魔女は御伽噺のような恋をする

花散ここ

魔女は御伽噺のような恋をする

 ごりごりと独特の音が響く深夜。

 わたしはすり鉢の中に入れた木の実を、すりこぎを使って潰していた。これが一番力のいる作業で、ここが終われば調合するだけ。


 薬を作る作業机の上には、水鏡が置いてある。魔導具のひとつであるその水鏡には、わたしの姉達の姿が映し出されていて、賑やかなお喋りがわたし一人の部屋の中で弾んでいるようだった。


「トリクシー、いい加減に攫ってきちゃえばいいじゃない」


 呆れたような姉の声に、わたしは困って笑うばかり。

 ベアトリクス・オルローブ。魔女の家系であるオルローブの血を引くわたしは、姉達からトリクシーという愛称で呼ばれている。


 薬を作る手を止めて水鏡に向き合うと、姉二人がお酒を飲んでいるのが見えた。二人の黒髪にはアネモネが飾られていて、それは肩まで伸ばしたわたしの黒い髪にも同じように飾られている。

 黒い髪に水色の瞳。わたし達三姉妹の色彩は同じで、これもオルローブの魔女特有のものだったりする。


「一目惚れしちゃったんでしょ?」

「あの王子様・・・、綺麗な顔をしていたもんね」

「向こうも満更でもなさそうだし、押して押して自分のものにしちゃえばいいのよ」

「使えるものはなんでも使わないと。あたし達は魔女なんだから」


 姉達は酔いが回っているのか好き勝手なことを喋っている。

 木の実を潰し終えたわたしはすりこぎを机の上に置き、ゆっくりと首を横に振った。


「それじゃあ御伽噺に出てくる悪い魔女だわ。……いいのよ、別に。恋が叶わなくたって、あの人の側に居られたらそれでいいの」


 呟く声は恋の色に染まっている。

 そんな自分に自嘲の溜息をつくと、姉達がぐいっと水鏡に顔を寄せた。いまにもこの中から出てきそうな程に距離が近い。


「それで満足できるわけないのよ」

「恋ってのはね、そんな綺麗なものじゃないんだから」

「運命的な出会いだもの、御伽噺の魔女みたいだっていいのよ」


 わたしよりも経験豊富な姉達の言葉は重みを感じる。それでも、今すぐに動くことなんてわたしには出来なかった。


「あの人とどうなりたいとか、そういうのはまだ考えられないんだもの。顔が見れたら嬉しくて、お話が出来たらどきどきする。好きって気持ちを伝えるなんてこと、まだ出来ない」

「妹の純粋さが眩しい」


 顔を見合わせた姉達は大きな溜息をついている。

 なんと言っていいか分からずに、わたしはただ笑うしか出来なかった。



 窓から見上げた空には蒼映える丸い月。

 月があまりにも眩いから、星は姿を潜めている。


 姉達とのおしゃべりも終えた後は、部屋がひどく静かに感じる。

 今日はもう調薬をする気にもなれず、わたしはベッドに入ることにした。


 体を丸めて毛布の端をぎゅっと握る。冷たいシーツがじんわりと暖かくなっていく。

 眠りに落ちるまでのこの時間で、思い浮かべてしまうのは……いつも同じ、あの人・・・のこと。


 初めて出会った時から、あの人は──輝いていた。



 * * *


 薬の材料となる草花を摘んだ帰り道、わたしは鳥に乗って移動していた。山の頂上付近にしか咲かない花だから、鳥に乗って行くのが一番早い。

 この鳥はわたしの魔法で作られた鳥で、わたしの思うままに飛んでくれる。オルローブの家に生まれた魔女がはじめに覚える魔法でもある。


 遠くに街の明かりが見えてきている。薄暗くなってきているけれど、夜になるまでには家のある森まで帰れるだろう。


 そう思った時だった。


 空に打ち上げられる光の玉。

 それは『救援』を示すものだとわたしは知っていた。母からの教えが頭をよぎる。


『助けを求めている人がいるなら、手を伸ばしなさい』


 わたしは進路を変えて、その救援信号の元へと急降下していった。



 辿り着いた先は血の匂いに塗れていた。

 倒れ伏して骸と化している魔獣たち。


 数人の騎士らしき人達が囲んでいるのは、同じような鎧に身を包んだ一人の青年だった。


 騎士達も大怪我をしていて血だらけだったけれど、この人が一番ひどい。命の灯が消えかかっているのが、見るからに伝わってくる。


 魔女だと明かしたわたしは、青年の治療に取り掛かった。

 運のいいことに、強い薬草の材料となる白花を摘んできたばかりだ。本来ならば粉状にして、他の薬と混ぜたものを傷口に塗り込むのだけど、この花自体にも治癒能力がある。


 他にも持っていた薬草や薬、それから治癒魔法を駆使することで、青年の命を繋ぐことが出来た。

 ほっとしたのも束の間で、周りで固唾を飲んで見守っていた騎士たちの手当てもしなければならない。幸いにも薬やわたしの魔力にもまだ余裕がある。彼らを送り届けるまでは出来そうだ。


 騎士たちの応急手当てを済ませてから、わたしは転移の式を組み立てていた。わたしが乗っていた鳥ではこの人数は運べないからだ。城の座標を確認して、魔導具の杖で地面に魔法陣を書き込んでいる時だった。


 騎士達の歓声があがった。そちらを見れば泣いている人もいる。

 その騒ぎの中心である青年は起き上がり、わたしに向かって微笑みながらお礼を述べた。


 その蕩けるような笑顔にわたしは──一瞬で恋に落ちてしまった。



 * * *



 鳥の囀りが聴こえる中、わたしはお店を開ける準備をしていた。

 早朝の空気は澄んでいてとても気持ちがいい。このお店は街の外れで森が近いから、余計にそう感じるのかもしれないけれど。


 わたしがあの時救ったあの人・・・はこの国の第三王子であるユリウス様だった。

 魔獣に悩まされていた町の人を救う為に、騎士達と共に討伐に出たはいいけれど、調査していた数よりも魔獣の数が多かったのだという。


 襲い来る群れを倒す事はできたが、ユリウス様は重傷。魔獣の群れと相対した時に打ち上げた救援信号に反応はなかったけれど、藁をも掴む気持ちで再度打った救援信号をわたしが見つけられたというわけだった。


 王子を救った功績で、わたしには褒賞が与えられることになった。わたしが望んだのはこのオーレンドルフ王国で薬屋を開くこと。

 自分のお店を持つのが夢だったわたしは、思いもよらない形でそれを叶えてもらうことになった。

 この国に他に魔女がいない事もあって、国王陛下はわたしの滞在を快く許してくれたのだった。



 そんなことを思い出しているあいだに、開店準備も終わってしまった。

 お店に並んでいるのは様々な効能のある薬の他に、お化粧品がすこし。それから森になる果実を乾燥させて作ったお茶。


 その中でも一番売れるのがやっぱり薬だ。

 治癒魔法を受ける為には診療所に行かなければならないのだけど、そこまでの症状ではないという時に重宝しているらしい。


 お客さんの求めるものに合わせて調薬することも出来るから、生活していくのに不自由ないほどの収入を得られている。それはとてもありがたいことだった。


 ──カランカラン

 店の扉につけられたベルが、来客を知らせてくれる。


「いらっしゃいませ!」


 今日もまた、穏やかに過ごせますように。



 お客さんはいい人ばかりで、畑で採れた野菜だとか手作りのお菓子を差し入れてくれる。

 だからお店をやっていて、困ったことはほとんどないのだけど……ひとつだけ悩まされていることがあった。


「わたくしの話を聞いているのかしら」

「ええ、もちろんですよ」


 お店のカウンターの前で眉を寄せている令嬢は、クララ・コンスタンツェ。コンスタンツェ伯爵家の愛娘で、ユリウス様の婚約者になる人らしい。


 わたしがユリウス様を助けたこと、それ以来何かと気に掛けて下さっていることを面白く思っていないらしく、暇があればお店に来て嫌味を落としていくのだ。

 お店の内装に文句をつけたり、薬が効かなかったとかを大きな声でしゃべっていく。他のお客さんの迷惑になるからやめて欲しいのだけど、中々聞き入れてはくれなくて困っている。


「魔女なんて怪しいものを、この国に置いておくなんて見過ごせないの」

「左様でございますか」

「ユリウス様へ魅了なんて掛けられたらたまったものじゃないものね」

「わたしにそんな魔法は使えません」

「惚れ薬を作ったり……」

「それは御伽噺の中だけですよ。人の心は魔法で操れませんもの」

「そんなの信用できないわ」

「左様でございますか」


 薬の在庫を帳面に記しながら返事をする。

 最初は丁寧に対応していたのだけれど、疲れるからやめてしまった。それが余計に彼女を苛立たせているのは分かっているけれど。

 

 魔女は何者にも跪かない。

 彼女にそれなりに丁寧に接しているのは、わたしの誠意だ。追い出したって構わないのだから。


 ひとしきり嫌味を言って満足したのか、クララさんは侍女を従えて帰っていった。

 あの大きな馬車でこの店に来るのは、きっと大変だろうに。


 魔女を忌避する人はどこの国にもいる。

 万人に受け入れられるとは思っていないし、それでいいのだとも思っている。だから別に、クララさんに何を言われようと構わなかった。


 悪い魔女ではないと、自分が一番よく分かっている。

 それから……ユリウス様がそう思ってくれていたら、それで充分。



 帰ってくれてほっとしていたら、もう閉店も近い時間。

 いつもよりも色の濃い夕焼け空が、雲を赤く染めていた。お店の看板をしまおうと外に出ると、ひんやりとした風が頬を撫でていく。もう秋も終わり、冬の気配が漂っている。


 遠くから地響きが聞こえてくる。この時間に馬に乗ってやってくる人。そんなの一人しかいなくって、わたしの胸は期待に弾んだ。


「やぁ、ベアトリクス。今日の店はどうだったかな?」


 軽やかに馬から降りたユリウス様は、従者の方に手綱を渡す。

 そのまま従者の方は自分の馬と一緒に近くの川まで歩いていく。これがもう日課になっていて、馬もそれを覚えているのか自分から川の方へと歩いて行っているようにも見えた。


「ユリウス様、こんにちは。ありがたいことに、今日も沢山のお客様がいらして下さいました」

「それなら良かった。薬草を持ってきたよ。少しでも足しになるといいんだけど」

「助かります。いつもありがとうございます」


 持ち上げようとした看板は、ユリウス様が先に持ち上げてしまう。

 銀髪が夕焼け色に染まってとても綺麗。金色の瞳はまるで空に浮かぶ星のように煌めいていた。


 慣れた様子でユリウス様が看板を畳み、壁に立てかけてくれる。その間にわたしはカウンターの中に入り、お茶の準備を始めた。出来たばかりの林檎茶が美味しかったから、それを飲んでもらおう。


 ユリウス様は出してある薬草を棚の中にしまってくれている。夕方に来た時は閉店準備を手伝ってくれるから、とても助かっているのだ。


「何か足りないものはない?」

「大丈夫です。薬草もユリウス様が採ってきてくれますから、随分楽をさせて貰っていますし」

「それならいいんだけど。今度一緒に薬草を採りに行かないかな。栽培についても色々と教えてほしいこともあるし」

「わたしで良ければ喜んで」


 片付けを終えたユリウス様がカウンターに用意してあるスツールに座る。

淹れたばかりの林檎茶を出すと、美味しいと朗らかに笑う。閉店して少しのこの時間が、わたしは大好きだった。

 仄暗くなる店内を魔導光が照らしていて、カウンターに置いてある水晶がきらきらと光を映していた。ユリウス様の長い睫毛も光を受けて、頬に影を落としていた。


 わたし達のお喋りはいつも他愛もないことだ。

 読んだ本の話、美味しいお菓子の話、お客さんから聞いた面白い話、それから薬草の話。

 ユリウス様はあの時に命を取り留めたことで、薬草や治癒魔法について研究をするようになったのだという。

薬草を摘んできてくれるのもその一環で、いまでは畑を作って薬になる草花を栽培しているらしい。


 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。

 日が沈んで月がその姿を空に浮かばせる頃になって、ユリウス様は帰城していった。



 今日もお話が出来た。

 今日も笑いかけてくれた。


 それだけで心が弾んで、幸せな気持ちに包まれる。


『恋ってのはね、そんな綺麗なものじゃないんだから』


 浮かれた気持ちに釘を刺すように、姉の言葉が頭の中で反芻する。

 

 恋をしたばかりのわたしだけど、姉の言いたい事はなんとなく分かる。

 それに……この恋が叶わないのも知っている。


 ユリウス様には婚約者になるクララさんが居るのだから。

 でも、もう少しだけ。この甘い初恋に浸っていたかった。




 また数日が経って。

 いつもは夕方に来ることが多いユリウス様が、お昼前にやってきた。


 お客さんもいなかったので、カウンターでお喋りをすることにした。

 まだ明るくて賑やかな時間に会うのは珍しいから、それだけでもどきどきしてしまった。


「今日は早い時間なんですね」

「数日の間、王都を離れることになってね。すぐ帰ってくる予定だけど、出発前に君と会っておきたかったんだ」


 その言葉に鼓動が跳ねるのと同じくらい、寂しい気持ちに襲われた。

 今までだって毎日逢えていたわけじゃない。なのに『王都にユリウス様がいない』というそれだけで、すごく……寂しい。


「そう、なんですね……。どうかお気をつけて」

「ありがとう。……そんな顔をしなくても、すぐに帰ってくるよ」


 困ったように笑うユリウス様の言葉を受けて、自分の頬に触れてみる。いつもと何も変わらないと思うのだけれど、鏡を見ないと分からない。

 そんなに変な顔をしていただろうか。恋心が映っていたのだろうか。


 ユリウス様は手を伸ばすと、わたしの頬にそっと触れた。

 顔が赤くなるのが自分でも分かる。触れられた場所が、熱い。


 わたしの頬を撫でる指の腹が固いのは、剣を握る人だからかもしれない。


「寂しいと思ってくれている?」

「……寂しい、です」


 柔らかな問い掛けに、嘘なんてつけない。

 思いのままに言葉を零すと、ユリウス様は嬉しそうに笑った。


「私もだよ。すぐに帰ってくるから、待っていて」


 ユリウス様はどんな気持ちで、そんな言葉を口にするんだろう。

 それを問う勇気もなく、わたしはただ頷く以外に出来なかった。


 わたしの頬を再度撫でてから、ユリウス様が手を落とす。手が離れてしまうとあれだけ熱かったはずの頬が一気に冷えていくような気がするのだから不思議なものだ。

 名残惜しいだなんて、湧き上がるのは浅ましい思い。それに引き摺られないよう小さく空咳をしてから、わたしはお茶のポットへと目を向けた。


「お茶を飲む時間はありますか?」

「うん、頂こうかな。今日はどんなお茶を淹れてくれるのか、それも私の楽しみなんだ」

「ありがとうございます。今日は桃の紅茶なんていかがですか?」

「いいね、それを頂こう」


 お茶の準備をしているわたしの手元を覗き込むように、ユリウス様はカウンターから身を乗り出してくる。銀色の髪が目元にかかった時に、邪魔そうに耳に掛ける仕草も好きだ。


 準備といっても大したことをしているわけではない。少し濃い目に淹れた紅茶のポットに、お客さんから昨日貰った桃をカットして沈めているだけ。味が馴染むように少し置いたらカップに注いで、シロップを少し垂らして出来上がり。


「桃のいい香りがするね」

「昨日、お客さんから頂いたんです。この桃は後でパイの中に入れようと思っているんですけれど」

「美味しそう。食べられないのが残念だな」

「ふふ。美味しく焼けたら、お戻りになった時にまた焼きますね」

「楽しみにしてる。一層早く帰らなくちゃって、そういう気持ちになるな」


 カップを長い指先で持ったユリウス様は、香りを楽しんでから一口飲んだ。美味しい、と漏れる言葉が嬉しくて、わたしの頬は緩むばかりだ。

 わたしもカップを口に運ぶ。うん、美味しい。やっぱりシロップを足して正解だった。


「そういえば君に教えて貰った通りの肥料配分で、花が綺麗に咲くようになったよ。このままいけば実をつけるのも早いと思う」

「お役に立てたなら良かったです。あの花は育てるのが凄く難しいものなのに、肥料だけで上手くいくなんてユリウス様がちゃんと目を掛けてあげているからですね」


 ユリウス様が育てている薬草畑で、中々咲かない花があると相談を受けたのも先日のこと。肥料配分を教えてもその通りに作るのは難しいはずなのに、まさか花を咲かせられるだなんて凄いことだ。

 それだけ細かな変化にも気付いたり、手を掛けたりしてあげているのだと思う。


「薬になる草花があれば、ここに来る口実にもなるだろう?」


 悪戯そうに笑うユリウス様が眩しくて、わたしの恋心は膨らむばかり。

 でもそれを零すことも出来ずに、肩を竦めて笑って見せた。


「そんな口実なんか無くたって、ユリウス様ならいつでも歓迎ですよ」


 これくらいなら許される?

 そんな距離を測りながら、わたしはカップを口に運んだ。


 桃の香りがずっと口の中に残っているようだった。



 従者の方が呼びに来て、ユリウス様が帰城されて……それからは少しぼんやりしてしまったかもしれない。

 お客さんの応対はいつものように出来ていたはずだけど、心がどこかで迷子になっているみたいだった。


 寂しい。

 ユリウス様がいないのなら、しばらくの間、お店を閉めて薬草採取に行ってしまおうか。


 そんな悪い考えも頭をよぎるけれど、わたしの薬を買ってくれるお客さんのことを思うと出来そうにもない。

 少し会えないと分かっているだけでこんな気持ちになってしまうなら、ユリウス様がご婚姻をされた時にはどうなってしまうんだろう。

 自分が怖くて、溜息が出た。



 夕方、そろそろお店を閉めようと外に出る。

 遠くの山の稜線が金色に染まっているのがとても綺麗。そんな色にまでユリウス様を思い浮かべてしまうのだから、わたしも大概かもしれない。


 冷たい風が頬に触れる。

 この国に雪は降らないらしいけれど、確実に冬はやってきているのだろう。赤く染まる空には細い月が浮かんでいた。


 よいしょ、と掛け声をひとつ出しながら看板を持ち上げた時、遠くから馬の蹄の音がした。

 まさかと思いながらそちらを見るも、お店に向かってきているのは見覚えのある馬車だった。


「……珍しいわね、こんな時間に」


 クララさんの使う馬車だ。

 いつもはもっと日の高い時間に来るのに。何だか嫌な予感もするけれど、お店を目の前で閉めてしまうわけにもいかない。

 看板をしまいながら溜息をついた。



「……肌荒れを治す薬があると聞いたのだけど」


 羽飾りのついた豪華な扇で顔の下半分を隠しながら、店に入るなりクララさんはそう言った。

 どことなく気まずそうなのは、嫌味を向けていたわたしから薬を買おうとしているからだろうか。


「ありますよ。少し症状を見せてほしいんですが……」


 わたしの言葉に躊躇したように、クララさんが目を伏せる。

 眉を下げたその表情からはいつもの高慢な様子は見て取れず、年相応の女の子のようにも見えた。


 ゆっくりとクララさんが扇を閉じる。

 近付いて肌の様子を見ると……確かに荒れている。白粉おしろいに負けたのだろう、赤い湿疹が両頬全体に広がっていた。


「すぐ治る薬がありますから、大丈夫ですよ。ただこの薬には注意点があって……」


 薬を並べている棚からひとつの小瓶を手に取って、わたしはクララさんに向き直った。

 薄茶色の硝子瓶を揺らすと、中で液体が揺れている音がする。


「この薬を塗ったら、日光に当たってはいけません。なので眠る前に塗って、朝起きたら顔を洗ってから外に出て下さい。良くなるまでお化粧も控えた方がいいですね」

「どのくらいで治るのかしら」

「三日もあれば治りますよ。でも先程言ったように、日光に当たらないことだけは守ってくださいね」

「守らなかったらどうなるの?」

「肌がただれます。そんな肌荒れよりももっとひどい事になりますし、跡だって残ってしまうかもしれません」


 小瓶を渡しながらそう告げると、クララさんは引き攣ったように息を飲んだ。

 恐る恐るといった様子で小瓶を両手で受け取っているのは、薬が恐ろしいのかもしれない。


「それだけ薬が強いんです。でも日に当たらない事を守って頂ければ、すぐに綺麗になりますよ。ずっと日光の下に出ていけないわけじゃありませんし。外に出るなら顔を洗って薬を洗い流してから、それだけです。いいですね?」

「……分かったわ」


 控えていた侍女らしき人にクララさんはその小瓶を渡している。

 柔らかそうなハンカチに小瓶が包まれて、それをバッグにしまった侍女はわたしに代金を支払ってくれた。


 クララさんはまた扇で顔を隠しながら店を後にした。

 いつも嫌味ばかり振りまいていくのに、今日は随分と大人しいものだ。


「どうぞお大事に」


 掛ける言葉が届いていたのかどうかは分からないけれど、わたしの気持ちの問題だからいいのだ。

 

 馬車の音が遠ざかっていくのを聞きながら、わたしはお店の片付けをしていた。

 扉の鍵を閉め、窓の鎧戸を下ろす。それから帳面を持ち、薬の在庫を記していく。売上と一緒になっているのを確認していく作業でもあるし、足りないものを把握する大事な仕事でもある。

 

 そんな大事な作業をしながらも、わたしは別のことを考えていた。

 

 ユリウス様と、クララさんのこと。

 今日のクララさんは肌に悩む年相応の女の子に見えた。わたしに辛く当たるのも、ユリウス様を想ってのことなのだろう。


 胸が痛い。

 ユリウス様とクララさんは、いつか一緒になるのだろう。

 わたしはそれを祝うことが出来るのだろうか。


 どろりとした重くてくらい感情に飲み込まれそう。

 御伽噺に出てくるような悪い魔女の気持ちが分かってしまいそうになるけれど、矜持でそれを抑え込む。


 帳面とペンをカウンターに置き、薬棚の戸を閉めていく。

 カタン、という小さな音がやけに耳に残るようだ。


 この国で夏と秋を過ごして、少し長居しすぎたのかもしれない。

 そうだ……この冬を越えて、次の春には国を出よう。森に帰ろう。


 そう心に決めたはずなのに、ちっとも胸が晴れなくて。


 小さな溜息をひとつ落として、わたしは魔導光の明かりを消した。カウンターに置いてある水晶だけがきらきらと輝きを放っていたけれど、それも次第に消えていく。


 店内に伸びていたわたしの影は、暗闇へと溶けていった。




 わたしが城に呼ばれたのは、クララさんが店に来たあの日から、二日が経った時だった。


 通された応接間に居たのは国王陛下、それからクララさん。クララさんの隣に座っている恰幅のいい男性は、クララさんのお父さんだろうか。

 それから鎧姿の騎士たちが数人、部屋の各所に配置されている。


 進められるままにクララさんとテーブルを挟んだ先のソファーに座る。クララさんは顔の下半分を扇で隠していて、視線を足元へと向けていた。

 あの様子だと、まだ肌荒れは治っていないのだろう。


「ベアトリクス嬢、急に呼び立ててすまない。コンスタンツェ伯爵から、君の薬についての……問い合わせがあってね、確認する為に来て貰ったんだが」


 穏やかな声で話を切り出す国王陛下は、ユリウス様と同じ金色の瞳をしていた。

 優しそうな話し方もユリウス様によく似ている。


「確かにクララさんに薬を売りました。効かなかったですか?」

「薬!? あんなものは毒物だろう!」


 苦々し気に眉を寄せたコンスタンツェ伯爵は、わたしのことを睨みつけている。

 その物言いに、先程の陛下はだいぶ言葉を選んだんだなと内心で苦笑いが漏れてしまった。


「クララ、顔を見せなさい」


 伯爵に促されたクララさんの手に力が籠った。躊躇している素振りは、顔を見られたくないからなのか。

 苛立ったような伯爵の手が扇に伸びると、観念したようにゆっくりと扇を閉じて膝の上に置いた。


 爛れている。

 日光に当たったとしか思えないほどの焼け爛れた症状に、わたしは眉を寄せてしまった。


 あれだけ日光に当たってはいけないと言ったのに。

 薬を流してから外に出るように言ったのに。


 わたしの気持ちが伝わったかのように、クララさんが一瞬わたしの方を見た。その瞳に宿っていたのは予想外の敵意で。わたしが思わず面食らってしまったのも仕方がないと思う。


「貴様が売った薬のせいで、この子がこんな肌になってしまったんだ。どう責任を取ってくれる」

「それを治すこともできますが……クララさん、日光に当たりましたね?」


 わたしの問いに、クララさんは分からないとばかりに首を傾げた。


「日光に当たったから何だと言うの? あなたは何も注意しなかった。すぐに治りますよって言って、わたくしにそれを売りつけたじゃない」


 何を言っているのだろう。

 わたしはしっかりと伝えたのに。


「わたしは間違いなく言いました。薬を塗ったら外に出てはいけないと」

「そんなの聞いていないわ。あなたは薬と偽って毒を売ったのね」


 ぽろぽろとクララさんの瞳からは涙が零れ落ちている。爛れた肌に当たって痛むのか、眉を下げながらハンカチでそっと押さえていた。


「わたしが売ったのは間違いなく薬です」

「ふん、誰がそんなことを信じられるというのだ。だから私は魔女を国に入れるなど反対だったんだ」


 伯爵が忌々し気に吐き捨てた言葉に、ずきん、と胸が痛んだ。

 魔女を嫌悪する人もいる。今までに悪意を向けられたことがないわけじゃない。それでも傷付くのはまた別の話だ。

 

「陛下、この魔女はユリウス殿下が国に招いたんでしたな?」

「そうだ。ユリウスの命を救ってくれた恩人でもある。ベアトリクス嬢へは敬意をもって接してもらいたい」

「お言葉ですが陛下、その魔獣に襲われたという話も、この魔女がユリウス様に取り入る為のものだったのではないでしょうか」


 伯爵は大袈裟に肩を竦めて見せる。陛下は顔色を変えずにいるけれど、その眉が不快そうに動いたのが分かった。


「……コンスタンツェ伯爵、お前は何を言いたいんだ?」

「この魔女の毒のせいで娘の顔が醜くなったのはご覧の通りです。この顔では嫁ぐこともままならないでしょう。魔女を国に招き入れたのはユリウス様でありますから、娘をユリウス様に嫁がせては頂けないでしょうか」

「その症状を治す事は不可能ではありませんよ」


 思わず口を挟んでしまうと、伯爵は盛大な溜息をわたしに聞かせた。首を大きく横に振ったその姿は、いちいち芝居染みている。


「魔女の言う事など信用出来るか」


 伯爵の言葉にクララさんは頷きながら、泣き続けるばかりだ。

 信用するかしないかは、相手の気持ちによるものだ。わたしから信じてほしいという事はない。

 それでも……わたしの薬でユリウス様に迷惑を掛けてしまうのは、嫌だなと思った。


「まずその顔の症状が治るかどうか、治療を受けてから話を進めたほうが良いのではないか」

「陛下がそう仰るなら、娘を診療所に連れていきましょう。ですが陛下、年頃の娘がこんな姿になって人の目に晒されたのです。心の痛みはどうやって労わってやればよいのか……」


 コンスタンツェ伯爵はクララさんの肩を抱き、逆手で目元を覆っている。

 

「……ベアトリクス嬢、そなたから何か申したいことは?」

「そうですね……まず、わたしがクララさんに渡した薬ですが、確かに強い薬です。塗ったままで日の光に当たれば、いまのクララさんの状態になるのは間違いありません」

「毒を渡したと認めたな!」

「黙っていてください。毒なんて一言も言ってません」


 唾を飛ばす勢いで怒鳴る伯爵を一瞥して、わたしは言葉を続けた。


「日光に当たらなければそんな症状になる事はないんです。だからわたしはクララさんに、絶対に日光に当たらないようにとお願いしました。外に出るなら薬を洗い流してから、と。それを守ってもらえたら、もう元の症状は綺麗に治まっていたはずなんです。……クララさん」


 クララさんがゆっくりと顔を上げる。ハンカチで目元を押さえ、傷心を装っているようだけれど、わたしへ向けられる視線はひどく鋭い。


「わざと日光に当たったんですか? わたしを、貶めるために」

「わざとだなんてひどいわ。誰が好んでこんな肌になると言うの……。あなたはやっぱり悪い魔女なのね。わたくしがユリウス様と親しいから、嫉妬をしてこんな真似を……」


 嗚咽が響く。

 わたしは大きな溜息をついた。


「水掛け論になるだけですね。ではこちらを使いましょう」


 わたしは肩に掛けていた大きなバッグを開き、中から手の平に乗る大きさの水晶玉を取り出した。

 転がってしまわないように畳んだハンカチをテーブルに敷いてから、その水晶玉を置いた。


「これは記録水晶です。わたしのお店のカウンターにいつも置いてあるものなのですが、クララさんも覚えがあるでしょう?」


 クララさんは何も答えない。ただ、涙が止まっているようだ。

 内心では焦っているのかもしれない。この魔導具が分からなくても、記録・・水晶という名で、用途が分かるだろうから。


「一応、お店での出来事は記録しているんですよ」


 起動の魔女言葉を口にすると、水晶玉が光り出す。

 わたしの瞳と同じ淡い水色の光が水晶から放たれて、空中に人の姿がぼんやりと映し出される。それはわたしとクララさん、クララさんの侍女の姿だった。


「な、っ……こんなの、嘘よ! わたくしを嵌めるつもりで用意したのね!」

「これは実際に見たものを記録する水晶です。映像を偽造する事などできません」

「だってこれを作ったのもあなたでしょう!? 魔女だもの、信用出来ないわ!」


 今までのしおらしさは消え失せて、クララさんは大きな声でわめいている。

 その顔が青ざめているのは、自分の不利を悟っているからかもしれない。


 自分としては信頼できる証拠を出したけれど、クララさんが納得することはないだろう。ここまで話を大きくして、今更自らの非を認めることも難しいと思う。でも……このままだと追い込まれるのはクララさんの方なのではないだろうか。


 現に陛下はクララさんとコンスタンツェ伯爵に怪訝そうな視線を向けている。気持ちがどちらにあるかは明らかだ。


 しかしこの場をどう収めたものなのか。

 わたしが内心で困り果てていた時だった。


 バン! と大きな音を立てて扉が開いた。

 走ってきたのか、開けた人は肩で大きく息をしている。


 鋭く眇められた金の瞳──ユリウス様。いつもとは違う正装のようなお姿で、腰には剣を下げたままだ。

 ひどく険しい顔をしたユリウス様は部屋の中を見回して、小さく舌打ちをした。


「ユリウス、入室の許可くらい取ったらどうだ」

「時間が惜しかったもので」


 陛下の苦言にもユリウス様は悪びれた様子無く、足早に進んでは剣を外してからわたしの隣に腰を下ろした。

 額には薄く汗が光っているのが見える。


「ベアトリクス、大丈夫だった?」

「ええ。……ユリウス様は都を離れていたのでは?」

「君がおかしなことに巻き込まれていると聞いたから戻ってきた。前に君が作ってくれた、転移の陣を使ってね」


 ユリウス様はいつものように穏やかに笑うと、わたしの手をぎゅっと握り締めてくれる。

 それがとても暖かくて、自分の手が冷え切っている事に気付かされた。


 温もりが心地よくて、安心する。

 自分で思っていた以上に、クララさんとのやり取りが辛かったみたいだ。


「さて……コンスタンツェ嬢。ここに来るまでに事情は聞いている。ベアトリクスの店で買った薬を塗ったら、肌が爛れてしまったと?」

「そ、そうですわ。ベアトリクスさんはわたくしとユリウス殿下の仲に嫉妬して毒を……」

「嫉妬? ベアトリクスが? 私と君との間には何もないのに?」


 ユリウス様は信じられないとばかりに問いを重ねていく。クララさんの青かった顔が、一気に赤くなっていった。


「それが理由ではないとしても……ベアトリクスさんがわたくしに毒を渡したのは事実ですわ。ユリウス殿下、命の恩人だというのは存じておりますが、悪い魔女をこのまま国に置いておくのは──」

「──コンスタンツェ嬢」

 

 底冷えするような声だった。

 わたしまで背筋が凍ってしまいそうで、体が震えている。クララさんは薄く開いた口から震える呼吸を逃がしているようだった。


「ベアトリクスを悪い魔女などと言うのは金輪際やめてくれたまえ」


 静まり返った部屋に陛下が空咳をひとつ落とした。固まっていたわたし達は、それで動く事が出来るようになったのだけど、これほどまでに怒っているユリウス様を見るのは初めてだ。しかもそれが……わたしの為だということに、喜びを感じてしまった。こんな時だというのは分かっているけれど。


「ベアトリクスは薬を渡した。クララ嬢は毒を受け取った。二人の言い分が食い違っているわけだね」


 先程の凍てつく声から、いつもの穏やかな声へと戻したユリウス様はわたしの手をぎゅっと握り締めながら言葉を紡いだ。

 温和な口調なのに、誰も口を挟めない。


「薬か毒かというより……日光に当たらないでという注意を聞いたか聞いていないかということみたいだけど。この記録水晶ではベアトリクスが正しくて、コンスタンツェ嬢はこれが偽造されたものだと言うんだね」


 うんうん、と幾度も頷いたユリウス様は扉へと目を向ける。

 それを合図としたかのように、いつの間にか閉じていた扉が控えめにノックされた。陛下がひとつ頷いたのを見て、騎士の一人がその扉を開くとそこには男性がいた。

 美しい一礼をしてから入ってきたその人は、ユリウス様の後ろに控えた


「ベアトリクスにも言っていなかったんだけど、あの店には護衛がいてね。遠くから店を守って貰っていたんだ。そしてこの護衛も、記録水晶を持っている」

「……っ!」

 クララさんとコンスタンツェ伯爵、それからわたしも息を飲んだ。

 護衛がいたなんて知らなかったし……まるでユリウス様はこのことを予見していたみたいなんだもの。


 護衛の方が記録水晶を取り出して、起動させる。

 映し出される光景は、画角は違えどわたしの記録水晶と同じ様子を映し出していた。


「これでどちらが嘘をついているか、理解出来たんじゃないかな」


 ユリウス様の言葉に陛下も大きく頷いている。

 クララさんは俯いたまま顔を上げられないでいるし、コンスタンツェ伯爵はハンカチでしきりに汗を拭いている。


「私的な件とはいえ、私を謀ろうとした罪は重いぞ」


 陛下の低音に、コンスタンツェ伯爵は呻くような声をあげるばかりだ。


「ベアトリクスを侮辱した罪も加えてください」

「いえ、わたしは別に……」


 慣れている、と言いかけた言葉は飲み込まざるを得なかった。

 ぎゅっときつく握られた手と、わたしを見つめる金の瞳がそれ以上を紡がせてはくれなかったから。


「沙汰は追って聞かせる。屋敷で謹慎しているが良い」

「……かしこまりました」


 コンスタンツェ伯爵はがっくりと項垂れている。控えていた騎士の方々が伯爵とクララさんの腕を引いて立たせている。退室を促されたクララさんが顔を上げてわたしを見た。

 先程までのような敵意を帯びた眼差しではなく、不安に揺れているようだった。


「ベアトリクスさん、あの……この肌を治す薬も、あるのよね?」


 思いもよらない言葉に目を丸くしてしまった。

 わたしを陥れようとして、まさかそんなことを口にするとは。


 隣でユリウス様の怒気が膨れあがるのが分かった。何かを言おうとしたユリウス様に片手を向けて制すると、わたしはクララさんに向き直った。


「診療所で治るといいですね。申し訳ないですが、わたしの薬を差し上げる事は出来ません。魔女の薬は信用ならないでしょうから」

「そんな、ひどいわ!」


 ひどいのはどっちだ。

 そう言いかけて押し黙ったわたしを褒めてほしい。


 騎士の方々に連れられて部屋を後にしながらも、クララさんはまだ何かを叫んでいた。

 誰もそれに応えることはなかったけれど。


 静かになった部屋で、わたしとユリウス様、そして陛下は顔を見合わせて困ったように笑うばかりだった。




 クララさんとコンスタンツェ伯爵への処罰はあとで教えてくれると陛下が仰ってくれた。

 では店に帰ろうか……と思ったのだけど、ユリウス様が庭園へと誘って下さった。


 美しく整備された庭園の一角に小ぶりながらもしっかりとした温室、それからその隣には畑があった。

 畑には見覚えのある草花が伸びていて、ぴんと伸びた葉は手入れが行き届いているようで艶めいている。


「ユリウス様の薬草畑ですね。すごいです!」


 自分で畑を耕して薬になる草花を育てているというのは、お店での世間話で聞いていたから知っているけれど、わたしが思っているよりもずっと素晴らしいものだった。


「君に褒めてもらえると一層やる気が出るね。こっちの温室も見てくれる?」


 促されるままに温室に入る。

 独特の暑さと湿気があるけれど、不思議と不快感はなかった。爽やかな香りが鼻を擽っていく。


「ああ、まだ咲いていてよかった。前に肥料配分を教えて貰った花なんだけど……」


 ユリウス様に案内された一角には白い花が見事に咲き誇っている。

 小さな花だけどまさに満開。数えきれないほどの花がこんなに咲いているのは見たことがなかった。実をつけるのも近いだろう。


「こんなにも咲いているのは初めて見ました。ユリウス様が丁寧に手を掛けて下さったからですね」

「君の肥料のおかげだよ。帰りに持って行ってくれる?」

「いいんですか?」

「その為に育てているんだ。君の助けになればと思ってね。まぁ……育てるのが趣味になっているのも否定しないけれど」

「ではありがたく頂戴します」


 こんなにも瑞々しい花で薬を作れるなんてめったにないから嬉しくなって、笑みも隠せない。腰の痛みに悩まされていたお客さんがいたから湿布にしてあげよう。


 そんなことを考えていたら、ユリウス様に近くのベンチに誘われた。

 休める場所もあるなんて、ますますこの温室が好きになってしまいそう。花の傍だからか芳香が優しく漂っている。


「今日はすまなかったね。君のことを巻き込んでしまった」

「いえ、ユリウス様が謝られる事ではありません。……あの、あとで薬をクララさんに届けて頂くことはできますか?」


 わたしの問いにユリウス様は驚いたように目を瞬いている。

 わたしは苦笑いしながら、足元へと視線を落とした。


「いい子ぶってるみたいですけど、あの肌だときっと痛みも強いと思うので。もちろん診療所でも綺麗に治して貰えるとは思いますけどね。……さっきはちょっと、意地悪しちゃいました」

「あんなの意地悪のうちに入らないよ」

「そういえば……ユリウス様はどうしてお店に護衛の方をつけてくれたんですか?」


 あの場所でも疑問に思っていたけれど、話に水を差すようで問えなかったのだ。

 ユリウス様は困ったように笑うと、あの場所でしたように、わたしの手を握ってくれた。やっぱり温かくて優しい手だった。


「コンスタンツェ嬢が君を悪く言っているのは知っていたから、何かやらかすんじゃないかと思っていたんだ。君の悪評を立てられても嫌だから、彼女が店に来ている時は記録するように命じてあった」

「そうだったんですね。おかげで助かりました」

「勝手なことをして申し訳なかったけれど」


 確かに驚いたけれど、わたしの事を心配してくれていたのだ。それが嬉しくないわけがなくて、わたしは繋いだ手をぎゅっと握った。


「ありがとうございます、ユリウス様」


 わたしの言葉にユリウス様は安心したように笑った。わたしが恋に落ちた時のような、蕩けるような笑みだった。

 鼓動が跳ねる。胸の奥がきゅっと締め付けられる、切ない感覚がひどく苦しい。


「あの……クララさんはこれからどうなるんでしょうか」

「私の予想だけど、たぶん暫くの間は修道院に入ることになると思う。貴族子女を教育する為の厳格な場所になるんだけど、そこに入るということは醜聞になる。これからの彼女は大変だと思うけれど、まぁ仕方がないね」


 クララさんにとってこれから辛いことが多いかもしれない。それでも同情は出来なかった。

彼女がわたしを陥れようとしなければ、そんな手を使ってユリウス様との婚約を結ぼうとしなければ、こんな目には遭わなかったのだから。


「コンスタンツェ伯爵にも重い処分が下されると思うよ。息子に家督を譲って隠居することになるだろうけれど、領地の没収か賠償金は免れないだろうね。公式の場ではないといえ、陛下を謀ろうとした罪はそれだけ重い」

「そうですよね。あの……クララさんはユリウス様の婚約者になると思っていたのですが、決定はしていなかったんですか?」

「していないよ。ご令嬢は私の婚約者になろうと、他の人達を蹴落としていたみたいだけどね。王家も私も、彼女を伴侶にと願った事は一度もない」


 指先を絡めるように、ユリウス様が手を繋ぎ直してくれる。ぎゅっと強く握られた手の温もりさえも愛おしい。


 ユリウス様の金瞳がわたしを真っ直ぐに見つめている。

 目を逸らすことも出来なくて、重なる視線に鼓動は早鐘を打つばかり。頬が熱くなっていくのが分かる。


「私が傍に居てほしいと願うのは、ベアトリクス、君だけなんだ」


 熱の籠る、甘い声。くらりと眩暈がしてしまいそうな程に、甘い。


「私を助けてくれたあの時から、私はずっと君に恋をしている」


 これは夢なんだろうか。

 わたしに都合の良い、夢。


「私を助けてくれた時の眩い笑顔も、薬草のことになるときらきらと輝くその瞳も、お客さんと真摯に向き合う姿も、何もかもが私の心を乱していく」

「……でも、わたしは魔女で……」

「うん、それに何か問題がある?」


 ユリウス様の手が、わたしの頬を包み込む。繋いだままの手にも力が籠る。

 逃がさないとばかりに、わたしの事を離してくれない。


「魔女を忌避する人もいます。わたしがユリウス様の傍に居たら、ユリウス様のご迷惑に……」

「迷惑になんてなるわけがない」

「わたしは魔法と薬のことばかりで、ユリウス様をお支え出来る後ろ盾もありません。お気持ちはとても嬉しいのですが、わたしでは……」


 わたしもお慕いしていると、傍に居たいと言えたらいいのに。

 でもわたしではユリウス様に相応しくない。だから精一杯笑おうと思っても、浮かぶ涙を抑え込むことなど出来そうになかった。


「後ろ盾もいらない。君が一緒に居てくれたら、それでいいんだ」

「でも……!」


 頬に触れていた手でユリウス様が目元をなぞる。涙で指先が濡れてしまっても、それを厭う様子はなかった。


「私は第三王子だ。王太子である兄様は人格者で規律的な方だから、このまま即位されるのは間違いない。それを支える第二王子の兄様もいる。だから私は王族の中でも比較的自由に動ける立場でね」


 穏やかな声で紡がれる言葉が、優しく耳を擽っていく。

 

「陛下とも相談しているんだけど、臣籍降下を考えているんだ。臣の立場だからこそ、兄様達に出来ることがあるだろうしね。王家の所有している領地と爵位を頂けると思う」


 ユリウス様の言葉に小さく頷きながら、それでもわたしはお傍に居られないと思った。貴族とは程遠い生活をしてきたわたしではユリウス様の邪魔になるのではないかと、そう思ったから。


「その領地にさっきまで居たんだ。薬草を育てるのに適した土壌だと思う。一度君にも見て貰わなきゃいけないけれど。その領地を薬になる草花の特産地にして、君はそこで薬を作るというのはどうかなと思っているんだ」


 薬草の特産地。

 ユリウス様がその目で見てきたと言うのなら、きっとうまくいくのだろう。この温室や外の畑を見れば分かるもの。


 でも、そこに本当にわたしが居ていいの?


「社交やら領地経営やら、面倒なことは私に全部任せてくれたらいい。ベアトリクスは私の傍で、好きな事をしてくれていたらいいんだ。私はそんな君に惹かれているんだから」

「でもそれじゃ、わたしに都合のいい事ばかりで……」

「都合が良くて悪い事なんてないだろう? 君と一緒になるにはどうしたらいいか、君はどうやったら私と一緒に来てくれるか、これでも色々考えたんだ。あとは……ベアトリクス、君の気持ち次第だ」


 好きだと、ユリウス様と共に行くと。

 そう口にすればいいだけなのに、開いた口からは震える吐息が漏れるばかりだ。


「ベアトリクスの事が好きで、大切で、離したくない。お願いだから、私と一緒に来てほしい」


 ユリウス様の金瞳が切なげに揺れる。

 それを見たらもうだめだった。気持ちを誤魔化すことも、偽ることもできなかった。


「……お慕いしています、ユリウス様。わたしもどうか、連れていってください」


 ぽろぽろと涙が零れていく。

 それでもしっかりと想いを口にしたわたしに、ユリウス様はとびきり輝く笑顔をくれた。繋いでいた手を離したかと思えば、両腕でわたしのことをぎゅうぎゅうに抱き締めてくれる。


「……良かった。君に嫌われてはいないと思っていたけれど、それが自惚れじゃなくて安心したよ」

「嫌うだなんて。でも……わたし、次の春にはこの国を離れようと思っていたんです」

「どうして?」


 問いかけながら、ユリウス様がわたしを抱く腕に力を籠める。鼓動さえも重なってしまう距離に、わたしの頭は沸騰してしまうかもしれない。

 それとも、鼓動が早鐘を打ち過ぎて心臓が爆発する方が早いかも。


「ユリウス様のご婚約が整って、誰かと寄り添う姿を見たくはなかったから……」


 小さな声でその姿を見ていない誰かへの嫉妬を呟くと、ユリウス様がくすくすと笑っているのが頭上で聞こえた。


「そんな心配はいらなかったのに。でも君が本当に国を離れてしまう前に、伝えられてよかった」


 抱き締める腕の力を少し緩めたユリウス様がわたしの顔を覗き込む。

 その瞳がわたしの事を想っていると伝えるくらいに甘やかで、目を離すことなんて出来なかった。


「じゃあ早速出掛けようか」

「一体どこへ?」

「君の実家に。ご両親やお姉さん方にご挨拶をしないと」

「えぇと、まずは陛下にご報告では?」

「あとでもいいよ。大切なお嬢さんをお迎えするんだから、失礼のないようにしないと」


 ユリウス様は機嫌よさげに笑うから、つられるようにわたしも笑ってしまった。


「うちは後日でも大丈夫です。なので……もう少し、こうしていてもいいですか?」


わたしからも広い背に両腕を回して抱き着くと、ユリウス様が応えるように抱き締めてくれる。それが嬉しくて、愛しくて、わたしの胸はいっぱいになってしまう。


「もちろん、喜んで」


 穏やかな温室の中、花の香りがわたし達を包み込む。



『恋は綺麗なだけじゃない』


 姉の言葉が胸をよぎるけれど、でも、やっぱり──世界は眩いくらいに輝いている。

 これから辛いこともあるかもしない。嫉妬に身を焦がしてしまうかもしれない。


 それでも。

 ユリウス様がわたしを真っ直ぐ見つめてくれるように、わたしも──彼を真っ直ぐに愛そうと心に誓った。


 陽の降り注ぐ温室、暖かな腕の中、包み込むような花の香り。

 わたしを見つめる金の眼差しが甘く蕩けている。


 まるで御伽噺のような美しい世界だった。

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魔女は御伽噺のような恋をする 花散ここ @rainless

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