雨が降る中、不良と猫は

上総

第1話

「僕は三年前にあなたに助けられた猫です。あのときのお礼をさせてください」

 唐突に突拍子もないことを言われ、いかつい顔に怪訝そうな色が宿った。

 ひと気のない裏路地で、素行不良そうな金髪の高校生は、声をかけた人物――僕を一瞥して皮肉げな表情を浮かべた。

「なに言ってんだ、中坊。昼間っから酔ってんのか?」

「黒猫のクロ。聞き覚えありますよね。あなたがつけたんですから」

「クロ……?」

「それにしても、引っ越されたんですね。探しましたよ。見つかってよかった」

 高校生に近づいていき、長身を見上げる。

「猫としては運悪く死にましたが、神様の思し召しで、お礼をしたい相手がいるならしばらく人の姿でいられることになりました。これからよろしくお願いします」

「いや、礼ったってなあ」

「ああ、そうだ。お名前は?」

「……岩崎いわさきてつだ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、彼は名乗った。

「んで? なんかの罰ゲームか? 誰もが避けて通る不良と指定の場所で写真でも撮ればお前の勝ちとかか?」

「まさか。酷いなあ、僕の説明、信じてくれないんですか」

「猫耳フードのパーカー着ただけのガキの主張をどうやって信じろってんだ」

「雨の中、捨て猫だった僕に餌をくれたことを思い出してくれるかと思って着てきました。似合ってますか?」

「知るか。……ったく、なんでこいつ、あのときのことを」

「あ、見てください、岩崎さん」

 指さした先に猫が通りかかったが、僕たちを見て素早い動作で走り去ってしまった。

「いまでも捨て猫に餌をあげたりしてるんですか?」

「してねえよ、もう」



 雨の日に捨て猫に餌をやるような不良が実はいい奴で株を上げるなんて、古典的なフィクションの中でしかあり得ない。

 現実の不良に優しさなどあるはずがなく、無知蒙昧で愚かで、残忍だ。


 僕がその結論に至ったのは、三年前の梅雨時のことだった。

 それより少し前、近所で弟の真宏まひろと黒猫を発見した。段ボール箱に入れられた、小さな子猫。触ってもぐったりしていて、鳴き声すら上げない。

 通学路から少し逸れた道は人通りが少なく、『拾ってください』の張り紙があったところで通行人に発見される可能性も低そうだった。

 下校中だったので一度帰宅して、家からパック入りの牛乳やパンやお菓子を持ってきた。パンを小さくちぎって差し出すと、ふんふん匂いを嗅いだ後に噛みついた。

「食べた!」

 真宏が目を輝かせた。

「もっと食べれば元気になるよね、兄ちゃん」

「全部あげるのはどうだろう。なにも食べてなかったときに急に食べ過ぎると、かえって身体に悪いんじゃ」

「そっか。兄ちゃん詳しいね」

 小さな皿に牛乳を入れて、その場を後にした。

 現在住んでいるマンションはペット禁止だ。何度か動物を飼いたいと言っては反対されてきた。

 その反動か、僕たち兄弟は捨て猫の世話に夢中になった。

 給食の残りやおやつを取っておいて、猫に与える。真宏は好物のチョコチップクッキーまであげていたし、僕も給食で出たカレーパンやピザトーストを半分あげた。

 発見したときは動くこともままならなかった猫は、だんだん元気になっていくかに見えた。


 ある雨の日、猫が心配で見に行くと、金髪の学生が猫を見下ろしていた。近くの中学の制服を着崩していて、高校生と言われても信じそうな長身。きつい眼光。ビニール傘よりも金属バットを持って殴り込みをしていたほうが似合いそうな、不良だった。

「ど、どうしよう……」

 しがみついてくる真宏の手を握り返す。必死に兄の威厳を保とうとしていたが、僕も怖くて仕方がなかった。

 彼が猫をいじめていたとしても、それを止めることなんてできない。

「なあ、クロ」

 なんて声が聞こえてくる。その猫に僕たちがつけた名前は、そんな単純で使い古された名前じゃないのに。

 物陰から様子を窺いつつどうしようか迷っていると、レインコートを着て自転車に乗った大人が、僕たちのすぐ傍を通り抜けた。

「わあっ」

 真宏が声を上げたせいか、中学生が振り返った。

 見られた。睨まれた。敵だと認識された。

 僕はなりふり構わず、真宏の手を引いて逃げ出した。



 翌日猫の所に行くと、猫は死んでいた。

 泣き出す真宏に、お墓を作ろう、と呼びかけた。面倒を見ないといけない存在がいるから、なんとか立っていられた。でも、表面上だけでも平静でいられたのはそこまでだった。

 泣き声を聞きつけたのか、近所の子供たちがやってきた。

「うわ、なんだこれ」

「捨て猫? ……死んでる?」

「お前らが殺したのか?」

 そこからは混乱の極みだった。

 泣き叫ぶ弟に「猫殺し」のコールがかかった。韻を踏むように、歌うようにかけられる、心を抉る言葉。

 違う、そうじゃない、昨日不良が、と言っても、聞いてくれない。

 集まった子供の中に、少年と弟の同級生もいた。噂が学校に広まるのは、時間の問題だった。

 子供は純粋なんて、誰が言ったのだろう。悪と断定した存在に対しては、無邪気に断罪し、攻撃する。自分だけは正しいと信じて。


 ショックを受けた真宏は、家に閉じこもった。

 僕はしばらく無理やり登校していたが、あのときの子供が同じ教室にいると思うと、教室に行けなくなった。

 事態を察した親により、僕たち兄弟は転校することになった。

 近所の子供とも顔を合わせられなかったので、しばらくは転校先の学校の近くにある祖父母の家に住むことになった。

 両親と離れて暮らすことになるのと、これまで住んでいた地より若干利便性が落ちるのと引き換えに、安寧を得た。

 真宏も最初は物怖じしていたが、じきに新しいクラスに馴染んだようだ。けれど弟はそれ以降、猫が通りかかると肩を跳ねさせ、動揺を見せるようになった。


 それから三年近く経った。

 あのときは一時的な避難先のつもりだったのに、僕たちはまだ祖父母の家に住んでいて、その近くの中学と小学校に通っていた。

 実家にも顔を出すし、親も休みの日には祖父母の家に来てくれる。だけどそう離れたところにあるわけではないあの家、あの地域に戻るのを真宏は嫌がった。

 僕ですらトラウマになっているのだから、幼い弟は耐えられなかったのだろう。

 春休みも残り少なくなった四月頭、祖父母の家に引っ越しの挨拶が来た。母親と息子らしき人影を、玄関の様子が見える物陰から真宏とともに窺う。

 その息子は金髪で、見知った顔をしていた。

「あの人っ……」

 真宏が叫びそうになる口を塞ぎ、客が帰るまでの時間、息を殺してじっとしていた。五分にも満たない時間が、永遠に等しい時間に感じられた。

 真宏は再び家から出られなくなった。あれから三年経ったのに。平穏な生活は、いとも簡単に破られた。

 彼は猫を殺した。

 法に触れない方法で、僕たち兄弟を壊した。実家に、あの街に住めなくした。

 そして罰を受けずに未だにのうのうと生きていて、髪を染めて制服を着崩して、周囲に迷惑を巻き散らしている。

 なら、やり返さないと。

 法に触れない方法で、彼を壊そう。追い詰めて絶望させて、この街から出て行かせよう。

 大丈夫、やれる。三年前と違って、もう無力な子供じゃない。

 だから僕は、三年前の猫が人の姿を取った存在だと名乗り、彼に近づいたんだ。



「この間ぶりですね、岩崎さん」

「またお前かよ。ってかなんで高校知ってやがる」

「すごいでしょう」

「褒めてねえ」

 一見和やかな会話が、高校から伸びる道で交わされていた。反吐が出そうだった。

 彼に名前を聞く前から、近所に越してきた家の息子については調べていた。敵のことを知らなければ話にならない。実際に声をかけたのは、調査をして作戦を練った後のゴールデンウィーク明けだった。

 岩崎徹。市内の工業高校生。二年に進級する春休みに引っ越しはしたが、転校はしていない。

 不良なんだから傷害事件や器物破損のひとつやふたつ起こしているだろう。その予想は外れ、中学の頃の不良同士の喧嘩以上の記録は出てこない。親がもみ消しているのだろうか。

 存在しているだけで迷惑をまき散らしている部類の人種がなぜ捕まりもせずに往来を歩けているのか、昔から不思議で仕方がなかった。

 警察に突き出すのが無理なら、やはりそれ以外の方法でやるしかないだろう。

「それで今日はどちらへ? 無免許で高速道路でも走るんですか?」

「バイクの免許なら去年取った」

「そろそろ制服を改造して長ランに?」

「いつの時代だ」

「そして気合を入れた装束で抗争の決着をつけるんですね」

「もう喧嘩とかやんねえよ」

 はあ、という溜息の後、岩崎は髪をかき上げた。

「というかてめえ、喧嘩はともかくそれ以外のイメージはどっから来てんだ」

「岩崎さん、不良ですよね」

「酒と煙草やってダチとつるんでるくらいで古典的な不良のイメージを押し付けられても困るっての」

「そうですね。カツアゲや万引きをしていても、一見ごく普通の高校生もいますよね」

「だから、そういう他人に迷惑かけるようなことからは足を洗った、って言ってんだ」

 意外だ。もっともどこまで本当かはわかったものではないが。

「じゃあその金髪は?」

「髪の色はアイデンティティだ」



 あるとき岩崎の後ろを歩いていたら、ふとした拍子に見失った。しばらく周囲を見渡しても見当たらず、まかれたか、と肩を落としたところに、後ろから「おい」と声がかかった。

 振り返った僕の視界にファストフードの袋が飛び込んできた。

「やる」

「あ……ありがとうございます」

 どういう風の吹き回しだろう、と思いつつも、ひとまず受け取った。彼も自分の分の包みを持っている。

 店が立ち並ぶ辺りから土手に移動した頃には、作りたてだったバーガーは冷めてきていたが、それでも夕食前の空きっ腹には染みていった。

「どうだ、その新製品」

「おいしいですよ」

「マジか。そういうピクルスや玉ねぎが大量のって苦手なんだよな」

 ならなぜ僕に寄越した。まあ確かに風味は独特だが。意外にお子様舌なのか。

「さっき中学んときの舎弟と出くわして、もらったんだよ」

 姿を消したのはこれを買っていたからではなかったらしい。

「んな昔の上下関係とか、もういいっつってんだけどな」

 おかしそうに言う岩崎は、確かにいまはそれほど荒れているわけではなさそうだ。金髪と着崩した制服、飲酒喫煙以外は、ここ最近は控えているのだろうか。

 中学卒業とともに、きりをつけたのだろうか。

 彼のせいで死んだ猫と、傷ついた人間を置き去りにして。

「僕に餌をくれた頃のあなたはもっと荒んでいましたよね」

「若気の至りだな」

「引っ越したと知ったときは、学校で問題でも起こしたかと。心配しました」

「転校してねえし、家追い出されるような問題も起こしてねえよ」

 じゃあなぜ、と視線で促すと、彼は残りのバーガーをでかい口に入れて飲み込んでから、言った。

「親父が再婚したんだよ」

 祝いの言葉をかけたものか迷っていると、続きがあった。

「中学んときだったか。親父と知らない女性が一緒にいるのを見かけた。お袋が死んで数年経つし、恋人ができようが再婚しようが好きにしろと思った」

 けどよ、と彼は零す。

「相手の女の連れ子は親父の子だったんだ」

 川のほうを見ていた視線が、僕を一瞥した。

「連れ子はお前くらいの年だ。お袋が生きてた頃から、あの二人はつき合ってたんだよ。お袋のことは蔑ろにして家のことも顧みなかったのに、酷い裏切りだって思った」

 夕日が土手を照らし出し、辺りをオレンジ色に染めている。鳥の鳴き声をいくつか聞いた後、僕は沈黙を破った。

「再婚はいまも認められないんですか?」

「まさか。そこまで聞き分けの悪いガキじゃねえよ」

 岩崎は肩をすくめて笑った。

「ここ数年、やさぐれたりバカやったり親父と殴り合ったり色々あったけど。なんつーか、ぶつかり合ってこれまでしてこなかった話をして、親や大人も完璧な人間じゃねえってわかった」

 その顔には、鬱屈したやり場のない想いなど感じられず。

「だから、もう喧嘩で発散する必要はなくなったんだ」

 最初に抱いた猫を殺す不良のイメージは、連想できなかった。



 この街の小学校に転校したときからの友人の趣味は、ボードゲームとTRPGだった。

 休み時間にそいつとやった勝負で負けて、放課後、僕はボードゲームのセールの荷物持ちに付き合わされることになった。

 彼が部長を務める部に入部させられるか荷物持ちかの二択だったので、荷物持ちくらいなら、と渋々つき合ったのだった。

 駅近くの店で買い物をした後、学校に帰ってきてボードゲーム部の部室にしている空き教室に戦利品を置きに行くと、生徒がひとりいた。

「なんだ、岩崎来てたのか。だったらお前と一緒に行ってもよかったな」

 一年の部員は、部長に呼ばれてもすぐには反応がなかった。何度か続けて呼びかけると、やっと顔を上げた。

「ああ、すいません。苗字が変わって慣れてなくて。新入部員の方ですか?」

「残念ながら。こいつに買い出しにつき合わされた哀れな友人Aだよ」

「部長のご友人ですか。よろしくお願いします」

 言葉自体は丁寧なものの、淡々と愛想なく挨拶をした一年生は、岩崎優也ゆうやと名乗った。

「君、もしかして親が再婚したとか?」

「はい」

 彼は現在僕がつきまとっている相手と同じ苗字だ。苗字だけなら珍しいものでもないが、最近親が再婚した岩崎家の子供がこの近辺に何人いるだろう。

 あいつの身内と知り合ってしまって大丈夫なのだろうか。再婚相手の連れ子同士、しかも半分血がつながった兄弟という訳ありで、そこまで仲がいいとも思えないが。

 その優也は、新しく部の備品となったゲームを興味深そうに眺め出した。そのうちひとつは猫をモチーフにしたゲームだった。

「そういえば、兄が最近猫に懐かれて大変だ、とこぼしていました」

「へ、へえ。そうなんだ」

「兄は猫が苦手だそうですが」

 苦手。だから殺したのだろうか。



「あ、岩崎さん。お久し――」

 呼びかけた言葉が途中で止まる。

 家と彼の高校までの中ほどの道で会った岩崎が抱えていたのは、ぐったりとした猫だった。五月でも暑い日が続いているからか、上着を脱いだ制服の白いシャツが赤黒く汚れていた。強い日差しの下、影は一層濃く見えた。

 最初に彼に抱いていた印象通りの姿、光景。だけど。

 なぜか、信じられない想いで一杯だった。

「俺がやったと思ったか?」

 答えられずに立ち尽くしていると、岩崎は溜息を吐き出した。

「そう思うならそれでいいけどよ」

「……違うならそうと言ってください」

「車にはねられたのを発見した。まだ生きてる、いまから獣医に連れてく。――信じるかどうかは好きにしろ」

 すれ違って遠ざかっていく足音。ひと気のない道が、異国の見知らぬ地のように居心地が悪い。

 なぜだろう、鼓動がうるさい。いつか岩崎を裏切れば、あのときの復讐になるかと思っていたのに。僕の態度が彼に突き放したような素振りをさせたかと思うと、胸の辺りが重くなった。

 散々迷った末に、僕は振り返って追いかけた。

「僕も行きます」

 その言葉に、岩崎は足を止めずに答えた。

「そうか。なら治療代は折半な」

「ええっ」

「冗談だ。ったく、これで夏休みに旅行行くためのバイト代がパーだ」

 そしてこれまでの仏頂面が嘘のように、快活に笑った。

 ――なんだよ、もう。

 憎しみを、恨みを継続させないといけないのに。

 不良が実はいいやつなんて使い古されたパターン、現実にはないはずなのに。

 このままだと、なんのために嘘を吐いてまで近づいたのか、わからなくなる。



 それから数日後の夜。家で自室に行こうとしていると真宏に呼び止められた。

「兄ちゃん、なんであの金髪の不良と一緒にいるの?」

「……なんのこと?」

「双眼鏡で窓の外を眺めてたら見つけたんだ。やっぱりそっくりさんじゃなくて本人だったんだね……」

 真宏はがっくりと肩を落とす。

「あの不良の仲間だったの?」

「違う!」

 間近で叫ばれて、真宏はびくっと身をすくませた。

「あいつをやっつけるために近づいたんだ。絶対に成功させるから。そうすれば真宏はまた外に行ける。学校に通えるようになるよ」

 肩をつかんで真宏と視線を合わせ、そう宣言した。手から弟の震えが伝わってきたが、やがて「うん……」と返事があった。

 そうだ。最初の目的を忘れたらいけない。

 あいつを、壊さないと。



 六限目が終わった後、集めたノートを職員室まで運ぶ途中、走る生徒に腕がぶつかってノートを廊下に巻き散らした。

 拾っていると、「どうぞ」と数冊のノートを差し出された。顔を上げると優也と目が合った。

「……ありがとう」

 彼になにかあれば、岩崎は哀しむだろうか。ついそんなことを考える。

 なし崩し的に、部室の鍵を借りに行く優也と一緒に職員室に向かうことになった。半分持ちますよ、いやいいよ、といった攻防があったが、昨日真宏に言ったことを実行に移す以上、彼に借りを作る気にはなれなかった。

 しばらく無言で歩いていたが、ふと気になっていたことを思い出した。

「君のお兄さんさ、なぜ猫が苦手なんだ?」

「気をつけていてもすぐ死ぬからだそうです」

 それはなにかの皮肉だろうか。

「以前、餌をやっていた捨て猫が、久しぶりに見に行ったら段ボールの中で死んでいたそうですよ」

 死んでいた? 殺したではなく?

「……そのお兄さんのせいで?」

「いえ、兄は子供の頃猫を飼っていて、小動物に与えたらいけない食べ物には詳しいですから。そんなヘマはしません」

 でも、だからって。岩崎は中学の頃、喧嘩っ早い不良で、破壊衝動を抱えていて。

「与えたらいけない食べ物って――」

「ネギとかチョコレートとか。子供がおかずの残りやチョコ入りの菓子を与えると簡単に腹を壊す、それが続いたり他の要因が被さったりするとあっさり死ぬ、って言ってました」

 現実感が揺らぎ、眩暈がした。

 あの頃、僕と弟は、猫になにを食べさせていたんだったか。

 カレーパンもピザトーストのトッピングも、玉ねぎが使われる。真宏が好きだった菓子は、確か――。

 やせ細った黒猫。雨が降る季節。腹を壊すようなものを食べて、雨に体温を奪われたら。

 体温が一気に冷えていく感覚に襲われた。

 ――猫を殺したのは、僕たちだったのか?

 職員室にノートを届けて学校から出てきたときのことは、よく覚えていなかった。



 岩崎のところに行く足が途絶えてから、一ヶ月ほど経った。

 六月になり衣替えはしたものの、たびたび雨が降り、どんよりとした雲が空を覆っていた。

 最近の僕の態度が空元気だと気づいた様子の友人が、部活と称して放課後僕を外に連れ出した。優也も一緒だ。そもそもこの部は部長と優也以外は、名義を貸しただけの幽霊部員らしい。

 ボードゲームを体験できる店に向かっていると、優也がなにかに気づいて足を止めた。向こうから歩いてくる人物は、特徴的な金色の髪だった。

「よう。いま帰りか?」

「兄さん」

 どくん、と鼓動が跳ねた。

「あれ、お前――」

「部長、彼はぼくの兄です。兄さん、こちらが日頃お世話になっている部活の部長で、その隣が同じく二年の」

 紹介が終わるより先に、僕は彼らに背を向けて走り出した。呼びかける声、驚く声を背中で聞いたが、立ち止まるわけにはいかなかった。

 どんな顔をして会えというんだ。一方的な勘違いで敵視して、復讐しようとしていたのに。

 馬鹿らしい。恥ずかしい。消えてしまいたい。過去を変えられるのなら、変えてしまいたかった。

 背後から、足音が聞こえた。振り返ると、岩崎が追いかけてきていた。

「おいっ、てめえ、久しぶりに顔見せたと思ったら、なに逃げてんだ!」

 背が高い分歩幅が広いからか、見る間に距離が縮まっていく。

 だが僕が横断歩道を渡りきったところで信号が赤になり、背後で車の走行音が聞こえた。

 その隙に、裏路地に飛び込んだ。見つけられずに岩崎が諦めて帰るまで、時間を稼げればそれでいい。

 周囲を見渡すと、テナントが入っているのか怪しい古いビルが目に入った。同時に顔に雫が落ちる。折りたたみ傘は学校に置いたままだったことを思い出した。ビルの階段を上っていくうちに、雨音は強くなっていった。

 二階、三階の部屋に続く扉には鍵がかかっていた。

 階段に腰かけて、友人に一言謝らないととスマホを取り出して、文章を打っては消し、を何度か繰り返していると。

 階段の下から足音が聞こえてきた。

 結局連絡を取れないままスマホを仕舞い、足音を殺しつつ階段を上がっていく。

 やがて、屋上へのドアが目前に現れた。迫ってくる足音に急かされるように、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。


 夕立は強さを増していて、風も吹いていた。

 屋上に出て気づく。隠れる場所なんてどこにもない。覚束ない足取りで柵の前まで来たところで、階段からのドアが開いた。

 振り返ると、岩崎と目が合った。

 僕は無理やり笑顔を作り、彼と相対した。

「クロは死にました。あなたにまとわりつく人の姿を取った猫なんて、本当はいなかったんだ」

 精一杯の虚勢を張って、そう告げた。

「だろうなあ。猫が弟と同じ中学に通ってるってより、中学生が嘘吐いてたってほうが説明がつく」

 そもそも最初から、騙されてなんていなかった。中坊の世迷い事だと思われていた。

「お前、子猫が食わんようなもん食いまくってたし。元が猫だってなら、設定守れや」

 彼が押し付けてきたバーガーに玉ねぎが多めに入っていたことを思い出した。

「それで? 騙されたことに怒って、リンチしに来たんですか?」

「俺がそういうやつに見えるってか」

「そうですね。あなたのような不良は、不機嫌さを隠しもせず、暴力性を辺りに巻き散らし、弱い者の平穏を脅かすんだ」

 岩崎がそんなやつだったらよかったのに。

 そうすれば、騙したことに罪悪感を覚えることもなかったのに。嫌われたかもしれないと、怯えることもなかったのに。

 でも、もういいや。

 嘘だと知られてしまったのなら。怒っているのなら。

 もう全部、壊れてしまえばいい。

「僕はあなたを騙して裏切って、弱味を握って貶めようとしていました」

「そうか。で、なんでそれをわざわざ告白してるんだ」

「クロの幻想を汚して木っ端微塵にするためです」

 岩崎の眉が跳ねさせたのを見て、被せるように言った。

「それに三年前、あなたが面倒を見ていた猫を死なせたのは僕たちだ」

 風が吹きすさぶ。一際強くなった雨が、遮るものがない屋上に降り注いだ。

「……あの猫に餌やってたガキはお前らか」

 雨で身体が冷たくなっていく。岩崎が一歩踏み出した。

「で、大方俺が殺したと思って復讐しようと?」

「――それは」

「その上で猫の生態でも調べて、昔食わせたもんでも思い出したか」

 あなたの弟に教えられたんです、とは言えなかった。

「安い挑発してんじゃねえぞ、ガキが。んな、捨てられた猫みてえな顔して」

 近づいてきた岩崎に腕を掴まれ、ビルの中に引っ張って行かれた。

 雨と混じって足元に落ちる雫が止まるまで、ビルの階段が一階に辿り着くまで、彼は振り返らなかった。

 思い切り殴られて傷だらけになれば、罰になるかと思った。

 柵を越えて飛び降りて骨でも折れば、償いになるかと思った。

 彼はどちらもさせてくれなかった。



 弱かったのは真宏だけじゃない。僕もそうだ。

 同級生や自分より年下の子供に「猫殺し」なんて言われて、叩かれても仕方がない悪にされてしまったことが、悔しかった。

 周囲の圧力に屈した自分を認めたくなかった。

 だからわかりやすい敵を欲した。

 都合のいい敵が再び僕たちの前に現れたとき、どんな手を使ってでも倒さないといけない、と思った。

 そんな敵は、本当はいなかったのに。


 後日、弟に岩崎を紹介した。

 最初真宏は見るも無残に震えていたが、岩崎が猫を死なせたのではなかったと説明すると、わかってくれたようだ。



 期末試験が終わり、夏休みが目前に迫った頃。家の近所のマンションに、僕たちは集まっていた。

「岩崎さん。昔、猫飼ってたって聞きましたよ。飼わないんですか?」

「飼わねえよ」

「でも好きですよね、猫」

「うっせ、黙れ。てかお前、弟んとこ来たんじゃねえのかよ。なんで俺の部屋に来るんだ」

「いまやってるボードゲーム、四人用だから誘いに来たんです」

「俺に中坊の部活に混ざれと?」

 僕も正式な部員じゃない。友人の付き合いだ。

「猫をモチーフにしたゲームなんです。コマが猫を象っててよくできてますよ」

「そりゃまた」

「もし僕が勝ったら――」

「俺が勝ったら、昔飼ってた猫の写真見せてやるよ」

 誇らしげに言われてしまい、僕は思わず吹き出した。

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