091 エル・ダージフ
騒がしい
ジェルダインは自分の
休んでいるところを訪ねて行くのは無作法ではないかと、ギリスは思った。
英雄が一人、房で休んでいる時というのは、大抵が具合が悪い時だ。
晩年のイェズラムもそうだったが、石が痛んで起き上がるのも辛いという時、英雄たちは決して、具合が悪いので部屋で寝ているとは言わない。
書き物があるとか、詩作に
病苦を隠す慣わしなのだ。
だから、これから訪ねるエル・ダージフもそうなのではないかと、ギリスですら気を使ったが、
まさか知らないってことはないよなと、ギリスは並んで王宮の廊下を歩く、年若い割には落ち着いた雰囲気の少年の顔を見た。
見ればまだ額の石も小さいのだし、戦場で見た
「いきなり行って、お前の
「
気さくとは思えなかった。
ギリスにはよく知らない相手で、顔もいまひとつ思い出せないが、エル・ダージフは先日の派閥の宴会で、サリスを厳しく叱責していた
あの時も別に、サリスを
「お前の
ギリスが尋ねると、ジェルダインは面白そうに苦笑した。
「石ですか? 俺も
どこか卑下するように答えるジェルダインは、困った顔をしていた。
「ギリスの
歩きながら話すジェルダインは、他の
それを見ると、こいつは無口というより、普段はあまり口をきかないようにしているのだと思えた。
おそらく序列のせいだろう。
あの幼い
魔法戦士の序列は、同世代であれば、ほぼ魔法の強さで決まる。
ジェルダインは背も高く、体格にも容貌にも恵まれているが、それよりも貧弱で、背も低いサリスファーのほうが、攻撃性の魔法を持って生まれたというだけで、序列が上なのだ。
それゆえ、サリスがいる限り、ジェルダインは黙っているのだ。そういうことらしい。
ギリスが話を聞いている顔で、ジェルダインの顔を見ていると、話して良いと思ったのか、
「エル・ダージフも、透視術で
ふふふ、と自嘲するように笑い声を立て、ジェルダインは話を止めた。
「すみません。
気まずそうに、ジェルダインは小声になった。
ギリスが真顔で聞いていたせいで、不機嫌に思われたのかもしれなかった。
人の話を聞くのは好きだが、ギリスは
「いいや。もっと話していい」
ギリスは鷹揚に言ったつもりだったが、ジェルダインは恐縮したようだった。
「
困った顔のまま、遠慮したふうにジェルダインが言った。
話せと言われても、ギリスには話すべきことは特になかった。
それで黙っていると、数十歩行く間の沈黙の後、結局ジェルダインが気まずげに話した。
「
「さあ。なんとなく……?」
ジェルダインが何のことを言っているのか、今ひとつ分かりかねたが、おそらくサリスファーを
予想は外れていなかったようだが、ジェルダインはまた困惑の顔だった。
「そんな感じで理由もなく
「知らない。普通はどうやって決めてるのか。お前はその、お前の
「どう、って。俺が決めたんじゃないです。派閥の
そういうものなのか。
自分の過去を思い返せば、そうだったかもしれない。
ギリスがまだ幼く、大部屋で寝起きしていた頃から、急に来て、
ギリスはそのどれとも気が合わず、生意気だとか、話を聞いていないなどと言いがかりをつけられては、よく殴られていた。
それが自分の
魔法戦士たちの
それ以前に、日常たびたびある検査や選別の機会に、この子は不要だと
天使が夜中に連れに来るのだと、まだずっと幼い頃には教えられていた。
現実に連れに来るのは、おそらく施療院の誰かだろうが、いずれ死の天使と出会うことになるという点では、同じことだった。
自分の下で、あるいは派閥の陣立てにおいて使うのだと
イェズラムが拾ってくれたから、自分は生きているのだと、ギリスは知っていた。
それを感謝しているが、
魔法だ。
イェズラムが、あるいは長老会が期待する大魔法の使い手であったがために、自分は生き延びることができたのだ。
他の連中も多かれ少なかれ同じだろう。
自分も恐らく、サリスファーが役に立ちそうで、自分と同じ氷結術士だったから助けてやったのだ。
魔法戦士は自分と同じ魔法を持つ者に独特の親しさを覚えるものだが、その点ではサリスファーは良い
火炎術士がでかい顔をする
自分は
イェズラムもそう考えただろうか、かつて。殺すには惜しい大魔法だと。
「エル・ダージフは、将棋ができる
個人房の扉が並ぶ通路の、一枚の扉の前で足を止めて、ジェルダインはそう話した。
「俺が一番勝ちました。それで
すぐには戸を叩かず、ジェルダインはそう説明していた。
何かを説明しているのだと思えた。
それでも、この
「何の話……?」
「エル・ダージフも、亡き
「もうちょっと面倒のない将棋盤の当てはないのか?」
ギリスは本気でそう聞いたが、ジェルダインは面白そうに笑った。
「良い方ですよ、俺の
「気が利くな、お前⁉︎」
びっくりしてギリスが褒めると、何が
そして目の前の扉を叩いた。
とん、とんとんとん、とん、と、何かの
扉の向こうから返事があった。
よくは聞こえなかったが、入室の許しのようだった。
ジェルダインはためらう様子もなく扉を開いた。
日頃から仕えている
ジェルダインはギリスを連れて房の中に進み、居間にいた
ギリスももちろん、それに
エル・ダージフはギリスから見ても年上の
叩頭礼を受けるエル・ダージフは、ギリスがいたことに驚く様子はなかった。
おそらく、戸を叩く時にジェルダインが伝えたのだろう。客がいることを。
「おやおや、エル・ギリス」
面白がっているふうに、エル・ダージフは言った。
穏やかな、のんびりした口調だった。
透視術師がどういうものか、ギリスは知らなかった。ダージフがどんな英雄なのか。
もちろん知らなかった。
真顔で見つめるギリスを、エル・ダージフはにこやかに見つめ返してきた。
居間に置かれた将棋盤の前に座り、書物と
それは、魔法戦士の姿をした、小さな木彫りの人形だった。
「どういう訳だ、ジェルダイン。説明してくれ」
控えめに黙っている
そういえば挨拶を考えて来なかった。
「
「そりゃまた、どういう訳で?」
手に持っていた駒を、書物に目をやりながら盤上に置いて、エル・ダージフは落ち着いた声で言った。
「エル・ギリスからお聞きください」
ジェルダインは代わりに話す気はないようで、しれっと話を押し戻してきた。
ギリスは困って、ジェルダインを見た。親切なんだか意地悪なんだか分からない奴だなと思って。
「聞こうか、エル・ギリス。氷の蛇よ」
歌うような言い回しでエル・ダージフが言った。
ギリスはため息をついた。
「訳あって借りたい。何も聞かずに貸してくれ。すぐ返す」
ギリスは単刀直入に言った。
それを聞いて、エル・ダージフは眺めていた書物から、ゆっくりと顔を上げ、そしてこちらを見た。
「訳とは?」
さすがにダージフはうっすら険しい顔をしていた。
「言えない」
ギリスはきっぱりと答えた。
ダージフはますます不可解そうに顔を
「それで貸してもらえると思うんなら、お前は馬鹿だな、ギリス。なぜエル・イェズラムほどのお方がお前を買っていたのか、俺には分からん」
ギリスへの興味が失せたふうに、エル・ダージフは視線を将棋盤に戻した。
「大魔法だ。馬鹿でも魔法がデカければ、
思い出そうと必死で考えていたのだが、自信がなく、ギリスは横にいたジェルダインに確かめた。
ジェルダインは痛恨の表情で小さく
ダージフも再びギリスの方を見た。
ゆっくり向き直る様子は、喜んでいるようではなかったが。
「強いの? 将棋?」
「将棋盤を貸してくれたら、たぶんこの部族で一番ぐらいに強い奴らの対戦を、憶えといて後で教えてやる」
「は!」
ギリスの提案を、エル・ダージフは短く
「誰だそれは? まさかお前じゃないだろうな、エル・ギリス」
「違うよ。俺、将棋ってやったことない」
ギリスが正直に言うと、エル・ダージフは信じがたいものを見る目でこっちを見てきた。
「そりゃ良かったな。お前が透視術師でなくて幸いだった。もし、そうだったら、今ごろきっと墓所にいた」
「なんで?」
「
「殺すってこと?」
ギリスが尋ねると、エル・ダージフは今までで一番、険悪な表情をした。
「お前ら先鋒部隊と違って、透視術師はそう多くは要らないんでな。俺のせいじゃない。派閥の伝統なんだ。どこでも同じだ」
「俺を派閥長に
ギリスが試しに言うと、ダージフは無表情になった。
呆れて物が言えない、というふうに。
ジェルダインが隣で息を呑む気配がした。口を挟むか、黙っているか、激しく迷っているような。
「エル・ダージフ、俺はイェズラムから、スィグル・レイラス殿下の即位を手伝うよう命じられてる。残りの一生をそれに使うつもりだ。将棋盤もそのために使いたいんだ。明日の夕刻には必ず無傷で返す。信じてくれ」
ギリスは本気で頼んだのだが、エル・ダージフは無表情なままだった。
怒ってるんだか呆れてるんだか、全く分からない。
「良かったら殿下の帰還式の行列に加わってくれないか? 参列の英雄は何とかなりそうだけど、
「即位などしない」
無表情なまま、エル・ダージフは教えてきた。
「殿下には後ろ盾がない。御領地が。後押しする地方侯がいないのに、継承争いを勝ち抜ける訳がない」
ダージフはいかにも当たり前というふうに言った。
「族長にもいたの? 後ろ盾。即位する時」
ギリスは純粋に知りたくて聞いたが、ダージフはまた顔を
「リューズ様は別だ。後ろ盾はないが……そんなもの名君には無用だ」
「嘘ついてる」
ギリスがダージフの顔を指差して言うと、
「馬鹿。そんなことも知らんのか。いちいち
エル・ダージフは気まずげにブツブツ言った。この場にいるのはジェルダインとギリスだけだが、誰の耳を
「どうやって即位したの」
聞けば教えてくれるのではないかと思い、ギリスは尋ねた。案外、
「商人だよ……本当に知らんのか? エル・イェズラムの
今まで何をやって来たのかと危ぶむ目で、エル・ダージフがこちらを見ていた。
「商人て? イシュテムとか、トゥランバートルとか、テルパミランとか?」
ギリスはいつぞや
それが何なのかはまだ分からないが、エル・ダージフは難しい顔で頷いてくれた。
「その全部だよ。それが族長閣下の後ろ盾だ。それぞれが下手な一領地以上の力を持ってる。地方候の多くが、そいつらに金を借りているからな」
「それが殿下にも味方してくれたら、即位の線もあるんだろ」
ギリスが尋ねると、ダージフは絶句した。
しかし、否とは言わなかった。
ただ黙っていただけだ。
その沈黙を破って、意を決したように、ジェルダインが口を挟んできた。
「
急に力説する
「全部が、俺たち皆が旅立った後の事かもしれません。でも、もし仮に、そうなったとして、その
「ジェルダイン」
不思議そうにダージフは
「そうなったからといって、後でその場に戻って
熱心に言うジェルダインに、ダージフは将棋の盤面が描かれた古びた書物を持ったまま、苦笑して向き合っていた。
「甘いな、弟よ。裏切り者の人食い殿下に加担した愚か者と、皆に
「かまいません。何者にもなれないよりは」
ジェルダインが
そしてダージフが深いため息をつくのを聞いた。
「思い詰めるな、ジェルダイン。お前にはまだ先がある。俺たちにはないが」
ははは、と苦笑して、ダージフは将棋盤をこちらに押し出してきた。
「馬鹿馬鹿しい。持っていけ。明日の夜にはここに返すんだぞ」
やれやれというように、ダージフは持っていた古い本を閉じた。
「必ずお返しします。ありがとうございます」
平伏して感謝するジェルダインに、ギリスは出遅れた。自分も礼を言うべきだろうが、じっと見てくるエル・ダージフの目と向き合ってしまい、ギリスは叩頭する機を失った。
「なあ、ギリスよ。もし
ギリスは答えるべき言葉が分からず、ダージフとじっと見合っている他はなかった。
こっちは何も言わないのに、ダージフが勝手に淡く自嘲した。
「もはや将棋盤など要らんのかもな。
「そんなことないだろ。俺にも理由は無いけど、殿下が探す約束だ」
「何を言うんだ、お前は」
呆れたふうに、ダージフはギリスを憐れむ笑みで眺めていた。
「いいや、本当だ。殿下が約束した。天使が赦すんだそうだ。俺たちも生きてていいって」
ギリスはその時に見た、スィグル・レイラスの顔を思い出して言った。
まだ幼く、ひ弱な殿下だが、あれが新しい星でないという保証はないのだ。
「は……」
ギリスの話を聞くダージフは、この上なく呆れた顔をした。
「その天使が、俺たちから生きる理由を奪ったんだ。そうだろう、ギリス」
「天使が返事をくれるはずだ。殿下が手紙を送った」
ギリスがそう教えると、知らなかったのか、ダージフはひどく青ざめた顔で長く黙り込んだ。
「なぜ、殿下が直に天使に……」
やっとそこまで言って、ダージフは言葉を失ったようにまた黙った。
正神殿に便りを送り、天使の命令を受けるのは、族長権の一部だと考えられている。この部族ではそうだったし、どの部族でもおそらく同じだ。
「天使が殿下に許したんだそうだ。いつでも便りを送ってきていいって」
ギリスはスィグル・レイラスから聞いた話をそのまま伝えた。
あの殿下は、何事か困ればいつでも天使に聞けるのだそうだ。
返事を持った鷹が戻れば、それも嘘ではない。
「トルレッキオで?」
用心深くこちらを伺うような目で、ダージフは尋ねてきた。
「そうだろうと思う」
ギリスは
石のある額を
実はただ苦しんでいるだけかもしれなかった。
受け入れがたい事実を理解するのに、人には少々の時間が必要だ。
「ギリスよ。レイラス殿下が人質に選ばれたのは、
「詩人にそう書かせよう」
肩をすくめて、ギリスはそう答えた。あれが新星なら、きっとそうなる。
「考えさせてくれ、ギリス……」
頭を抱えたまま、ダージフは暗い声で頼んできた。
「天使の後ろ盾があれば、商人すら要らん。そういうことなのか? エル・イェズラムは、本当のところ、お前に何とお命じになったんだ」
「イェズは俺に、殿下の射手になれと」
さっきも言ったようなことを、ギリスはまた教えてやった。
ダージフはまだ苦しむような目で、額を抑えたままこちらを見ていた。
「スィグル・レイラス・アンフィバロウが俺の新星だ。名君も、永遠には生きない」
ギリスがそう教えると、エル・ダージフはまるでギリスの中を透視するかのような
ギリスを透かし見たところで、そこに答えがあるはずもないが、ダージフは何を見たかったのか。
やがて大きな息をついて、ダージフが言った。
「殿下と話しをさせて欲しい。晩餐の席ではなく」
「喜んで会うと思うよ。将棋盤の恩があるんだもん」
ギリスが微笑んで請け合うと、
暗い目だった。苦悩したような。
それが何を意味するのか、ギリスには分かりかねたが、ひとつだけは確かだった。
エル・ダージフは将棋盤を貸す気になったようだ。
今はそれだけで十分だった。
「王宮の孤児たち」(カルテット) 椎堂かおる @zero
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