うん、だいじょうぶ~渋谷のコンビニで「西日本向け【赤いきつね】」を食べた夜のこと~

等々力渓谷

第1話

2011年3月20日、午後7時過ぎ――

  地震から最初の週末、渋谷の町並みは電力危機のため徹底した節電が行われていた。そのため、文化村通りの街灯は消えたまま、ドン・キホーテ渋谷店は店名の入った黄色と黒の看板に照明を入れていなかった。

 意外にも人の流れはそれほど減っていなかった。スクランブル交差点では人々が堰を切ったように横断歩道を渡ってゆく。だが、その交差点を取り囲み、めまぐるしく変わるCM映像であたりを照らすオーロラビジョンは真っ暗だ。CMの音声が入り乱れてやかましかった空間には、今までかき消されていた「 信号が変わります、無理な横断はやめましょう」の声だけが響いていた。

 信号が変わると、今度は車が動き始める。店から洩れる照明が辛うじて届く暗がりの2車線を、皓々と点いたヘッドライトが次々と流れてゆく。

 闇の底が白くなった、と僕は胸の内でつぶやいた。

 再び信号が変わり、歩行者が動き始める。その群れに混じって横断歩道を渡りながら、僕はもう一度、今来た方を振り返った。

 109の向かい、サーティーワンアイスの上の広告スペースから、HIV啓発イメージキャラクターのやまぐちりこが通りを見下ろして笑っていた。



 246号線の上に架かった歩道橋を オレンジ色の街灯が照らす坂のかたわらに出現するセルリアンタワー――というか東急ホテルは、客待ちのタクシーが一台、歩道まで出てきてゲストを待つドアマン、こちらはいつも通りだった。

 あてもなく歩く僕がふらふらと坂を上がりきると、横断歩道の先に広がるエリア一帯が、そこだけスポットが当たったように明るくなっていた。コンビニがあるのだ。

 温かいものが欲しいなと思いながらも、僕の足は止まらない。他人の幸せを見るようにコンビニの横を通り過ぎながら歩みを進める。

 と、僕の視線が、コンビニの中にある、見慣れない光景を捉えた。

 こちらに向かって垂直に並んだ陳列棚のこちら側、ちょうど柱の陰になるあたりにダンボールが詰んである。「赤いきつね・12個入り」と印刷してあるので陳列前の商品なのだろう。

 僕が気になったのは、その【赤いきつね】のダンボールにおかしなシールが貼ってあったことだ。

 『四国中央豊岡店』『段上店』『古江新町店』……見慣れない字面ばかりだが、どう考えても四国中央豊岡店は四国にある店の名前だろう。

 だがどうして、四国やその他、知らない土地の店名が貼られた【赤いきつね】が渋谷のコンビニに積み上げられているんだ?

 興味を惹かれて、僕は足を止めてコンビニの中を覗き込んだ。

 【赤いきつね】のダンボールは全部で4つ積まれていたが、一番上のダンボールだけ一向きを逆に積んだのか、こちらから店名シールが見えなかった。

 こうなると、全部確認しないと気が済まない。僕はコンビニの自動ドアをくぐった。

「ぃらっしゃいませー」

 適度に気の抜けた店員のあいさつが店の奥から聞こえた。

 一つだけ向きが違う訳はすぐに判った。一番上のダンボールは開封済みだったのだ。途中まで品出ししたダンボールの開いた口を、柱側に向けて置いてあったというわけだ。

 その開封済みダンボールの店名シールを見た僕は、驚きのあまり息を呑んだ。

 僕が子供の頃を過ごした土地の名前――祖父母の家があった場所――だったからだ。



 家庭の事情で、僕はちょいちょい父方の祖父母の家に預けられていた。祖父も祖母も、突然送り込まれた僕を厄介者扱いせず、愛情をもって面倒を見てくれた。祖父母はどちらもこの世におらず、家屋も処分されてしまったのだが、土地の名前は僕の胸の中に郷愁のようなものを呼び起こした。

 それにしても、田んぼしかなかった山あいのあの土地に、今はコンビニがあるのか。いや、田んぼもきっと埋められて、賃貸アパートにでもなっているのだろう。春はレンゲが咲き乱れ、夏の夜にはカエルが鳴き、冬はどこまでも雪に埋め尽くされ……

 不意に、目頭が熱くなった。

 僕は少しの間目を閉じて、時に押し流されて喪われた風景のことを思った。

 ――少しの間のつもりだったが、思ったより長い間そうしていたらしい。

「あの……」

 不意に声をかけられて顔を上げると、コンビニの店員がすぐ側に立っていた。

「は、はい、なんでしょう」

 すると店員は僕の側の【赤いきつね】のダンボールを指さすと

「それ、箱売りはしてないんで……」

 僕は思わず苦笑した。確かにこの時期は、カップ麺や電池の買い溜めが横行していた。僕がいつまでもここから動かないから、誤解をされてしまったのだろう。

「いや、そうじゃなくて……」

 僕は事情を説明する気にもなれず、ダンボールを指さした。

「この『四国中央豊岡』って、なんですか」

 店員は、あっさりと僕の疑問を解決してくれた。

「ああ、これは振り替え元の店ですね」

「振り替え?」

「今、カップ麺ってメーカーも問屋も持ってないんですよ在庫。それで本部が他のエリアの在庫をかき集めて振り替えしてるんです」

「ああ、なるほど……」

 漠然と事情は理解できた。このコンビニの本部、つまり商品の仕入れを担当する部署が、カップ麺の在庫に余裕がある店舗を調べて(POSデータですぐ判る)この店に送ってくるよう手配したのだろう。結果、買い占めが起きていない、つまり東日本から距離がある地域の店だったということだ。祖父母の家があったのは、大阪からさらに西だった。

 あれ? ということは……

「この店で売ってる【赤いきつね】は西日本版ということに?」

「今はそうなりますね、期間限定で」

 【赤いきつね】や【緑のたぬき】に代表される、カップ麺のうどんや蕎麦は、東日本向けと西日本向けでは味を変えてあるらしい。関東と関西の食文化の違いをそのまま反映したのだとか。

 僕は食道楽の趣味はないが、期間限定は魅力だ。

「ここ、イートインのスペースありますよね。日曜日も使えますか」

「やってますよ」

 察した店員は先にレジに向かう。

 そして僕は、陳列された棚から【赤いきつね】を取った。



 電気ポットのデジタル表示は98度。

 【赤いきつね】にお湯を注いで、待つこと5分。

 僕はイートインの据え付けの椅子に腰を下ろして、ぼんやりと誰もいない店内を眺めた。

 渋谷の繁華街から少し距離があるこのコンビニは、セルリアンタワーや近隣の雑居ビルに勤める人の需要を見込んでおり、日曜日は比較的ヒマなのだろう。だからこそ、店頭に並べばすぐ売れてゆくカップ麺が、ダンボールで山積みされている。

 おそらく、明日のこの時間には、この48個――僕が一つ買ったから47個か――はキレイに店から姿を消しているだろう。僕は幸運だったという訳だ。

 5分、経った。

 僕は紙フタの重し代わりに使っていた割り箸とその上のスマホを持ち上げて、外した。

 紙フタを半分ほどめくって、割り箸で中身を軽くかきまぜる。

(ふーん……これが西日本の“つゆ”か……)

 透明感のある金色……視覚的には白だしのように感じるスープの奧に白いめんが沈んでいる。小さな紅かまぼこ黄色いたまご、そして乾燥ネギの緑が彩りを添える。それらを覆い隠すように、つゆを吸って膨らんだ黄褐色の油揚げが存在感を主張している。

「ではでは」

 僕は口の中でもごもごとつぶやくと、箸を手に取り、うどんを軽くたぐって口に運んだ。

(ふーむ……)

 口の中に広がる、軽妙な塩加減の後味にこくのある甘みが残るつゆの風味は、馴染みのある気もするし、新鮮な気もする。西日本のだしはこんぶだしだという話だから、僕の日常にあっても不思議はない。おでんのこんぶ巻とか、おにぎりの具の塩こんぶとか。

(こんぶ……こんぶ……)

 透明な金色のだしからこんぶを感じ取ろうとつゆを口にふくむ。5分待っている間に適温になったつゆが、僕の喉元から胃へ滑るように落ちてゆく。鼻孔へ抜ける香りは、香ばしいながらもすっきりしていて、後をひかない。

(なんというか……上品?)

 あれこれ考えながら、箸でつまんだ大きな油揚げにかぶりつく。

「うぉ、甘い」

 思わず感想が口をついて出てしまうくらい、インパクトのある甘さだった。つゆをたっぷり吸っているから、同じような塩味だと思っていたのに、とても甘い。ここまでつゆと油揚げの味が違うとは思わなかった。

(でも……うまいもんだなぁ)

 つゆの澄み切った塩味の中に隠れている甘さが、油揚げの甘さとマッチしている。昔の言葉ではあまいとうまいは同意義だったというのが納得できた。

 心ゆくまでつゆを味わおうとした僕はなんの気なしに【赤いきつね】のフタを完全に剥がした。

「わ……」

 カップの中から立ち上る湯気が、一気に僕の顔を包み込む。

 この優しい温かさには、覚えがあった。



 春の夜、冬の朝、そして夏休みのプール帰り……冷え切った僕の顔を温かいタオルでぬぐってくれた祖母。シャンプーハットはもう卒業しろと言いながら、風呂で僕の頭を洗ってくれた祖父。エアコンなんてしゃれなものはない生活、ぬるい空気をかき回す扇風機、石油ストーブの上のやかんから立ち上る湯気。

「忘れてる……もんだなぁ……」

 ――また、目頭が熱くなった。

 


 【赤いきつね】をきれいに腹に収めてしまった僕は、記念にもうひとつ【赤いきつね】を買って、店を出た。

 渋谷の街はあいかわらず暗くて、寒々しい。

 だけど僕は体の中からぽかぽかと、なにかが僕を温めてくれるのを感じとっていた。

 それはきっと、今食べたばかりのカップ麺であり、塩分摂取により上昇した血圧の作用であり、かつて僕は誰かに愛されたことがあるという記憶だろう。

 マドレーヌを紅茶に浸した香りをきっかけに幼い頃を思い出したフランスの小説があるが、僕は【赤いきつね】のつゆから立ち上る湯気で、子供の頃の思い出を取り戻したことになる。

 そんなことを考えながら246号線の坂を降りた僕は、ふと上を見上げた。

 あおい書店の前にある、大きく枝を広げた桜の枝先で、つぼみがほころんでいた。

 

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うん、だいじょうぶ~渋谷のコンビニで「西日本向け【赤いきつね】」を食べた夜のこと~ 等々力渓谷 @todoluckyvalley

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