第6話 アルタ

 アルタは急いでいた。近道しようと駄菓子屋のある仲通りに入ったら、やっぱりキナコのマークXが、駄菓子屋の前にデンと止まっていた。まるで、待ち構えていたようだった。

 駄菓子屋はとっくの昔に閉店したのに。もう少し軒下に寄せてくれたらどうにか通れそうなのに。ボヤキまくっても、狭い仲通りのど真ん中に止まったマークXは、問答無用の佇まいで行く手を完全に塞いでいた。コンパクトなアルタのスズキアルトでも、すり抜けるのはちょっと無理だ。


 思いきりクラクションを鳴らしてやった。その後もしばらく待たされた。ようやく駄菓子屋の戸口から顔を出したのは、案の定、キナコのガキだった。 

「うっせーな。音、デカいっつーの。だまって待ってろバーカ」

 キナコのガキが言ったことは、すなわち、キナコ本人が言ったも同然だ。アルタはすかさず反撃した。

「さっさとよけろ。ツーコーボーガイすんな。ドツかれたいのかバーカ」


 やっとキナコが現れて駄菓子屋の戸口に施錠した。しかしその動作は、これ以上あり得ないほどのろい。急ぐ様子はまるでない。アルタはイラついた。

「早くしやがれ。こっちは急いでるんだぞ」

 キナコは不細工な顔をこっちに向け、ニッと不細工に笑って言った。

「出戻りアルタ」


 すると、母親から悪態ついてよしと許可を得たかのように、嬉々としてガキも言ってのけた。

「でもどりあるたのばかたーれ」

 キナコのガキは母親ゆずりの不細工な顔を、いっそう不細工に歪めてケタケタと笑い、ぴょこんとマークXに飛び乗った。キナコのほうはドアに手をかけ、アルタをキッと睨みつけて言い放つ。


「あんた、仕事してんの」

 尋ねたのではなく、してないに決まってると、決めつけた言い方だった。 

「うっせー。さっさと行け」

 フン、と鼻で笑ってキナコは去った。というよりマークXが、滑らかなスタートと加速で美しく去った。その後ろ姿に、アルタはちょっと見惚れた。


 小中学校時代のアルタは、数えきれないほど転校を繰り返した。ジョイに告げたとおり、そのこと自体は嘘じゃなかった。しかしその転校の実態は、言ってみれば、キャッチボールのようなものだった。この通りの先の祖母の家を起点に、もっぱらジョイの地元の町の方面へ行ったり来たりしたのだ。


 はじめてこの街へ戻ってきたとき、小学生のアルタは、駄菓子屋の娘であるキナコから「出戻り」と呼ばれた。うっすらと、バカにされたようなニュアンスは感じとれたが、イマイチ意味がはっきりわからなかったので、ヘラヘラと笑ってすませた。

するとその後、転校して戻るたびにキナコはアルタを「出戻り」と呼んだ。それどころか、転校も転居もしなくなって久しいいまでも、アルタと顔を合わせれば「出戻り」をくっつけて悪態をついた。その悪しき習慣は、しっかりとガキにまで引き継がれている始末だった。


 この世界では、わけのわからない不思議な出来事がやたらと起こっている。アルタは思う。だとしても、普遍的であったり深遠であったりするような難問は、そもそも縁なきものとして高い棚の上に放置してしまえばよかった。目に入らないですむから、気にならない。

けれども、たびたび目の前に出現する身近な不思議現象は避けようがない。目障りだし、気にも障る。それが、キナコとそのガキとマークXだった。


 なにがヘンだと言って、キナコがまともに結婚していることくらいヘンなことが、ほかにあるだろうか。ありはしないと思うのだ。しかもその相手は、市内では中堅どころの建設会社の社長だった。あの不細工な悪態女は、曲がりなりにも社長夫人なのだ。

 数年前の夏だった。あまりの暑さに労働意欲はどん底だったが、懐具合がカラカラに干上がってしまったので、不本意ながらなるべく短期のバイトを探した。暑かったので横着をして、最寄りの電柱広告にあった最寄りの現場へ何度か通った。


 週末に給料をもらう段になって、たまげた。事務所でカネを数えていたのは、キナコだった。いつもの事務員が病欠したので臨時の事務員だと名乗り、慣れた手つきで現金を扱うキナコは、古株の作業員たちから「社長の奥さん」と呼ばれていた。アルタに給料を手渡すとき、キナコはニッと笑いかけて「あんた、仕事したんだね」と意外そうに宣った。


 それきり最寄りの現場へ行くのは、もちろんやめにした。なのに、キナコとそのガキはたびたび駄菓子屋前の仲通りに現れた。なにしろそこはキナコの実家であり、いまもジイサンだかバアサンだか、或いはその両方だかが住んでいるらしいので、文句のつけようもなかった。


 その昔、駄菓子屋の店番をしていたのはもっぱらジイサンのほうだった。少ない小遣いを握りしめたアルタが、買える駄菓子はどれかと迷っている間中、万引きを警戒するジイサンが、ギョロ目を剥いて見張っていたのだ。

「あんたが帰った後は、いっつもキナコ飴が三つくらい減ってるんだってさ」

クラスのみんなの前で、キナコから出鱈目な言いがかりをつけられときの悔しさは忘れられない。むしろ忘れないために、それからは駄菓子屋の娘をキナコと呼ぶことにした。ガキは無論、キナコのガキだ。それ以外のものでは、全然なかった。


 キナコのマークXの残像がちらつく目を眇めつつ、交差する通りを二本渡って家に着いた。そこで、またしてもたまげた。アルタの駐車スペースに、見知らぬクルマが止まっていたのだ。一瞬にしてアタマに血が昇り、カッと熱くなった。怒鳴りつけてやろうかとウィンドウを下げたとき、車内の男が顔を上げた。ジョイだった。


 そのクルマはライムグリーンのヴィッツ、どう見たってオンナ向きのカラーと車種だ。ジョイには全然似合っていない。えらく場違いな感じがすると思いつつ、いつもの軽い調子で呼びかけた。

「お。クルマ買ったのかよ?」

「まさか。ちょっと借りてるだけさ。いま、そっちにlineするとこだった」

「オレに?なんて?」 

「出ていくことにしたからさ、色々世話になったな、とかナントカだよ」


 言うなりジョイはヴィッツのエンジンをかけた。そのまま行ってしまいそうだった。アルタは素早い身ごなしでアルトを降り、ヴィッツの助手席に飛び乗った。ぷんと女の匂いがした。こいつは間違いなく女のクルマだ。

「なになになーに。どっかに部屋借りた?そんなカネあったのかよ?」

「あー、なんつうか、また借りみたいなもんだな」

「オンナか?」

「まあな」

「どこの、だれ?」

「おまえは知らない女だよ」

 それを言えば、知ってるオンナなんかひとりもいないだろうと思いつつ、アルタは当てずっぽうで言ってみた。

「あー。セントポーリアガーデンか?」

「おまえ、意外と鋭いな」


 だれだってそれくらいの見当はつくだろ。アルタは思ったが、口には出さなかった。鋭いなんて言われたのは生まれて初めてだったが、なかなか悪くない気分だったのだ。

 衣類で膨らんだ大型のポリ袋がふたつ、リアシートに載せてあるのを見て、アルタは急いで帰って来たわけを思い出した。

「洗濯、ついでにやってやろうと思ったのに」

 衣類の洗濯はコインランドリーを利用していた。アルタが洗濯に行くとき、ついでだからとジョイの分も同じポリ袋に入れた。室内に丸めてあるのを目にするより、そうしたほうが気は楽になるからだ。気分よくメシが食えてくつろげるし、バラエティー番組を見て笑える。しないより、余程マシだった。


 近ごろは逆転してるかも知れない、という気もした。気分よくメシを食ってくつろいで、しょうもない芸人のギャグでジョイと一緒に笑うために、アルタは部屋の中を片づけた。ジョイが脱ぎ捨てた衣類や使った食器やタオルは、異物だった。あくまでも異物で、アルタの生活空間には馴染まない。


 だから、片づけなくちゃならないのに。そうするために急いで帰ったのに。こいつは一切の前触れなしで、いきなり出ていくと言うのだ。そうだ、いきなり過ぎるからムカつくんだとアルタは気づいた。

「あのさ、オレ、出て行けなんて言ってないよな?」

「ない。しかしな、そろそろ限界だろ?お互いにわかってるんじゃないか?いい大人の男がふたり、同居するには向いてない家だよな、ここは。そりゃあ、泊めてもらって助かったよ、オレ、けっこうピンチだったからさ、ホント、感謝してるんだ。仕事も見つかったし、なるべく早いとこ出ていかないとヤバイって、ずっと考えていたんだ、そっちから言われなくてもさ」 


 ダッシュボードに置かれたディズニーキャラクターのフィギュアから、ほんのりと甘い香りが漂った。ジョイのオンナはこの匂いが好きなんだな、どんなオンナかまったく知らんが。ディズニーキャラから放たれる甘い香りを鼻腔内の粘膜に浸み込ませ、アルタは思った。ジョイがその女を、自分に会わせてくれようとしなかった事実を噛みしめる。思いのほか傷ついていた。


「洗濯機あるんだ、カノジョのうちには」

「まあな。あ、オレのТシャツが一枚見つかんなくてさ、どっかにあると思うんだけど、ゴールドのプリントがついた黒いやつ、見つけたらlineしてくれよ、取りに来るからさ。なっ?」

 おもねるような口調の頼み事と引き換えに、ジョイを解放してやる気になったアルタは、ライムグリーンのヴィッツから降りた。待ってましたとばかりに、ジョイはそそくさと走り去った。


 ゴールドのプリントがついた黒いТシャツならもう見つけた、とアルタは思う。ついさっきまで目の前にあった、ジョイが着ているТシャツがそれだった。Lineしてやろうか、どうしようかと迷い、結局やめにした。なにもかも、ひどく面倒になった。


 家に入ると祖母のヒサコがテーブルにもたれかかって、なにか食べていた。

「ジョイくんに会ったかい?」

「会った。なに食ってんの、ドーナツ?」

「ジョイくんから貰ったの。あんたの分もあるよ」

 アルタは箱の中に一個だけあったリングドーナツをつかみ取り、頬張った。

「バアちゃん、何個食ったのさ?」

「久しぶりで美味しかったもんだからね、ついつい三個も食べちゃった」

「で、ジョイが二個食ったから、オレの分は一個なんだな」

 アルタは箱のサイズから、中にあったドーナツの数は六個と見当つけた。


「ドーナツの店は遠いからね、あんたが買いに行ってくれなきゃ食べられないでしょ。今度行ったときは五個買っておいでよ、あんたに三個あげるから」

 アルタは甘いドーナツを三個も食べられない。一個で充分、腹も胸もいっぱいになる。ヒサコはもちろんそのことを知っているはずだが、時々こんなふうに、きれいさっぱり忘れたような言い方をしてのけるのだ。


「ジョイとなに喋ったのさ?」

「なにって、ホントはあたしがあんたの祖母だってこと、言っといたよ。べつに、騙そうとか誤魔化そうとかしたわけじゃないってね。ただ、十八の時に産んだ娘が、同じ十八で産んだ孫息子を育ててきたら、当たり前みたいにお母さんって呼ばれるし、いちいち祖母ですって名乗るのもシラケちゃうし面倒だし、放っておくことにしたのよ、なんてことを話したんだわ」


「あいつ、なんか言った?」

「あんたが何回転校したのかって訊いたから、一回もしてないって言ったよ。ウチからすぐそこの小学校にずっと通って、ちょっと向こうの中学校に休み休み通って、それでもちゃんと卒業させてもらったでしょ。ずっとウチにいてあたしが育てたんだもの、転校なんてするわけないのに、ヘンだよね」

「ふうん。あいつ、なんて言った?」

「はあ、そうっすか、ってさ、ニコニコして言った。愛想いい子だよね」

「まあ、介護士だからね」


 アルタは足先でテーブルの下を探っている。ヒサコが足載せ台にしている丸めたコタツ布団をつつき、足指でつまんだコタツ布団をめくって、中身だけを自分の方へ引き寄せた。

 念願のドーナツを三個も平らげたヒサコは満足そうに、うつらうつらと舟を漕ぎ始めている。アルタはその耳もとに、ささやきかけた。


「なあバアちゃん、オレの母ちゃんはどこ行ったんだろうね?」

 するとヒサコは半分眠ったままで、もぐもぐとつぶやいた。

「あんたの母ちゃんはね、ちょっと遠いところへ遊びに行っただけ、いつかきっとそのうちに、お土産持って帰ってくるからね、いい子にして待ってればいつかきっと…」

 まだ幼かったアルタが尋ねるたびに、ヒサコは同じ答えを繰り返した。何度も何度も、繰り返した。やがて長じるにつれ、アルタは気づいた。ヒサコが母について同じことを言い続けるのは、幼い自分を宥めるためだけじゃなかった。ヒサコ自身が、そうであってほしいと願っているからだ。


 アルタはテーブルの下にうずくまり、コタツ布団の中から引っ張り出した半円形のケージの扉を開いた。プンと、カビとホコリが臭い立つ。〈ちゃらこ〉の毛とフンが入り混じった、十数年越しのホコリだ。アルタは気色悪いと感じる意識にフタをして、敢えてカビとホコリを吸い込んだ。

 あのとき母ちゃんが、うっかり吸い込んでしまったように。


 若くてきれいで元気いっぱいだった母ちゃんは〈ちゃらこ〉を見るなり、そんなの邪魔くさいと言った。アルタがしょげると仕方なさそうにケージの中を覗き込み、可愛いからまあいいかと笑った。その拍子に〈ちゃらこ〉の毛を、しっかり吸い込んだのだ。

 その後まもなく母ちゃんは咳き込み始めて激しい呼吸困難に陥り、息ができないと恐ろしい形相で苦しみぬいた挙句、ピクリとも動かなくなってしまった。一切合切が、タチの悪いジョークとしか思えない出来事だった。


 カビとホコリをたっぷり吸い込んだが、アルタにはやっぱりなにも起こらなかった。母ちゃんの子どもなのに、ハムスターの毛を吸ったのに、オレにはアナフィラキシーショックが起こらない。母ちゃんと同じアレルギー体質を、オレは持っていない。そのことがひどく寂しく、悲しく思われた。


 いつかの健康情報番組で、どこだかのセンセイが言っていた。若いうちはモンダイなくても、年を取るにつれて体質が変わり、アレルギーが突然現れることもある、とかなんとか。その発言はアルタの耳にとまり、沁み込んだ。


〈ちゃらこ〉の毛で息を詰まらせて死んだとき、母ちゃんは二十六だった。アルタも、もうじき二十六になる。今年中に母ちゃんと同じ年になるのだ。そのことに気づいて、心底驚いた。と言うよりはむしろ、ときめいた。なにか起こりそうな予感がしてならない。なにか。わからないけど、なにかだ。

 すると、その後まもなく、ジョイに出会ったのだった。


 アルタはしっかりと覚えている。父親の仕事場があったあの町に、初めて住んで間がない頃だった。まだ親しくもないのに、学校帰りにあいつの家に連れて行かれ、ハムスターがうじゃうじゃいるのを見せられた。可愛いだろ?あいつが言うから付き合いで仕方なく、可愛いなって答えた。

 じゃあやるよって、あいつは言った。こっちは欲しいなんてひと言も言っていないのに。一匹じゃなくて二匹も、古いケージに入れてよこした。きっと母ちゃんに叱られる。そう思ってアルタは困惑したが、ペットを飼うのは初めてだったので、半分くらいはうれしい気持ちもあったのだ。


 〈ちゃらこ〉と名付けて可愛がったのは、ジョイの家から自分の家に帰る途中と、母ちゃんに見せるまでのわずかな時間だけだった。もう一匹の名前が決まる前に母ちゃんがあんなことになって、アルタはケージの扉を閉め忘れ、ハムスターたちはいつの間にか、いなくなってしまった。


 ハムスターなんて本当にいたのだろうか。アルタはときどき疑わしい気持ちになった。母ちゃんの死因は本当にアナフィラキシーショックだったのか。これといった原因が他に見当たらなかったのは、確かだった。医者と警官と父親の間で、短い話し合いがあった。その結果、折り合いをつけるような形で、おそらくこれだろうと決着がついたのだ。なんだっていいだろ。そのときのアルタは思った。どのみち、母ちゃんが死んでしまったことには、なんにも変わりがないのだから。


 なにしろ肝心のハムスターたちが逃げてしまって、どこにもいなかった。毛とフンで汚れた古いケージがあるきりだ。確かなことはただひとつ、オレの母ちゃんが死んでしまってもういない、それだけだった。


 今年中に二十六になると気づいてからのアルタは、たびたびテーブルの下にもぐり込み、コタツ布団をめくって古いケージを引っ張り出した。テーブルの下の狭い空間にカビとホコリを充満させ、呼吸した。そのまま眠ってしまったこともあった。

 けれども、数時間後にはちゃんと目覚めた。母ちゃんを殺したアナフィラキシーショックは、やっぱりオレには起こらない。そのことを確かめただけだった。

 

 

 

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