090 将棋盤
スィグル・レイラス殿下を黄金の扉で閉ざされた居室に送り届けた後、ギリスは共に付き従った英雄たちと王宮の通路で向き合った。
詩作を言いつけたサリスファーなどは、今も必死で何かを考えている青ざめた顔をしている。
ギリスはそれを眺めてから、一人、尊大なふうに立っている、ふわふわした薄物の袖の女英雄に目を戻した。
「じゃ、また
ギリスは宮廷生活で板についた
英雄たちは自分より年下の者には尊大だが、同輩より年上の者には礼儀を尽くすものだ。
フューメも嫌々のようにギリスに軽く目礼してきた。
「今夜の晩餐で、殿下のお席に、あなたの座る場所があるのかしらね、エル・ギリス。殿下は随分お怒りのようだったけど」
フューメもまだ少女なりに、彼女の
「あるよ。殿下がそう言ってたじゃないか。やっぱり僕の
ギリスが念押しをすると、フューメは華奢な肩をすくめた。
「なぜそんなことをおっしゃるのかしら」
「あいつ頭がいいんだよ」
「
フューメは気が重そうな表情で、ギリスにぼやいた。
可愛げがない割に、思っていることは筒抜けの女だった。
「殿下はあの通りのお人柄だよ。乱暴でわがまま。しかも人を食うんだぜ、あの可愛い
ギリスが脅す口調で言うと、フューメは不愉快そうにした。でも怖がっているようには見えない。
侍女たちがビビっているようには、女英雄たちは殿下を恐れてはいないらしかった。
「あなた、どうしてあの殿下に肩入れしてるの」
聞けばギリスが答えると思っている顔で、フューメが尋ねてきた。
それがなぜか可笑しい気がして、ギリスは思わず微笑みの顔になった。
しばらく同じ馬車に乗った程度で、フューメはこちらに打ち解けたらしかった。
「どうしてなのか俺も知りたい。お前も撤退するなら今のうちだけど、帰還式までは付き合ってくれ。人数が欲しいんだ」
「それは
きっぱりと答え、フューメは自分の
宮廷用に仕立てられた
ほとんど無意識の動作だが、子供のころに皆、宮廷らしい美しい立居振る舞いとして
フューメもあの
さっき
妻はともかく、工人の親方の妻の世話をする
今日見た限りでは、あの第四層には、そんな優雅な者は見かけていない。
だから、トードリーズのした話は事実である可能性がある。あの女は
ギリスは同じように
同じ女とはいえ、英雄には英雄の、女官には女官の歩き方がある。
男子として帯刀を許され、女が着る長い
女英雄は男とも女とも違う。
トードリーズの妻は、控え目で
つまり、あの女は、宮廷の女官だった者ではないのだ。
問いただせば教えてくれるのだろうか。エル・エレンディラは。
あの女は誰なのか。
そんなことを聞くべきか、ギリスには見当がつかなかった。
エレンディラは長老会の
今や、自分は誰に命じられて動けばよいのか、そういう相手がいないのだ。
ギリスは殿下を工人の家に案内する前、長老会の
殿下がトードリーズなる工人に会いに行くと言っている。族長の遣いで。
会わせていいのか。
エレンディラにそう聞くしかなく、ギリスは遣いにきた子供のように、そのまま尋ねたが、エレンディラは微笑んで答えた。
さあ、どうかしら。イェズラムなら
聞き返されてギリスは動揺した。
イェズラムが族長をあの工人から遠ざけていたのは、おそらく間違いない。
理由はあるだろう、何か。
しかしエレンディラはギリスにおもちゃの竜の涙の石を与え、殿下のお供で、あなたも行ってらっしゃいな、と許した。
行けば亡き
だが、これは、族長命令なのだ。
「
弱った子犬が鳴くような声で、サリスファーがギリスに語りかけてきた。
ギリスは寄り集まって立っている
「
ギリスはサリスファーに尋ねた。
「
サリスは気まずそうに青い顔で話した。
恐らくそんなところなのだろうと見当がついており、ギリスは驚きはしなかった。
しかし、
派閥こそ違うが、今は実質的にエル・エレンディラの配下のはずだ。あの
エレンディラは、あの新星を見込みのあるものと見て、
「でも、殿下はそんなことなさらないと思います。
サリスはスィグル・レイラス殿下を
一体なんの忠誠なのか。ちょっと目を離した
それをギリスが疑わしく見ていると、サリスは呆れたような顔になった。
「さっき、馬車の中で殿下がそうおっしゃてたじゃないですか。
「お前な。
ギリスは
「殿下はな、両方選んだんだ。どっちかを選ぶ必要はない。俺もフューメも
「い……いいえ」
喉に
でも正直な答えだ。派閥の
もっといい話を持ってこいと言いたいのだろう。
しかし現状はどうだろうか。
かつて殿下を敵地に送り出した出立式の行列に、
その列に居並ぶのが
ギリス一人が付き従ったところで、
しかもそれは、事実でもある。
「しょうがない。まずは
ギリスは当然の答えとして、そう
自分に言い聞かせただけで、
そんなことはギリスにも分かっている。
すぐには無理だろう。今はまだ、年齢も戦歴も足りない。
戦歴に至っては、今後増やせる
でも、それは皆も同様で、それでも自分には既にヤンファールの
ギリスと同年代の英雄で、ギリスを上回る戦功を挙げた者はいないだろう。皆、まだ出撃命令を受ける年頃ではなかったのだから。
そして多くの戦果を持つ
その時に生き残っているのは、この真っ白な
だから不可能な話ではない。自分が
それがギリスの読みだった。
「施療院に行きますか、
心配しきった青い顔で、サリスファーが尋ねてきた。
気が狂ったと思われたらしい。
「サリス。お前らの他にも
「そんな……」
嘆くような顔で、サリスが答えてきたが、不思議なことに、嘆いて見えるのはサリスだけだった。
「
ギリスがそう伝えると、
「お前たちは、できるだけ長生きして、俺に従え」
「それってもう決まっているんですか?」
深刻そうに
「いいや。決まってない。お前らが決めるんだ」
「エル・カーリマーです」
聞いてないのに
「聞いてないだろ。カーリマー」
「サリスだけ憶えられてて
ごねる口調で言うカーリマーは、少し癖のあるよれよれの髪をしていた。きちんと結ってあるのに、何となくだらしなさそうに見える。
「俺ね、
「お前の
ギリスが尋ねると、カーリマーはギリスの知らない名を口にした。
それでギリスが顔をしかめていると、カーリマーは呆れたようだった。
「本当に誰も知らないんですね。自分の派閥なのに。うちの
さも有名そうに、カーリマーはその名を口にしていた。
「それ、聞いたことある。エル・ビスカリス」
ギリスの答えに、カーリマーはしばらく答えに詰まったようだった。
「そりゃ知ってるでしょう。知らなきゃおかしいですよ。エル・ビスカリスは族長の側近の英雄で、エル・イェズラムの直属の
「ややこしいんだよ!」
ギリスは心底からそう言った。
エル・なんとかが誰それの
「憶えてください! 基本です」
エル・カーリマーが怒鳴っていた。
「お前が憶えろ」
「俺は憶えてますよ」
さらに呆れた顔になるカーリマーに、ギリスはさすがに面目なかった。
今まで、派閥に誰がいるかなど、本当に興味がなかったのだ。
自分の仕事は、敵の
その他のことなど、一切何も考えずに自分は生きてきたのだ。
そんな奴が
そうかもしれなかった。
「もっと知り合ったほうがいいんじゃないですか、派閥の
強く勧める口調で、エル・カーリマーが言った。
「俺は
「名前も憶えてないせいじゃないですか?」
そんなことがありうるのか。
カーリマーは真剣に言っているようだったが、名前や顔を憶えていない程度で殴られるような事があるのだろうか。
ギリスは今までそれについて考えたことがなかった。
そもそも、派閥には誰がいるのか。
さっぱり分からぬ。
ジェレフと、英明なる
そこまで考え、ギリスは自分の今までの周りへの興味のなさに自分で驚愕した。
「どうしよう?」
ギリスは目の前にいたカーリマーに尋ねた。
「えぇー!? 知りませんよ、俺は。この状態で
的確な分析だった。
「大丈夫だ、まだ時はある。お前らの
ギリスは苦々しい気持ちで
イェズラムは死んだが、ジェレフや、エル・ダーなんとかはまだ元気そうだ。
サリスの
まだ時を残してくれているはずだ。
それが力尽きる前に、自分たちが成長していればいいのだ。
「そんな先のことより、明日使う将棋盤をどうするかなんだけど」
ギリスは
だが
「明日なんですよね、将棋」
サリスファーがじっとりと暗い顔で尋ねてきた。
「そうだよ」
「なんで
サリスは真面目に聞いているようだったが、ギリスには答えがなかった。
「なんでかって?」
どこを見ていいか分からなくなり、ギリスは王宮の廊下を埋めている、絨毯の複雑な織柄を見つめた。
しかし、それを見て考えたところで、ギリスには自分でも自分がよく分からなかった。
「あのな……そういうことは早い方がいいんだ、サリス。族長は待ってる。将棋盤なんてどこからでも持って来られるだろ?」
「どこからですか」
サリスは不思議そうに尋ねてきた。
将棋を
案外、
そういうつもりでギリスは適当に考えていたのだ。
「
サリスの隣で黙っていた長身の
「俺の
「よし、お前がそれを借りてこい」
ギリスは満足して、長身の
こいつはジェルダインだ。確かそういう名だった。知識の
「
「どうして?」
ギリスは不思議に思って聞いた。それにジェルダインは困った顔をした。
「由緒ある将棋盤で、エル・ダージフの亡き
「ちょっと借りるだけだ」
皆が昼飯を食う間だけのことだ。おそらく。族長にはそれ以上の時間はない。
そう思ってギリスが答えると、
「では、俺にその
ジェルダインが視線で示す先を、ギリスも見下ろした。
自分の帯に下げた煙管入れに挿さっている銀の長煙管を。
イェズラムの遺品だ。
ギリスはジェルダインと向き合って、顔をしかめた。貸したくなかったからだ。
ため息をついて、ギリスは答えた。
「わかったよ。お前の
「そうしてください」
まだ新入りのくせに、ずいぶん見どころのある
こつらがもっとデカければ、
その日がいずれは来るのかもしれないが、それまでどうやって派閥の権勢を守るのか。
戦のない今の宮廷で、激戦区の突撃部隊だった
それを誰に相談したものか、
自分たちしかいない。
どうしたらいいのかと、自分はそれを、まずは
「エル・ダージフに会いたい」
ギリスは長身の
「お供します」
ジェルダインは
「え、詩作はどうするんだよジェルダイン。手伝ってくれるんじゃないのか」
それが余程のことなのか、唖然とする友に、ジェルダインが苦笑していた。
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