第7話 モナミ
「こんにちは。ミツコさん」
その人は不意に現れて言った。明るくフレンドリーな笑顔と声で。
「お散歩にはとてもいいお天気ですね、ミツコさん」
つられてつい、こちらも微笑みたくなった。その笑顔が自分に向けられている、ただそれだけで晴れがましさのあまり、無下には否めない気持ちになるのだ。一体全体どこのだれなのか、思い当たらなくてもそんなことは、どうでもいいような気持に。
でも、わたしはこの人を知らない。丁寧にお辞儀をして微笑み返しながら、心の内ではやっぱり知らない人だと確信を深めている。そうよね?そうだと言ってほしくて首を巡らし、わたしはジョイさんを探した。
でも、彼は背後にいて顔が見えない。車椅子の背もたれより後ろにいるせいだ。ジョイさんはわたしの車椅子を押すのをやめ、立ち止まっていた。
わたしは車椅子なしでも歩くことは出来た。ただ、周りの人たちに比べるとゆっくりペースで、ちょっぴり疲れやすい。そのためセントポーリアガーデンの敷地から外に出る散歩のときは、車椅子を使うことにしている。ひと休みするためのベンチを、持ち歩くようなつもりで。
「わたしもご一緒していいですか?ミツコさん」
その人はわたしに話しかけている。でも、問いかける相手はジョイさんだ。少し上目遣いで彼に微笑みかけるまなざしが、ひときわ明るく煌めいた。
目の前に立つその人の姿を、わたしはつくづくと眺めた。
ふわりとカールして肩にかかる褐色の髪、隙のないメイク。ネイビーのスーツはセールスレディですと名乗っているような定番スタイル、この上なくタイトなスカートは丈も短い。人目を引きよせずにはおかない短さだ。
けれどもわたしの目は、スーツの中のブラウスの柄に惹きつけられている。白地に無数の輪が散りばめられた絵柄。メタリックな光沢のある大小の輪は、所どころ知恵の輪のように繋がっていたり、バラで浮遊していたりする。
名高い海外ブランドのスカーフ柄を連想させるけれど、細やかさが大いに違った。バラで浮遊する輪の絵柄は、我が国が誇る女性画家の描いた水玉模様に似ていなくもないが、パワーと芸術性が足元にも及ばなかった。
それでいて、ブラウス生地の知恵の輪の連なりは、わたしの視線を釘付けにした。辿ってゆくとネイビーの定番スーツの前立ての奥に隠れてしまう知恵の輪が、その先はどうなっているのか見たくなった。
この人はだれ?ジョイさんのお知り合いなの?
訊きたいけれど、わたしにはそれができない。精いっぱい首を傾げて振り向こうとしたわたしの肩を、ジョイさんの手がやさしく押しとどめた。心なしか、強張ったような笑顔が斜め上から降りてきて、言った。
「大丈夫?この人がいてもいいよね?ミツコさん」
ちっともかまいませんよ。にぎやかになって、楽しそうだわ。
そう言ったつもりで、わたしは深く頷いた。
「よろしくね、ミツコさん。わたしはサトウといいますの」
あら。サトウさん?なんてよくあるお名前。あり過ぎるお名前じゃない?
散歩の後でお昼寝したらもうそれだけで、忘れてしまいそうなくらいに。なんだかつまらない。フツー過ぎてこの人には全然似合わない。だから、わたしはこのサトウさんを別の名前で呼びたい、ぜひともそうしたいと思い立つ。
いつでもどこにいても、だれからも愛されていそうなサトウさんを、わたしはモナミさんと呼ぶことにする。知恵の輪模様のブラウスが、よくお似合いのモナミさん。きっとだれかの恋人に違いないこの人には、それがぴったりの呼び名だと思うから。
ねえ。ジョイさんも、そう思うでしょ?
モナミは中腰になってミツコの目を覗き込む。ついさっき、その目は鋭い光を帯びて自分を見返したように思ったのだ。けれど、こうして正面から見るモリサキミツコのまなざしに、特段の変容は見当たらなかった。いかにも車椅子に座った老女らしく、従容として柔和な表情を浮かべているばかりだ。
モナミは腰を伸ばしてジョイを見上げた。
「聴こえてるのかしら?この人に、わたしたちが話してること」
「たぶん。ていうか、100パー聴こえてると思うけど」
「あら。そうなの?」
モナミは心外そうに言って、これ見よがしな溜め息をついた。車椅子に座っている口数の少ない老女は当然のごとく、蚊帳の外にいるはずだと思い込んでいたからだ。人生の王道を歩む自分とは決してクロスしない蚊帳の外、そこが彼らに相応しい居場所だ。だからこそ、自分とジョイとの会話を聴き取れる位置にこの老女がいるなんて、どうにも鼻白む。気に食わない成り行きだった。
するとジョイが、声をひそめて付け加えた。
「けどさ、聴いたことをペラペラしゃべったりしないし、する気もない人だよ。ていうか、出来ないからさ、そこは大丈夫、全然モンダイない」
言ったあとでジョイは思った。モンダイがあるのは、モリサキミツコじゃなくてモナミだ。そもそもオレにとっては始めっから、この女が諸々のモンダイの根源だった、そうじゃないのか?
ジョイはモナミと肩を並べ、モリサキミツコの車椅子を押しながら、国道沿いの歩道をそぞろ歩いた。のどかな日和だった。こうして歩くオレたちは、遠目には家族に見えなくもない三人連れだ。いまモナミの隙をついてダッシュすれば、案外首尾よく逃げ切れるかも知れない。等々、浅知恵を巡らせる。
そこでジョイは、自分がセントポーリアガーデンのスタッフ用ユニフォームを着ていることにやっと気づいた。すると、この格好で闇雲にダッシュしても、その後の段取りをどうしたらいいか、さっぱりわからなくなった。
さらに言えば、いつものことだが手持ちの金も足りなかった。圧倒的に足りない。となれば、つらつら鑑みるほどに、脱力感ばかりが増してゆく。今回はどうにも、逃げようという本気の意欲がイマイチ起こらないのだ。
ここに至ってジョイは、自分がモナミとその関係者たちから逃げまわる生活に疲れ、つくづく倦み飽きているのだと思い知った。
「あの。どうやってオレを見つけたとか、訊いてもいいかな?」
「いいわよ。そんなの超カンタンだった。あのね、あたしたちの業界って、エリアは広くても大体みんなが顔見知り、競争しているようで実は仲良しだったりするの、知らなかった?」
モナミが振り返って指さした後方の国道沿いには、大手の自動車販売店がつかず離れずの距離を保って点在していた。輸入車と国産高級車と大衆車が、ひと通り揃っている。徒歩でも一巡できる近距離だ。実はジョイも時々ショーウィンドウを覗いては、カネが出来たらいつかは買いたいクルマを品定めしていた。それが真逆に、ディーラーたちから見られていたのか?
ジョイは国道上を行き交う車列に視線を走らせた。不自然に停車しているクルマや、こちらを注視するドライバーは見当たらなかった。とりあえず、ホッとして肩の力をゆるめた。すると、口も軽くなった。
「オレって、シメイテハイされてたりしたの?マジで?」
「まあね。ちょっとお願いしただけよ。蛇の道はヘビって言うでしょ」
その意味するところはさっぱりわからなかったが、知ってるふりをした。
「社長ってさ、この辺のディーラー全部と、知り合いだったの?スゲェな」
ジョイの声は裏返って尖がり、悲鳴のように響いた。しかしミツコが驚き、思わずジョイを振り仰いだのは、その声よりむしろ「社長」の一語のせいだ。
「あのね。言っとくけど、あたしはもう社長じゃないの、お陰様でね」
「わ。まさか、オレのせいだとか、言ってる?」
「うーん。表向きはそうじゃないけど、全然違うとも言えないかもね」
そう言うモナミの声音から、怒りや苛立ちなどの負の感情は感じられない。ミツコは思った。ジョイのせいで社長の座を失ったなどと、不穏な内容の発言を放ったわりには、どことなく面白がっているような響きがあった。
ミツコは半分目を閉じて、ふたりの会話を聴いている。大まかには聴きとれたものの、国道を行き交うクルマの走行音に、所どころかき消されてしまうのは、場所が場所だけにやむを得ないことだった。くつくつと忍び笑うモナミの息遣いや、応答を言い淀むジョイの逡巡は、大型車のたてる爆音に遮られ、ミツコの耳に届かず四方に飛散して消えた。
もっぱらミツコの耳に留まったのは、ジョイの真剣さだった。セントポーリアガーデンで勤務中のジョイは、不真面目とは言えなくても、どことなく浮ついた印象を拭いきれない、軽い青年なのだ。そのジョイが、切羽詰まって足掻いている。懸命に押し隠しているようだが、隠しきれてはいない。その危うさが聞き捨てならず、ミツコの関心を惹きつけた。
モナミとジョイの会話は、聴きとれる言葉が細切ればかり、ミツコにとっては既知の事柄と繋げにくい、まるで空欄だらけのクロスワードパズルだった。質問はできない。ヒントもない。それでも集中して耳を傾けるうちに、これまで知り得なかったこの青年の背景が、断片的に見えてきた。
およそ一年前のジョイは、生まれ故郷に近い街の自動車販売店で働いていた。モナミが社長だったという会社だ。どこかの時点で、おそらくわりと速やかに、ふたりは親密な関係になった。年齢や立場や収入の違いなど、ものともせずに。この世界では、大きな街でも小さな町でも場所を問わず、たびたび起こる出来事ではあった。
曖昧であやふやでつかみどころのないふたりの会話から、ミツコに聴き取れた最初のキーワードは「タバタ」だ。モナミがその名を呼び捨てる「タバタ」という人物は、ふたりの親密さに水を差した。それどころか、ジョイにレッドーカードを突きつけ、モナミの周辺から立ち去るように命じた張本人であったことが、たったいま、明らかになった。
それによって、モナミの胸中に巣食っていたわだかまりが氷解した。ジョイは自ら好んで姿をくらましたのではなく、やむを得なかったのだと理解した。なにせ「タバタ」が怖かったから。ジョイは率直に打ち明けた。そうよね。モナミも同感だった。だって、あたしも「タバタ」は怖いから。
もうひとつのキーワード、「カーキャリア」が登場したエピソードはなかなか傑作だったので、ミツコは危うく吹き出しそうになったくらいだ。
自動車販売店前の路上を占有しては、商品である乗用車の積み降ろし作業をする「カーキャリア」を、ミツコはありありと思い浮かべた。自分でも運転をしていた頃は、乗用車を満載した「カーキャリア」を見かけるたび、よくまあ落とさずに積んだものだと感心して眺めた。その作業をしたのがどんな人物か、意識したことはなかった。ましてやその人物が、見事な手際の持ち主でない場合もあろうとは、想像もしないことだった。
モナミとジョイの探り合うような会話から、ミツコは想像を巡らせる。見えた場面は、高価な新車を「カーキャリア」の上段に載せようとしたジョイが、なんの弾みか気の迷いか手違いか知る由もないが、トラックのフロント部分をひょいと跳び越え、路上に落下した瞬間だった。
さらに不運なことに落ちた路上には、もっと高価な新車が置かれてあった。選りによってジョイは、その販売店で一番高価なクルマの上に、二番目に高価なクルマを落っことした。もちろん二台の高級車は、正視に堪えないほど派手に潰れてしまった。
かくも悲劇的なエピソードを、ミツコが面白おかしく聴けたのは、ひとえにジョイが、まったく怪我をしないですんだからだ。当人は、肘だか膝だかをしたたか打って相当に痛かったとぼやいたが、モナミに完全無視された。
それもそのはず、ジョイの逃げ足はあまりにも速かった。手足のどこかを痛めている者には、到底発揮できるはずのない瞬発力だった。
アクション映画のようなその場面を、ミツコはスロー再生で思い描いた。
ポルシェに直撃落下した後、ジョイはそのルーフに後輪を残して逆立ちしたままのBMWから這い出し、とにかく一目散に走った。そして自分のジープチェロキーに飛び乗り、生まれ育った親の家に逃げ込んだのだった。
めっちゃ高いクルマを二台もおシャカにしちまったから、オレは逃げる。ジョイからいきなり別れを告げられたオヤ(父親か母親かそれとも両方か、ミツコは知りたかったが言及がなくていささか残念だった)は、一瞬絶句したのちにきっぱりと言い渡した。逃げるならお前のクルマを置いて行け、と。
ジープチェロキーを手放すなんて、手足をもがれるようで不満だったが、考えてみればそれが道理かもしれない、という気もした。などと、モナミとミツコの前では格好をつけて物わかりがよいふりをした。実際は、父親と母親と祖父母が総動員の連携プレイで、ジョイからジープチェロキーのキイをもぎ取ったのだ。なにしろ四対一だったので、どうにも敵わなかった。
常日頃から両親と祖父母は、こんな場合にジョイの扱いをどうするか、話し合っていたらしい。物心ついて以来なにかとトラブルを起こしては、後始末を両親と祖父母に丸投げしてきた息子だった。堪忍袋の緒は、とっくに切れていたのだ。言うなれば、覚悟が出来ていた分、両親と祖父母は強かった。
ジョイは母親のダイハツミラで運ばれ、最寄りのJR駅で降ろされるに至って、初めてオヤたちの本気度を思い知った。しかしながら、カネがないのはどうしようもない事実だった。結局、両親と祖父母がそれぞれの財布を開き、手持ちの現金を出し合った。千円札と硬貨も含めて十万円弱のカネがじゃらじゃらと、ジョイのポケットに詰め込まれた。カネをやるのはもうこれっきり、当分帰って来るな。オヤたちから言い渡された宣告は、ずしりと重かった。
それがいまでは。
ジョイは肩を並べて歩くモナミから、上機嫌のオーラを感じ取っている。その胸もとを飾ったブラウスの、知恵の輪模様には馴染みがあった。そいつはモナミのお気に入りで、言わば勝負服のようなものであり、ここ一番の際に幸運をもたらす晴れ着でもあったはずだ。案外、ゲンをかつぐ女なのだ。とどのつまり、知恵の輪模様のブラウスで現れたモナミに、NОを言うつもりはないだろうと踏んだ。
ふと、車椅子に座ったモリサキミツコの耳を意識した。車椅子の揺れに同調して、陽除けのストローハットもはらはらと小さく揺れている。陽ざしに温もったモリサキミツコは、心地よく微睡み始めているようだった。
と、見えても実はしっかり目覚めていて、こちらの会話を聴いているのが、このバアサンの特技じゃなかったか?しかも時々、わりとすらすら喋り出したりするから厄介だが、その相手は大体オレとルリだけと決まっていた。
思いがけない成り行きから、セントポーリアガーデンで働くことになった。そろそろ一年になる。こんなに続くとは、自分でもびっくりだった。オヤたちに知らせたら、どんなにか驚くことだろう。いや、それ以前にまったく信じないか。だとしても、信じさせようという気にはならない。いまのところ、そんな面倒くさいことはしたくない。
オレの職場になったセントポーリアガーデンは、ルリの職場でもあった。だから、オレたちが付き合うようになったのは、必然だ。どうしたって絶対に、住む場所とクルマは必要だった。ルリはその両方を持っていて、おまけに隙だらけだった。食いついてくれと言わんばかりに。だから、食いついてやっただけなんだ。べつに、ヤバいことしたわけじゃないだろ?
ほんの一瞬内省的な気分に襲われたジョイは、セントポーリアガーデンに就職してからの自分の行いを、じゃぶじゃぶと洗い流してしまいたくなった。
けれどもいまは。
傍らにいるのは不機嫌なルリではなく、上機嫌のモナミだった。散々迷惑をかけたのに、ひと言もなく逃げ出したのに、どうしてだか嬉しそうにオレの腕に寄りかかっているモナミだ。この機を逃す手はない、そうだろ?
謀る(たばかる) 千田右永 @20170617
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