謝の気持ちを表す物が何もなくて、私はいつも懐に抱いている私の師そのものの白い遺灰を一つまみ入れてしまいました。

あの時は、そうせずにはおられなかったのです。

それは私にとっては自分の命より大切なものですが、恐らく師も許してくれると思ったのです。

もしやそれが二枚の小判に姿を変えたのかも知れません。それならば、その二枚の小判は御仏があなたに遣わしたものです。

どうか安心してお子達の為にお使いなさい。」

私の話を聞くと、女の気持ちの高ぶりもおさまったようだった。

女は深くお辞儀をして私を見送っているようであった。私は、歩き始めた。

朝の霧はいつの間にか流れて消えかかっていた。

人は美しいからといって幸せでもなく、また、醜女だからといって不幸かというとそうではない。

むしろ、美しいが故に行く先々で棘のあるあらぬ事を言われたり、道を塞がれたり、不自由な暮らしをする事になるのかも知れない。

私がそんな事を考えながら歩いていると、横あいの草むらから突然、刃物を持って飛び出して来た者があった。

あやうく、それをかわして相手の顔を見ると、その男の顔は幽鬼のようだった。

私は即座にこの男があの包寿の夫だなと解った。

その男はやせこけて目玉だけが異様にギラギラ光るその顔で、

「お前があれに小判を恵んだ坊主だろう!」と喚いた。

目は充血して赤く正気では無い。

自分の自信の無さと妄執に囚われたこの男の心はどんな言葉も入る隙の無い激情の渦の中にいて、すっかり鬼と化しているのだった。

何が何でも私の命を取ろうとする殺意が迫って来る。

私はその男から逃げながらも頭の隅で、今、私がこの男に刺されたら、やはり人として死ぬのだろうか?もしも死ぬのだったら、私が本当の人となったという事だろう。

死ぬのは別に恐ろしくもない。

どうしてもこの先長く生きていたいという欲もない。

もしも私が死ぬ事で誰かが幸せになるのなら、むしろ死んでもいい。

そう思ったりした。

朝の靄が晴れた街道筋はそこを通る人があちこちに目立ち、この争いに気付いた人々が立ち止まって遠巻きに見守り始めていた。

私は男の刃から何度か逃れながらも、また考えた。

私がこの男に切られて死ぬ事で、誰が幸せになるだろうか。

私が死んだら、この男はいずれ捕らえられ罪人となるだろう。

そして、あの西施なる女は人殺しの妻となり、いついつまでも悪い噂が立ち、この湯治場での仕事がなくなるだろう。

五人の子供達も死ぬまで心に傷を負うだろう。

そう思うと、私はここで切られて死ぬ訳に行かないと思った。

せめて、この男が息が切れておとなしくなったなら、男の額に手を当てて、その妄執を取り除いてやれるのだが、そう思いながらも私はその男から必死で逃げていた。

すると、

「あなた、やめて下さい!そのお坊様はあなたが憎む相手ではありません!あなたが憎むべきお方は今朝早く旅立たれました!今頃はあの峠を越えているでしょう!」

そう叫んだのは、あの西施と言われた女だった。

その声を聞くと男は振り返って女の方を見た。

女の指さす峠を見、それと同時に自分が人だかりの中にいて多くの人々から見られている事に気が付いて、一瞬、我に返ったようだった。

だが本当に正気になったのではなかった。

「ウォー」とまるで獣のように叫ぶと、女が指さした後ろの峠道をさして一目散にかけて行った。それは人とも思えぬ速さだった。

妻は夫がもう何を弁解しても人の心を取り戻さない事を知っていたのだろうか。

何度信じて貰おうとしても無駄だった事がそうさせたのだろうか。

私はボーッと男の後姿を見ていた。

男の姿は峠道を登って見えなくなった。人々もザワザワしながらも自分の生活に入って行った。

気が付くと女は、その人達よりも早く姿を消していた。

私は妙に虚しい心をかかえてまた歩き出した。

その後、その男がどうなったかは知らない。

私の頭の中には何も浮かんで来なかった。せめて何年後、何十年後でもいい。静かな心に返って男が悔いてくれれば良いと願う。

だが本当に男の心に正気が戻るのなら、あの女や子供達の為に遠くから見守り続けるのが本当の優しさだろうとも思う。

あの男は妻があまりにも美しく、あまりにも自分より優れていたが為に、身を崩したのかも知れない。

昔から絶世の美女は国を滅ぼすと言うが、男をも滅ぼすのかも知れない。

それを目の当たりにした。何とも言えぬ後味の悪さがいつまでも残った。

それにほんの束の間だったけれど、この私があの女の美しさに心を奪われた事は本当だったし、その夫から命を狙われたのは皮肉な事だった。

あのままあの土地にいたならば、あの美しい女の情念にがんじがらめになっていたかも知れない。そして、その男が私だとしたら、私はやはり人間なのかも知れない。

人の世とは何と複雑で情念が絡み合った世界だろう。

そのような世の中で人として生きるのは難しい。

どうしようもない救われない心を抱えて私は歩いた。

私は歩きながら、こんな自分を慰め励ましてくれるものを探した。

しかし、そんなものは今の私にある筈もない。

途中、ある家の前を通り過ぎる時、老婆に抱かれて眠っている猫の穏やかな姿が目に沁みた。あの猫は少なくとも人より幸せに違いないと思った。

あの猫は自分だけでなくあの老婆をも幸せにしているのだと思った。

その後も、度々思い出すその姿は私を慰めた。

そしてあの猫は、私の心も癒してくれた。

それからも旅を続けながら、いろいろな人と会い多くの人を見たが、その見方は以前とはすっかり変わった。

あんなに興味深かった人々だったが、今ではその誰もがあえぎあえぎ生きているように見えて仕方が無いのだ。誰もが苦しみ悲しみを抱え、それを隠しながら無理に笑っているように見えてしまうのだった。

私の心は以前のように単純に人を見る事がもう出来なくなってしまった。

あらゆる事が悲しみに満ちて見え、全ての人が助けを求めているように見えてしまうのだ。

だが、何よりも変わったのは私自身かも知れない。

以前は出来た事が出来なくなった。

前のように淡々と人の額に手を当ててその人の心を読み、良かれと思う言葉を与え、その者の行く先の幸せを願っていた。そんな簡単に出来ていた事が何故か出来なくなっている事に気が付いた。

私はいつの間にかただの人間になってしまったのかも知れない。

人を救う等、そんな事は恐れ多いと感じ始めている自分がいる。

自分という者は初めから特別な力など持ってはいない。

今までたまたま人の役に立てただけの凡夫だ。

たかが土くれで出来た者に何が出来ようか。

そう心に迷いが湧くと、いつの間にか全てに自信が持てなくなるものだ。

旅の空は青く晴れ渡っていても心にかかる雲のせいか、私は何故かしら何事にも怖気づいて自信の無い心を抱えてのろのろと歩いていった。

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