ショパンのピアノ協奏曲
増田朋美
ショパンのピアノ協奏曲
今日はまた寒い日であった。これが繰り返すのが冬というものだけれど、冬は冬らしく寒いと同時に、人恋しさというものも湧いてしまうのであった。
その日、今年最後のピアノサークルが、マーシーのピアノ教室で行われた。今日の参加者は、男性が二人に女性が一人。合計で四人だ。サークルとしては小規模なものであるが、マーシーの自宅で行うには、ちょうど良い人数でもあった。
「じゃあ、演奏を一人ひとりはじめていきましょうか。トップバッターは、風間さん、おねがいします。」
マーシーがそういうと、女性はハイわかりましたといってピアノの前に座った。それと同時に、ピンポーンと玄関のインターフォンが音を立ててなり、強引に玄関ドアが開いて誰かが来たことがわかった。風間さんが今頃誰でしょう?というと、マーシーは、ちょっと見てきますといって、玄関先へ行った。マーシーがいくと、玄関先には、広上麟太郎がいた。
「よう!マーシーこと、高野正志さんだね。ちょっとサークルを見学させて貰えないかな?」
麟太郎の顔から酒の匂いがした。マーシーにしてみれば、なんでこんなに高名な音楽家の麟太郎が、アマチュアのピアノサークルにやってきたのかよくわからなかった。
「い、いやあね。お前の家の前を通ったら、ピアノの音がしてきたので、聞かせてもらおうとおもったんだ。別に今日は用事もない。ちょっと聞かせてくれ。」
マーシーは、困った顔をしたが、逆に断るのもなにか報復でもされたら困ると思い、取り敢えず麟太郎を中に入れた。そして、麟太郎をサークルが行われているレッスン室へ通す。
「あら、広上先生じゃないですか。こんなところへよく来られましたね。あたしたちは、対してうまい演奏が、できるわけでもないですけど、取り敢えず聞いて行ってください。」
風間さんがそういったため、麟太郎は、おう、聞かせてもらう、といい、ドスンと椅子に座った。他の参加者は、麟太郎がやってきて、余計に緊張してしまったようだ。
「じゃあ、広上先生がいらしているから、簡単に自己紹介して、演奏してください。」
と、マーシーがいうと、一番初めにピアノの前に座った女性は、
「風間と申します。ピアノを弾き始めて、20年です。と言っても、子育てとかそういうもので、ちょっとやらない時期もあったんですが、それでもピアノが好きでよくやっています。下手な演奏だけど、聞いてください。それでは、演奏させていただきます。曲は、ショパンの幻想即興曲です。」
と言って、幻想即興曲を弾き始めた。まあ、アマチュアの人が弾きたがる、有名な曲である。風間さんの演奏は、確かに音のバランスもいいが、もう少し、緊張しすぎないで、演奏できたら、もっと様子が変わると思った。
「続きまして、藤井さん、お願いします。」
マーシーにいわれて、二番目の男性が立ち上がった。彼は、40代くらいの、中年の男性だった。
「藤井と申します。えーと、ピアノは、子供のときに習っていましたが、先生の相性が悪くてやめて、それからまた、おとなになってからはじめました。本当にうまくないんですけど、なんとか演奏できるまでには、なりましたので、今日は演奏させていただきます。曲は、ドビュッシーの月の光を弾きます。」
と言って、彼は、月の光を弾き始めた。もう少し、指の訓練をして、しっかり動けばより良い演奏になると思う。そういう人も、結構いる。それでも、そうやってピアノを通して、演奏を楽しめることができれば、それで良いのかなと思われる演奏だった。まあ、こんなもんでしょと、麟太郎が思っていると、
「続きまして、高橋さんお願いします。」
と、マーシーが、いうと、一人の男性が立ち上がった。もう、70歳くらいの、男性であった。
「た、たか、は、しと、申し、ます。」
こういう口調で喋るのだから、おそらく吃音者だ。麟太郎は、そういう人に偏見があるわけではないけれど、ちょっとそういう人がピアノを弾くのは、何かちょっと嫌な気持ちになってしまう。そういう人は、障害があるからと言って、同情票が必ず付くので、それが、ちょっと不公平というか、そんな気持ちになってしまうのである。
「きょ、曲は、ご、ど、ふ、スキーの、ぱっぱっさかり、あ。」
何を言っているのかよくわからないので、麟太郎は、はあ、とため息を着いた。そんな演奏する曲名もちゃんと言えないのであれば、どうせ大した曲は弾けないぞと、麟太郎は思った。のであるが。
高橋さんは、ピアノの前に座った。そして、演奏を開始した。弾き始めると、音もしっかりしているし、ミスタッチなどもまったくない。強弱もちゃんとついているし、激しいパッセージも、しっかり掴めている。こんな演奏ができえるのであれば、多分、音大の先生とか、そういう人に師事したことがあるひとかと思われるが、それでも障害者を受け入れてくれる音大の先生は非常に少ないので、麟太郎は、誰に習ったのか、聞いてみたくなるほどだ。曲は、変な言い方だったので、聞き取れなかったが、ゴドフスキーのパッサカリアだとわかる。世界一難しいピアノ曲を書いた作曲家でもあり、非常に難しい演奏に入るが、高橋さんはそれを、ちゃんと弾きこなしていた。
演奏が終わると、麟太郎は、立って拍手をした。他のメンバーさんもそれはわかっているようで、精一杯の拍手を送った。
「素晴らしい素晴らしい!ゴドフスキーのパッサカリア。よくできているぞ。こんな難しい曲を、弾くことができるなんて、相当な腕前だね。どこか音大の先生にでも習ったんですか?」
麟太郎が聞くと、
「い、い、い、いえ。お、お、音大の、せせせんせいには、習って、な、い、です。」
と、高橋さんは答えた。麟太郎が、通訳してくれと頼むと、マーシーが、
「行っていないそうです。」
と、だけ答えた。
「そうですか。独習でゴドフスキーが弾けるというのは、普通ありえない話なんですが、でも弾けるんだから、すごいですね。きっとあなたは、人前で弾いても、違和感ないと思いますよ。」
麟太郎は、そう言いながら、何か思いついた。麟太郎のようなものが何か思いつくと、必ず何かトラブルが、起こるものであるのだが。
「よし、ここであなたの才能を、放置しておくわけには行きません。あなたには、うちのオーケストラと一緒に、定期演奏会に出ていただきましょう。曲は、ショパンのピアノ協奏曲一番でいかがですか。それとも、二番のほうが良いかな?うちのオーケストラはどちらでもいいですよ。それは、あなたが決めてください。」
「い、い、い、い、え。僕、が、ピアノ、きょ、うそうきょくなんて。」
という高橋さんは、困った顔でそういう事を言うのであるが、
「いや、ここまで演奏ができるのなら、披露しなければもったいない。いくら吃音者であると言っても、才能があるんだから大丈夫。ぜひ、うちのオーケストラと一緒にやっていただきましょう。」
「すごいじゃないですか。高橋さん。それでは、素晴らしいですよ。ぜひ、広上先生と一緒にやってくださいよ。私、喜んで舞台見に行きますから。ぜひ出てください。」
調子に乗りやすいタイプの風間さんが、そういう事を言った。
「そうですねえ。確かに、高橋さんは、不自由なところはありますけれど、でも、ちゃんと弾けますからね。僕達も、追いつきませんよ。せっかく広上先生がやろうとしてくださってるんですから、それなら、ぜひやってもらいたいものです。」
藤井さんもそういう事を言っている。それなら、このサークルのメンバーさんは、みんな自分と同意見なのだと麟太郎は思った。
「よし、そういうことなら、明日、市民文化センターで、オーケストラと練習があります。そのときに、来てくれますか。明日、一時から、市民文化センター、リハーサル室に来てください。」
「ちょっとまってください、広上先生。」
麟太郎がそういうとマーシーが口を挟んだ。
「先生は、そうやって、色んな人を、ソリストとして出しているようですが、本当にそれが彼にとって、ためになることなんでしょうか。本当に、彼が、人前で演奏して、幸せになれると言い切れますか?先生、それは、どうなんでしょうかと僕は思いますけどね。」
「いや、そんなことはありません。障害があるからこそ、すごいことができるという例はたくさんあります。最近では、七本指のピアニストという人もいますから、障害があるということは、あまり、気にしないでも、良いんじゃないかな。俺はそう思います。」
麟太郎はマーシーの質問にそう答えた。そして、明日の一時に、市民文化センターに来てください、と高橋さんに言った。
「は、は、はい。わかりました。」
と、高橋さんはいうが、マーシーは心配そうな様子だ。
「なんでも強引に持っていってしまうのが、広上先生のやり方なんですね。」
それだけマーシーは言った。その日は、麟太郎は上機嫌で帰っていった。その後で、高橋さんがどうなるかなんて、気にもとめなかった。
そして、その次の日。麟太郎は、市民文化センターのリハーサル室に行くと、リハーサル室のドアの前で、高橋さんが待っていた。
「ああ、もうどんどん入ってくれていいですよ。みんな、スタンバイしていますから。」
と、麟太郎は、高橋さんと一緒にリハーサル室へ入った。みんな楽器を組立てたり、音を合わせたりしていた。麟太郎と一緒に入ってきた高橋さんを見て、メンバーさんたちは、何か馬鹿にしたような感じで見た。
「それでは、今回ソリストとして、やってくれる人を連れてきたので紹介します。高橋さん。ゴドフスキーのパッサカリアまで弾きこなせる、すごい人だ。今回の演奏会では、ショパンのピアノ協奏曲をやってもらう。一番二番かは彼に任せますが、皆さんも彼をソリストとして、お迎えできますね。」
麟太郎がそう言うが、隣に居るのは、なんだかいかにも田舎者と感じられる人物であった。
「では、高橋さん。自己紹介をしてください。」
麟太郎がそう言うと、
「た、高橋、よ、しろうです。も、り、よし、ろうさんと同じ名前です。よ、ろしく、お願いします。」
と、彼は言った。オーケストラのメンバーさんは、彼をバカにしたように見た。
「はあ、吃音者か。自分の名前も言えないようでは、それは無理だねえ。これから、協奏曲やっていくには、ちゃんと喋れないと無理だからねえ。」
と、彼の話を、聞いた、バイオリニストが、そういった。それと同時に、ちょっとヒステリックになりがちな、フルート奏者が、
「まあ、吃音者なんて、どうせろくなもんじゃ無いわよ。どうせ、あたしたちの苦労も知らないんでしょ。吃音者だから、同情票をもらって、それで生きているようなもんでしょ。」
と、彼に言った。
「それに、ゴドフスキーの曲を弾けるからって、あたしたちと一緒にできるわけでも無いと思うしね。」
隣の女性クラリネット奏者もそういう事を言った。女性というのは変なところでプライドを持つことがある。それはなぜか知らないけれど、そうなってしまうらしい。音楽をやっている人というのは、アマチュアでもプロでも腰の低い人はあまりいない。みんな、そういうことができるからと言って、鼻が高くなりがちであり、障害者をバカにする人は非常に多いのだ。
「まあ、いずれにしても、広上先生、もっと健康なソリストを連れてきてくださいよ。」
と、先程のバイオリニストが言った。
「そうか、だったらね。彼の演奏を聞いていただきましょうか。それなら、俺の言っていることがわかると思うんですが。」
麟太郎は、高橋さんをピアノの前へ座らせて、ショパンのピアノ協奏曲第一番の譜面を渡した。高橋さんは、わかりましたと言って、その第1楽章のソロ部分を弾き始めた。確かに、初見でこの協奏曲を弾きこなすものは、そうはいないが高橋さんは、ゆっくりしたテンポではあるけれど、しっかり弾きこなしている。
オーケストラのメンバーさんたちは、これを見て、素直に喜んでいるものも一人か二人いたが、バカにしているような人が大半だった。いや、もしかしたら。バカにしているのではなく、妬んでいるというか、そういう事を考えている人ばかりかもしれない。
「何よ!全然大したこと無いじゃない。うまくもないし、ただ弾いているだけよ。」
「全然、うまくないわよ。テンポだって、少し遅いし、音楽性がまるで無いわ。」
女性奏者たちはそういう事を言った。高橋さんが第1楽章を弾き終えると、みんなぼそっと拍手を送った。それは、絶対高橋さんを称賛しているような拍手ではなかった。高橋さんが、ありがとうございますと頭を下げても、誰も何もいわなかった。
「じゃあ、次は第2楽章をやってみて、」
と麟太郎が言うと、
「先生、いつもの練習に入りましょう。先生、今日の練習は、新世界でしたよね。」
と、女性のフルート奏者がそういったため、麟太郎は、それをしなければならなかった。高橋さんは、結局、オーケストラの練習が終わるまで、ピアノの前にずっと座っていた。そして、時間になって、皆それぞれ楽器を片付けておかえりする時間になっても、誰も高橋さんには声をかけなかったし、よろしくおねがいしますなと挨拶もしなかった。誰一人、彼の方には、見向きもしなかったのだ。
「せ、せ、せ、せんせい、今日、は、あ、あ、ありがとう、ご、ございました。」
という高橋さんに、麟太郎は、
「今日はごめんな。」
と、一言だけ言った。
「い、え、良いんです。ぼ、ぼ、ぼくみた、い、な人は、こう、さ、れ、て当たり前です。」
と、高橋さんはにこやかに言ったが、麟太郎は悔しくて仕方なかった。いくらアマチュアのバンドであっても、なんでクラシック音楽をやる人は、こういうふうにお高く止まってしまうのだろう。それが麟太郎にとっては不思議で仕方ないのであるが、どうしても、そうなってしまうらしい。
そういう事があったとはつゆ知らず、水穂さんは今日も、杉ちゃんにご飯を食べろといわれながら、また嫌がる生活を繰り返していた。杉ちゃんが、いい加減に食べてくれというと、いきなりインターフォンの無い玄関がガラッと開いた。
「おーい水穂!ちょっとさ、こいつに、教えてやってくれ。もっとすごい演奏ができるように。曲はショパンのピアノ協奏曲第一番だ。よろしく頼むよ。」
と、麟太郎が四畳半に入ってきた。それと同時に、小さくなった高橋さんも一緒にやってくる。
「こいつは、高橋喜朗さん。ちょっと吃音のある人だが、すごくうまくピアノを弾くんだ。それがオーケストラのメンバーに伝わらなくて困ってる。だから、伝わるように、お前がレッスンしてやってくれ。」
水穂さんは、よろよろと布団の上に起きた。そして、高橋さんに向かって丁寧に座礼して、
「はい、お願いします。」
とだけ言って、ピアノの前に座るように言った。高橋さんは、はいと言って、そこへ座った。
「一度、第1楽章を弾いてみてくださいますか?」
と水穂さんが言うと、彼は、第1楽章を弾いた。確かに、うまくできている。素人が、弾いたとは思えない。
「どうだ、水穂。うまいだろ。こいつの実力は並大抵のもんじゃないだろ。お前も褒めてやってくれよ。」
麟太郎にいわれて、水穂さんは、
「そうですね。後は、ペダリングをよく注意してしてみると、良いと思います。ダンパーペダルは、単に音を強くするだけではありません。」
と答えた。
「あ、あ、あ、ありがとうございます。」
高橋さんは、申し訳無さそうに言った。
「じゃあ、水穂。第2楽章を見てやってくれよ。」
麟太郎がそう言って、レッスンを進めようとするが、水穂さんは、咳き込んでしまって、それどころではなかった。杉ちゃんが、
「なにも食べないから、そういうことになるんだ!せっかくレッスンに来てくれているのに、申し訳ないじゃないか!」
と、いうほど水穂さんの咳き込み方はひどかった。それと同時に、内容物が溢れてしまったため、杉ちゃんが急いで口もとを、拭き取ったくらいだ。
「もう疲れちゃった?」
と、杉ちゃんが聞くと、水穂さんは、静かにうなずいた。すると、高橋さんが、ピアノから立ち上がり、水穂さんの口もとを丁寧にちり紙で拭いて、枕元にあった水のみを、口元へ持っていって、中身を飲ませた。薬がうまく聞いてくれて、水穂さんはすぐに静かになった。それでレッスンを続けてくれるかと思ったが、もう体力が残っていないらしく、布団に倒れるように眠ってしまった。
「やれれ、すみませんね。水穂さんも、お前さんがもっとレッスンを受けたいとしつこく来てくれれば、もうちょっと前向きになってくれると思います。水穂さんも、お前さんが来てくれることで変わるきっかけができて、嬉しいと思うよ。」
杉ちゃんが、カラカラと笑っていった。
「だから、お前さんも、しつこいくらい、こっちへ来てくれて良いんだぜ。」
「そうだ。水穂だって、これで変わろうと思ってくれるはずだ。それで、高橋さんが、ショパンのピアノ協奏曲を弾きこなしてくれれば、水穂だって変わるし、オケの奴らも変わってくれて、一石二鳥だよ。ああ、嬉しいな。俺は、やっといい人材ができてくれて、今日はいい日だな。」
麟太郎は、無理をしながらでも、にこやかに笑っていった。
「ええ、え、ええ、あり、がとう、ございま、す。れっす、んを先生、にして、い、い、ただけるなんて、とても、う、嬉しいです。」
と、高橋さんは言った。
「れ、れっ、レッスンを受けるだけで、本当に、それだ、け、で、じゅ、じゅ、うぶんです。」
「そんな事無い!高橋さんは、これからも、一生懸命やっていくんだよ。それで、大役をこれからやっていくんだ。それに障害のある無しも、関係ないさ。」
麟太郎は、そういう事を言うが、
「どうして、ピアノを続けようと思ったの?あれほどうまくなるには、相当な努力と根性がいると思うけど?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「たん、たんに、音楽が好きだったから。」
と、高橋さんは答えた。
ショパンのピアノ協奏曲 増田朋美 @masubuchi4996
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