第七回 太史慈、混乱に敢えて沈黙する

 孫策そんさくの陣営に入った太史慈たいしじに任されたのは建昌けんしょう都尉であった。建昌は付近の六県を合併してつくられた新たな行政区分だ。この地域は荊州と隣接した地域であり、荊州を支配する劉表りゅうひょうがたびたび攻めてくる係争地であった。


 荊州はのちに曹操そうそうに支配権が移り、劉備りゅうびが切り取り、孫権そんけんが奪い返すという三国時代の火薬庫ともいうべき地域である。

 その荊州との国境を任されたということは、太史慈への期待の大きさがわかるだろう。孔融こうゆう劉繇りゅうようも太史慈の実力を信じることはなかったが、孫策は即座に見抜いていた。

 そして、事実、太史慈は劉表軍の侵攻を見事に食い止め、それ以降、国境を荒らすものは出現しなくなった。


 話は変わるが、三国志の中で弓の達人といえば誰だろうか。

 黄忠こうちゅう夏候淵かこうえんの名が挙がるかもしれない。ただ、彼らの逸話は講談や三国志演義で語られるものであり、正史においてそのような記述はない。


 黄忠の記録はあまりなく、彼が五虎将に入っているのは、たまたま手薄の夏候淵の軍勢に鉢会い、彼を討ち取るという大金星を上げたからであろう。夏候淵は曹操そうそうの右腕であり、巴蜀はしょく方面の司令官であった。夏侯淵を討ち取っただけの一発屋ともいえるが、あまりにも大きい一発であったのだ。

 正史には先陣を切って戦っていたという記述があるものの、同じ五虎将のキャラがあまりにも濃いため、それだけでは物足りない。老将軍というキャラ付けがされ、弓の名手としてのイメージが付けられた。


 夏侯淵にも弓のエピソードはない。講談や三国志演義は蜀の視点であり、黄忠も主人公サイドとなる。その黄忠の宿敵となるため、同じく弓の名手というキャラ付けが行われたのだろう。

 夏侯淵自身は「兵は神速を尊ぶ」の言葉通りに急襲、速攻を旨とし、機動戦を得意とする部将であった。


 それに対し、太史慈伝では弓のエピソードが幾度か存在する。

 太史慈が孫策とともに麻保まほの反乱者たちを討伐した時のことだ。賊の一人が塔の上に陣取って罵詈雑言を浴びせてきた。その賊がはりに手を掛けるのを見計らうと、太史慈は弓を引く。放たれた矢は賊の手を正確に貫き、そのまま棟に縫い付けてしまった。

 孫策の軍勢はその腕前の冴えに大いに湧き立った。彼らは揃って太史慈の弓の見事さを誉めたてる。


 太史慈の弓の妙技はそれほどのものだった。

 孔融を助けた北海の戦いでもその腕を如何なく発揮している。黄忠や夏候淵以上の弓矢の使い手として名を馳せるべきだと思うがどうか。


 そして、また転機が訪れる。太史慈と一騎打ちで命の奪い合いを演じながらも、太史慈を信じ、太史慈に大事を任せた盟友、孫策が凶刃にたおれたのである。

 孫策は後継者として孫権を指名した。孫策はまだ若く、その子もまた幼い。ならば、次男である孫権に後事を託すというのは妥当であっただろう。だが、孫策は予言めいた言葉を残している。

「天下に覇を求めるのは俺が向いているが、人々を束ね国を治めるのはお前(孫権)が向いている」


 江東がまとまっていたのは孫策のカリスマありきのものであり、この政権交代劇には反乱が相次いだ。

 孫策に比べ、孫権は覇気が薄く、戦えば負け、性格もわがままで未熟と、いいところがあるように思えない。だが、周瑜しゅうゆ張昭ちょうしょうといった能臣が孫策の遺言通りに孫権政権を盛り立て、反乱軍を鎮圧していく。


 太史慈は新たな君主のことをどう思っていたのだろうか。

 太史慈の元には曹操から手紙が来ていた。箱に封がしているだけで、書状などは何もない。箱の中には当帰とうきという薬草だけが入っている。これは、帰るしという謎かけであり、曹操流の太史慈へのラブコールであった。

 だが、太史慈はこれを無視した。孫権へ向けた反乱には呼応せず、孫策から与えられた国境周辺の警備という任務に力を傾けていた。

 太史慈は孫権を主君として認めていたのだろうか。

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