アプルーヴ

二条橋終咲

認められると嬉しいかも

 なんの変哲もない土曜日の十五時。


 あたしは家の階段をパタパタと駆け上がって、弟の部屋へと向かっていた。


「しょいしょいしょいしょいっと……」


 階段を上りきって『秀佐しゅうすけ』と書かれたネームプレートのある扉の前まで行って、それをばーんと開け放つ。


「しゅーすけー。おやつ持ってきたんだけど食べる?」


「……」


 あたしが聞いても、弟の秀佐しゅうすけはあたしに小動物みたいな可愛いくて小さい背中を向けたままで、静かに勉強机へ向かい合っていた。


「今日はしゅーすけの好きなクリーム入りのどら焼きなんだけ……」


「いらない」


 急に、秀佐しゅうすけはそんな冷たい声を出した。


 相変わらずつれないあたしの弟は、一切あたしに構うことなく、黙々と勉強机に向かっている。


「ま〜た勉強してんの〜?」


 部屋の真ん中にあるローテーブルにおやつのどら焼きを置いて、あたしは可愛い弟の元へ歩いていく。


 秀佐しゅうすけの背後から勉強机を覗き込むと、案の定いつも通り勉強をしていた。ってか机に置かれた参考書に書かれてる内容がどう見ても中学一年生向けじゃない……。高三のあたしでも習ってないようなことが平気で書いてあるんだけど……。


 と、あたしが驚愕していると、秀佐しゅうすけが冷たい感じで口を開いた。


「邪魔。あと英香えいかねーちゃんの部屋はここじゃないから。早く帰って」


「……へぇ〜。こんな難しいの勉強してんだぁ〜……。さすが、生徒会長サマは立派だねぇ」


「邪魔。帰って」


 あたしがなにを言っても、秀佐しゅうすけは冷たいまんま。なんかRPGのNPCみたいで、言葉に感情がこもってない感じがする。悲しい……。


「まぁ、秀佐しゅうすけのことだから、前回も前々回も前々々回も前々々々回も、その前ももっと前もずっと前も、テストで学年一位だったんでしょ? なら一回くらいサボってもいいと思うんだけどな〜」


「……」


「サボりじゃなくてもさ、ちょっと休憩しようよ〜。おやつも持ってきたしさ〜」


「……」


 秀佐しゅうすけは何にも言ってくれない。


 もしかしたら、あたしの言葉が届いてないのかもしれない……。


 そんなふうに思っちゃうくらい、秀佐しゅうすけは勉強をし続けていた。なんかその様子から、薄っすらとあたしに対するを感じるのは気のせいかな? 気のせいであってほしい。


「おやつなら英香えいかねーちゃんが全部食べていいから、早く出てって。太っても知らないけど、早く出てって」


 一言多いなぁ……。


 でも確かに最近お腹周りが気になってきたから、聞き流すのもできない。


 ってかそもそも、弟の分まで食べるとか姉として絶対にしないけど。


「じゃあ、おやつだけ置いておくから。キリいいとこで休憩しな?」


「……」


「あんまり無理しちゃダメだからね?」


「わかったから出てって」


 秀佐しゅうすけにそう言われて、おやつを置いたあたしはおずおずと部屋を出ていった。


 思春期の弟と仲良くするのって難しい……。



 ❇︎



 あれからしばらく経って、今は晩御飯の時間。


 あたしは自分の部屋でやってたゲームを切り上げ、一階のリビングでご飯を食べていた。ちゃちゃっと食べて早くボス戦の続きをしたい……。


「ん?」


 すると、急に控えめな感じで、リビングの扉が開かれる。


 誰かと思えば弟の秀佐しゅうすけだった。んで手にはなんか一枚のプリントを持っていて、目の下には黒ずんだクマを作っていた。


 そしてそんな状態のまま、秀佐しゅうすけはちょっとフラついた感じの足取りで、キッチンにいるあたしたちのお母さんの元へ向かう。


「お母さん……」


 あたしには見せたことのないような、少し怯えた感じで秀佐しゅうすけはそう言った。


 でも、お母さんはなにも言わないでいつもの冷たい表情を浮かべたまま、中学一年生の秀佐しゅうすけを見下ろしている。


「これ、期末テストの結果……」


 微かに手を震わせながら、その手に持った一枚の紙をおずおずとお母さんに差し出す秀佐しゅうすけ


「……」


 お母さんは無言でそれを受け取り、まじまじと見つめる。


「……」


「……」


「……」


「……ふーん」


 一通り目を通し終えたのか、お母さんがため息混じりの声を溢す。


 そして始まる、取り調べと事情聴取。




「なんで国語だけ二位なの?」




 身も心も凍りつくような絶対零度の尋問が、秀佐しゅうすけに襲いかかる。


「お母さん言ったよね? 全教科で一位になりなさいって。 確かに他の四教科と学年の順位は一位みたいだけど、なんで国語だけ二位なの? 問題が難しかったの? 生徒会長の仕事が忙しかったの? それとも、サボったの……?」


 お母さんの質問攻めを受けても、秀佐しゅうすけはなにも言い返さないで、ただただじっと俯いている。ってか学年一位ってだけでも死ぬほど大変なのに、生徒会長しながら全教科で一位とか無理に決まってんでしょ……。


 相変わらず言ってることが意味不明すぎる。それともあたしがあほなだけ?


「このままじゃあ、いい高校に入れなくて、大学も会社も学歴の低いところを選ぶことになるのよ? それじゃあ幸せじゃないでしょ? だから勉強しなさい。今よりももっと勉強しなさい」


「……」


「いい? これは秀佐しゅうすけのためを思って言ってるんだから。次はもっと勉強して全部で一位になるのよ? いいわね?」


 あたかも親である自分が絶対的正義であるかのようにして、お母さんは力なく俯いたままの秀佐しゅうすけへ矢継ぎ早に語りかける。


 それでも、実の母親から幸せについて説いてもらっているにもかかわらず、秀佐しゅうすけの表情はどんどんと、暗く、苦しそうになっていくばっかりで、全然楽しそうじゃない。




 こんなのは、間違ってる。




 多分……。


「ねぇ」


 胸の中に微かな疑問と違和感を感じた私は、なんとなく口を開いた。


「そんなに勉強って大事なの?」


 普段ロクに勉強をしないぐーたらな怠け者の娘から発せられた、あまりにも幼稚で粗末で低質な問いかけに、お母さんはほのかに嘲笑しながら答える。


「そんなの当たり前じゃない。沢山勉強して、テストでいい順位を取って、いい高校いい大学に入学して、そこを卒業していい会社で働く。幸せな人生のために勉強は大切なものなのよ」


「ふ〜ん」


「高校生三年生にもなってまでそんなことを聞かないで欲しいわね……」


 心底呆れた様子で、お母さんは深く重いため息をついた。


 ……高三にもなって勉強の大事さがわかんなくって悪かったな。ってかあんなつまんないもんわかりたくもないけど。


「それって、幸せなの?」


 すると、未熟な娘の愚かな問いに、お母さんは両肩をがっくりと落として失望した様子を見せる。


「はぁ……。何回も言わせないで。勉強は大事なの。今のうちに勉強しておかないと、大人になった時に困るのはあなたたちなのよ?」


「じゃあお母さんって、しゅーすけの笑った顔って見たことある?」


「えっ……」


 あたしの疑問は想定外だったのか、お母さんはさっきまでとはうって変わって威厳のない間抜けな声を溢した。


「しゅーすけが楽しそうに友達の話とかしてくれたことある? 悩みを相談してくれたことはある?」


「……」


「って、聞いてるあたしもないんだけどね〜」


 あはは〜、とあたしの渇いた笑い声が静かなリビングに響く。ちょっと気まずい。


「まぁ、つまるところ……。お母さんが『ちょこっとも笑顔にならないまま、一人ぼっちで勉強しかしないで、ずっと寂しい思いをし続けながら勉強だけする人生が幸せ』っていうなら、あたしはもう何も言わないよ〜」


 夕食どきのリビングが重苦しい沈黙に包まれる。


 それを切り裂いたのは、あたしたちの生みの親だった。


「ええ、そうよ……」


 流暢だった口調も、今はどこか重々しく感じる。


「学生の間は勉強だけしていればいいのよ。そうすれば幸せになれるんだから……」


「……」


秀佐しゅうすけ? あなたならわかるわよね?」


 優しく、半狂乱的な声音で、お母さんは我が子に語りかける。


 それでも、自分の子供が親の期待に応えてくれるとは限らない。




「僕、もう勉強したくない……」




 か細い声で告げられた秀佐しゅうすけの言葉を聞き、お母さんは目を見開いて驚いている。


「な、なにを言ってるの秀佐しゅうすけ? あなたはいい子だからもっと勉強して……」


「もう嫌なんだよっ!」


 今まで一回も聞いたことのない秀佐の声を聞いて、あたしとお母さんは一緒に驚く。


 それでも秀佐しゅうすけは、動揺するあたしとお母さんの二人を置き去りにして、溜めに溜めた思いを饒舌に羅列し始める。


「毎日毎日毎日毎日勉強勉強勉強勉強って! もう意味わかんないなんでそんなに勉強だけさせるのおかしいよねこれ絶対おかしいよね? 眠いし辛いし苦しいしお腹空いたし勉強なんてしたくないんだけど? 僕だってゲームしたり漫画読んだり友達と遊んだりお昼寝したりいっぱいいっぱいしてみたいことあるんだよ! ってかお母さんは僕をどうしたいわけ? 有智高才うちこうさい英俊豪傑えいしゅんごうけつ英明果敢えいめいかかん完全無欠かんぜんむけつ才学非凡さいがくひぼん十全十美じゅうぜんじゅうび全知全能ぜんちぜんのう博学広才はくがくこうさい博学才穎はくがくさいえい博学卓識はくがくたくしき博学多才はくがくたさいのどれかにしたいわけ? っていうか全部にしたいのねぇどうなの答えてくれなと僕もうどうしていいかわかんないよ!」


 早口すぎてなに言ってるか全然わからん……。


 でもそれはあたしだけじゃなくてお母さんも一緒だったみたいで、超高レートのサブマシンガンみたいな秀佐しゅうすけの言葉の前に、為す術なくおろおろと狼狽ていた。


「え、えっと……」


 口を出した手前、このまま見過ごすわけにもいかない。


 なるべく事を荒立てないようにしながら、あたしは口を開く。


「もうちょっとさ、勉強だけじゃなくてさ、秀佐しゅうすけの自由とかを考えを認めてさ、大切にしてあげたらどう? お母さん?」


「……」


 お母さんはあたしから目を逸らして、逃げるようにキッチンでの家事をし始めた。


 そして、ここに居づらくなったのか、秀佐しゅうすけも逃げるようにしてリビングを去ってぱたぱたと二階へ駆け上がっていった。


 ……なんかお母さんの機嫌悪くしちゃったし、よく見たら秀佐しゅうすけも半泣きだったし、これでよかったのかな?


 明日のご飯が抜きにならないことを、あたしは願うばかりだった……。



 ❇︎



 コンコンコン。


 ちゃちゃっと晩御飯を食べた後、あたしが自分の部屋でボス戦に興じていると、部屋の扉が控えめに三回鳴らされた。


 ゲームをポーズ画面にしてから扉の元へ向かう。


「お? 珍しいね〜」


 扉を開けると、そこに居たのはなんだか覇気のない様子の秀佐しゅうすけだった。


「ってか初めてじゃない? あたしの部屋くるの」


「……」


 いつもは『邪魔。帰って』とか言って邪険にするあたしのところにわざわざ訪ねてきたんだから、何か用があるんだろうけど、秀佐しゅうすけは何故かずっと俯いたままおどおどしている。可愛い。


「どうしたの?」


 あたしの方から聞いてみると、秀佐しゅうすけはもにゅもにゅとした歯切れの悪い感じで話し始めた。可愛い。


「あの……。さっきは、ありがとう……」


「ん?」


「その……。お母さんに、いろいろ言ってくれて……」


 なんだそんな事だったのね。


「別にいいって〜。あたしもお母さんのやり方にはいろいろ思うことあったし〜」


「……」


「まぁでも、秀佐しゅうすけは本当に頑張ってるよ。えらいよ。学年で一位なんてすごいじゃん! しかも生徒会長までやっててさ。まじですごいよ」


 あたしはちょっと腰をかがめて、高三のあたしより全然小さい中一の秀佐しゅうすけの頭をなでなでする。


「って、ゲームして漫画読んでゴロゴロしまくってロクに勉強なんかしてないあたしなんかに言われたくないよね……。あっはは……」


 あたしがちょっと自虐まじりに話していると、急に、目を疑うようなことが起きた。


「え?」


 秀佐しゅうすけが、あたしに向かってぎゅっとしてきた。


 こんなことは、十三年一緒に過ごしてきて、今まで一回たりともなかったのに。


「えっ、なになに? どうしたの?」


「……」


「いっつもあたしが近づくと嫌がるくせに」


 すると、秀佐しゅうすけは、めちゃめちゃちっちゃい声で、ぼそっと答えてくれた。


「今日は、その……。と、特別……」


「特別?」


 なにが特別なんだろう?


 と、あたしが聞き返す前に、秀佐しゅうすけがなんだかちょっと恥ずかしげにめちゃめちゃちっちゃい声で言った。




「え、英香えいかねーちゃんが、僕に抱きつかれるのを特別に許可、する……」




「なにそれっ」


 いや『抱きつかれるのを許可する』って初めて聞いたし。どう考えても苦し紛れの照れ隠しにしか聞こえないんだけど。新手のツンデレにしか見えん。


「そんなこと言って、本当は寂しかったんじゃないの〜?」


 なにも答えてくれない秀佐しゅうすけ


 それでも、あたしを抱きしめる力は強くなる一方で、ちょっとだけ見える耳とほっぺも真っ赤だからこれは図星だ。うん、間違いない。お姉ちゃんの目は誤魔化せないぞっ。


「まぁまぁ。ほら、お腹空いてるでしょ? 一緒にご飯食べよ?」


「……うん」


「それで明日は、一緒におやつ食べよ?」


「うんっ……」


 こうして、今まで勉強ばかりの生活をしてきた秀佐しゅうすけくんは、優しい優しいお姉ちゃんの活躍によって、初めて笑顔になれたのでした。


 めでたしめでたし〜。




 ……なんつって。

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