第八回 太史慈、死を目前に大望を語る

 三国志演義では、太史慈たいしじは江東で起きた戦乱である赤壁せきへきの戦いで活躍した姿が描かれる。

 また、魏呉の国境を争う合肥がっぴの戦いにおいては、張遼ちょうりょうと一騎打ちにて戦うが決着がつかず引き分けとなった。その晩、間者を用いて夜襲を画策するが、それを張遼によって逆手に取られて矢傷を負い、やがて絶命している。

 張遼は泣く子も黙るの語源となったほどの恐ろしい部将であり、合肥の戦いにおいて孫権そんけんの軍勢をさんざっぱら打ちのめす実力者である。


 しかし、これは史実ではない。

 太史慈は赤壁の戦いが起こる二年前に死去している。四十一歳であった。

 その死の間際にあって家族を集め、こう語ったという。


「男たるもの、この世に生まれてきたのならば、七尺の剣を帯びて皇帝への階段きざはしを登るべきだというのに、その志もままならぬうちに死んでしまうのか」


 彼の死後、中原ちゅうげんには三人の皇帝が生まれた。魏の曹丕そうひ曹操そうそうの子)、蜀の劉備りゅうび、それに呉の孫権である。

 太史慈はそんな三人の争いに自分も入れるはずだった、そう思っていたのだろうか。しかし、それはまだ数十年も先の話である。


 この当時、孫権の相談役ブレーンのうち、過激派の魯粛ろしゅくは孫権を皇帝にすると公言し、保守派の相談役ブレーンである張昭ちょうしょうから気狂いだとして煙たがられていた。この頃はまだ後漢時代であり、皇帝はあくまで漢の献帝であった。

 孫策そんさくの元の主筋に当たる袁術えんじゅつは皇帝を自称したために諸侯の反感を買い、瞬く間に滅亡している。


 そんな時代の趨勢すうせいの中で皇帝を目指すというのは、先鋭的であるともいえるが、与太ともいえた。

 そんな与太話を実現しようと生涯を賭けた男たちが時代を創っていく。呉においては魯粛や周瑜しゅうゆがそれに当たり、蜀では諸葛亮しょかつりょうがそれに当たる。


 太史慈もそうした先鋭のひとりであったが、残念なことに彼はひとりだった。

 太史慈は大胆で機転が利き、頭もいい。武術にも長け、弓を用いれば百発百中の腕前を誇る。カリスマ性に欠けたとは思えないが、しかし、大胆に過ぎたのかもしれない。あまりにも身軽で、ひとつの場所に留まることが少なかった。

 ブレーンとなる賢人との出会いがあれば歴史は変わったのだろうか。義兄弟と呼べる腹心がいれば時代は変わったのだろうか。


 それでも、彼の生き方には輝きがある。

 個人の力量を頼みに事体を打開していく行動力は印象的だ。一騎打ちの中で互いを認め、孫策との友情を芽生えさせるのは劇的だ。孫策に義理立てし、孫権に忠義を見せる姿には感動すら覚える。


 その華々しい戦果に対して、彼の立身は微々たるものだったかもしれない。

 しかし、自ら国を興して立ち向かった太史慈の姿は鮮烈である。自らの武名のみを頼りに孫策や曹操、袁紹えんしょう、劉備といった天下の英雄たちに喧嘩を売ったのである。

 そして、それを瞬く間のうちに撃ち倒した孫策の武名はどれほどに高まっただろうか。結局、孫策は太史慈を撃ち倒し、陣営に加えることで、その名声は最高のものとなるのである。

 だからこそ、功臣たちを差し置いて、太史慈が呉書で語らえるのであろう。


 乱世において自ら道を切り拓き、孤高の存在でありながらも、一つの国の成り立ちに強い影響を残した男の生き方を我々は覚えていてもいいのではないだろうか。

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太史慈伝 ニャルさま @nyar-sama

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