尾八原ジュージ

 繭は休眠状態にありながら、なお蠢き続けていた。膨張と収縮を緩やかに続けるそれは、眠っている子供のお腹が上下するのに似ている。ふとそんな考えが頭に浮かび、篠田朝子は慌てて首を振った。

 巨大な繭は怪獣の蛹である。あまりに大きいため、近距離からは一度に視界に収めることができない。全貌を眺めるためには、敷地内を巡回しているシャトルバスに乗った方がいい。繭の観測施設、通称「展望台」の通路は、この巨大ないきものをぐるりととり巻くような形になっていた。

 朝子は通路の途中にあるベンチに腰掛けて、白と桃色をまぜこぜにした繭の表面の模様がじわじわと変化する様を、彼女の息子の背中と共に眺めていた。息子の孝太は一般人立ち入り可能ゾーンのぎりぎりで柵を掴み、繭をじっと見つめている。

 来年から小学校に入学する孝太は、姉弟だけあって麻美に顔が似てきた。矢島原市西小柏区の約七割が繭に包まれたあの日、麻美は七歳、孝太はまだ一歳だった。

 あれから五年、繭は緩やかに蠢きながらも、未だ割れる気配はない。無論、割れることがないように日本政府が全力を注ぎ、薬品投与や温度調整など、あらゆる手段によって怪獣が眠りから醒めないようにしているのだ。もしも繭の中身が目覚める日がくれば、そのときは未曾有の怪獣災害がこの市のみならず関東全域を襲うだろう。事実、この繭を作った巨大な芋虫が練り歩いただけで、一帯には甚大な被害が及んだのだから。

 怪獣が歩行を止め、ここで糸を吐き出し始めたとき、西小柏区にはおよそ三万人がいたと推測されている。怪獣が突然進路を変えたこと、そしてその歩みが思いがけず速かったことから、住民の避難が遅れたのだという。繭の外に脱出できたのはそのうちの約半数、残りの人々は現時点では行方不明ということになっている。

 当時、朝子たちの自宅は西小柏区内にあった。家にいた麻美と、その父親であり朝子の夫の祥吾もまた、行方不明者のうちに数えられている。通院のために区外に出ていた朝子と孝太だけが、災禍を免れることができた。

 土曜日の朝の十時前だというのに、繭を見にくる人は多い。だが、辺りは静かだった。不特定多数の人々がやってくる場とは思えないほど、繭の周囲には沈黙が満ちていた。朝子にはその理由がよくわかる。ここは喋ったり嘆いたり怒ったりすべき場所ではないということが、この場にいるものには本能的にわかるのだ。もう幾度となく訪れたこの場所で、ゆっくりと動き続ける繭を見ながら、未だに彼女は言葉を失う。

 突然千切り取られた日常をここに探しにきているのか、それとも諦めるために来ているのか。自分の気持ちがどこを向いているのか、五年の歳月を経ても朝子にはわからない。時折夢に出てくる麻美は小学二年生の姿のままだし、祥吾も一切歳をとっていない。夢の中では孝太だけが成長している。自分の姿は見たことがない。繭の中に取り込まれてしまった家の懐かしいリビングで、朝子は家族全員と笑いあい、そして泣きながら目を覚ます。

 繭の中に取り込まれた人々の死亡認定については未だに議論があるが、現行の法律に従うとすれば、ふたりの戸籍上の死まではあと二年ある。たとえ明日ふたりが死んだことになっても、朝子は空っぽの墓を用意できる気がしない。きっと何度でもこの場所に足を運ぶだろう。

 孝太の隣では、首から望遠レンズのついたカメラを提げ、バインダーを持った若い男性が、真剣な表情で何か書き物をしている。どこかの大学の学生だろうか。そういえば矢島原市には、怪獣研究で有名な大学があったはずだ。

 彼らのうちの誰かがいずれ、怪獣に対抗する強力な武器を作り出すかもしれない。もしくはこの繭の内部がどうなっているのか、怪獣を起こすことなく探る方法を発明するかもしれない。

 いつの間にか祈るような気持ちでその姿を見つめていることに、朝子は気づく。組み合わせた手には汗が滲んでいた。


 八木沢肇は右手にボールペン、左手にバインダーを持ったまま、肩を三回ゆっくりと回した。ずっとカメラを首にかけているせいで、ここ数か月肩こりに悩まされていた。バインダーには彼自身の几帳面な文字が書き込まれている。

 繭の様子に相変わらず目に映る変化はなく、この中で何が起こっているのかも無数の糸に阻まれて見ることができない。花が咲いては閉じるように白と桃色の斑模様が蠢き、また繭自体もまるで呼吸するかのような動きを、静かに、そして着実に繰り返していた。

 肇の隣には小さな男の子が立っている。手すりに顎を載せ、繭をじっと見つめている。この中にいる誰かの家族なのだろうか、と彼は考えた。親か兄弟か、近しいひとを失ったのだろうか。

 ふいに肇の脳裏に(気持ち悪い)という言葉が響いた。ここ数日、何度も何度も頭の中で繰り返された言葉だった。

「気持ち悪い。八木沢、よっぽど楽しいんでしょうね。あんな顔で繭を見てられるの、この中じゃ八木沢くらいだよ」

 どうして彼女はあんなことを言うに至ったのだろう、とやるせない思いがこみ上げてくる。

 五年前に巨大な芋虫がこの一円を蹂躙したとき、肇はまだ高校生で、九州地方で暮らしていた。家族、友人、親戚縁者に至るまで、関東にはまるで縁がなかった。怪獣が猛威を振るう様もテレビやインターネットを通して見たことしかない。

 画面の向こうで暴れる未知のいきものは、肇を魅了した。それはあまりに純粋な「力」そのものに見え、怖ろしさと共に一種異様な魅力を孕んでいた。彼はテレビ番組をいちいち録画し、ネットの海を怪獣の情報を求めてさまよい、関連書籍と思しきものがあれば片っ端から読み込んだ。専門の研究機関がある大学に入学し、怪獣研究を専攻し、大学院に進んだ。

 自分は怪獣が「好き」なのだ、と肇は自覚している。ことこの繭を観察しているとき、このいきものについて話しているときには、いっそ楽しいとすら思っている。怪獣について語る自分の顔は、おそらく普段より明るいだろうということも。

 同じ研究室で同期の井川雅美は、普段から人当りがよく、聡明な女性だ。あの繭が作られた日、彼女は自分を除いた家族全員を失ったという。でもその影を感じることは、日頃まったくと言っていいほどなかった。その彼女の口から、突然堰を切ったように「気持ち悪い」という言葉が飛び出すまでには、どんな葛藤があったのだろう。

「八木沢、あれがそんなに好きなの? 私の目の前で私の家族を滅茶苦茶にしたものがどうしてそんなに好きなの? あんた、結局何も失ってないからそんな顔ができるんだよ。私がどんな思いしたかなんて一生わからないくせに。気持ち悪い。もうあんたの顔なんか見たくない!」

 その叫びは最早悲鳴と言ってよかった。井川雅美の顔は普段とまるで別人のように見えた。他の学生が慌てて肇から彼女を引きはなし、宥めながらどこかに連れて行った。それ以来、彼は彼女の顔を見ていない。

 肇に研究室を離れるつもりはない。怪獣への興味も失っていない。ただこれまでになかった、後ろめたい思いが渦巻いている。

 一時期問題になった一部の人々のように、肇はこの繭の前でおどけたり、ふざけた格好で写真を撮ったりはしない。むしろ、そのような行動には嫌悪感を覚える方だ。自分は何も被害を受けていなくても、あの災害によって失ったものがなくても、多くの人が亡くなった災害を茶化すような真似は行ってはならない。そう思っていたし、そのように行動していたつもりだった。

 それでも彼は、井川雅美のように深く傷ついたひとを再び傷つけてしまうことがあるのだと、身をもって知った。

 井川雅美の件以降、担当教授は肇に、研究を辞めないよう何度も言い含めた。いつか同じ災害が起きたとき、少しでも被害を小さく食い止められるよう尽力しなさい。そのために君たちのような若者の力が必要だから、と。

 肇はうなずいた。そして今日も観測に訪れている。


 篠田孝太は繭を眺めるのが好きだった。もっとも彼の母親にはっきりそう告げたことはなかった。それでも何がしかの気持ちは伝わっているのだろうと、幼心にそう思っていた。

 孝太の母の朝子は、父と姉が繭の中に取り込まれたことを、孝太にすでに伝えていた。母に言われずとも、いつかは彼の耳に入っていたことだろう。多くの大人が彼の境遇を可哀想だと評したが、孝太自身はピンときていなかった。

 父と姉がいなくなったとき、彼はまだ一歳だった。ふたりの記憶はまったくないと言っていい。写真を見せられても、よその家には父親や兄弟というものがいるのだということを知っても、やはり自分のことを可哀想だと思ったことはなかった。なんと言っても母がいるし、父母双方の祖父母も孝太をかわいがってくれる。

 孝太が父親と姉の喪失を実感することは難しい。彼なりに、もっと大きくなったらお父さんやお姉さんのいない辛さがわかるのだろうか、と考えることはあるが、今はまだよくわからない。

 孝太は一度、お母さんがいればいいよという旨の言葉を、母に伝えたことがあった。そのとき、彼は初めて母が泣くところを見た。それは彼にとっては大事件だった。なぜお母さんは泣いたのだろう。自分の言葉のどんな部分がお母さんを泣かせてしまったのだろう。原因がわからないまま、その事件は日常に埋もれていった。

 母は、そんなことはもう忘れてしまったかのように振舞っている。孝太もあえて尋ねようとはしない。もう一度母を泣かせたくはないからだ。

 それでも保育園から家に帰る道すがら、暗くなりかけた道を手をつないで帰るときなど、孝太は指先から言葉にならない気持ちが届けばいいのにと願うことがある。お母さんとふたりきりの家族でも幸せだよと、口には出さないけれど伝わってほしいと思う。

 目の前で緩やかに動く繭の恐ろしさを、まだ孝太は理解していない。巨大な繭は、ただ不思議さと、彼を惹きつける謎めいた魅力とに満ちている。

 その絡み合った糸の彼方に、孝太は写真でしか見た記憶のない父と姉の姿を探すことがある。その試みが成功したことはまだない。

 孝太は手すりを離れ、ベンチに座っている母のところに駆けていった。そのとき彼の視界の隅に、若い女性の姿がちらりと映った。


 井川雅美は「展望台」が好きではない。巨大な繭を守るようにぐるぐると取り巻く通路、ここにやってくるのはただ彼女の研究のためで、それ以外には何もなかった。

 太平洋から突然現れた巨大な芋虫が関東に上陸した日のことを、彼女はまだ覚えている。忘れられるわけがない。

 その日は土曜日だった。雅美は当時所属していたバレー部の大会のために、通っていたのとは別の、矢島原市にある高校を訪れていた。彼女の両親と妹もまた、観戦のために同じ場所にいた。

 試合が終わり、解散間近となった頃にニュース速報が入った。突然の知らせに皆がパニックに陥った。そのとき、小さな、しかし知覚できる程度の震動が足の裏を揺らした。なにか巨大なものが近づいてきている、ということを、彼女は本能的に悟った。

 雅美が体育館を出ると、遠くに何か白くて、とても大きなものが見えた。ドーム型球場に似ていると思ったが、この街にそんなものはない。第一、その白いものは動いていた。怪獣だ、と思った。

 家族と落ち合って逃げなければ。スマートフォンを取り出したが、電波が届かなくなっていた。観客席はすでにあらかた空になっていたはずだ。家族はきっと駐車場で自分を待っているだろう。

 雅美は駐車場に走った。思ったとおり、家族は皆そこにいた。はぐれるとまずいと考え、固まって行動していたのだろう。ひとりだけ車外に出ていた一歳下の妹が雅美を見つけ、まーちゃん! と叫んで大きく手を振った。雅美は手を振り返し、なおも走った。

 その時、強烈な衝撃が辺りを襲った。震動、耳をつんざくような音、立ち込める土煙。気が付くと雅美は、地面に伏せるように倒れていた。

 そして目の前、ほんの十メートルほど先に、大きな四角いものがそびえ立っていた。そのように彼女には見えた。それには窓があって、手すりがついていた。手すりの隙間から人間の手がぶら下がっていた。

 近くのマンションが怪獣の尻尾にへし折られ、巨大なコンクリートブロックとなって飛んできたのだと後でわかった。家族の姿は瓦礫の下に消えていた。

 あれ以来、雅美は高層マンションが苦手だ。広い駐車場が苦手だ。バレーボールもやめてしまった。否応なしに続く日々の中で、彼女はたびたび家族の中でひとりだけ生き残った意味を考えた。意味などあろうはずがなかった。ただの偶然だ。偶然が生死を分けたのだ。そう思うと、雅美は叫び出したいような衝動に駆られた。

 芋虫はやがて巨大な繭を作り、そこで眠り始めた。周辺地域の地価が暴落し、国外へ移住するひとも一時的に増えたが、それらの動きはすぐに収まった。怪獣がいつ、どこに出現するかは誰にも予想することができない。別の国に逃げたとして、そこにまた怪獣が現れたら意味がない。

 やがて大学に合格した雅美は矢島原市に引っ越し、そこで暮らし始めた。あえてその地を選んだのは、市内の大学が怪獣研究の先駆けとして知られていたからだった。

 怪獣研究を専攻したのは、彼女の葛藤の結果だ。研究者の中には、かつて怪獣によって故郷や大切なひとを失ったという者が少なくない。雅美は、家族のいなくなった心の穴を怒りと悲しみとで埋めていた。それらが彼女を突き動かしていた。怪獣は斃されなくてはならない。そしてそれが成し遂げられる日を、まったく関係のないところでただ待っていることなどできない。

 繭のあるその街にもやはり、当たり前の日常があった。しかし、ひとびとは常に繭の気配を感じていた。ここだけではない。怪獣という存在を、突然現れてすべてを無に帰す人外の理を、全人類は受け入れて生きていくしかない。だからこそこの日常を大事にしたいと雅美は思った。彼女は努めて人当りよく、親切に、にこやかに振舞った。

 研究室で唯一彼女よりも熱心だったのは、八木沢肇だけだった。怪獣出現以降、世界中がやんわりと衰退していた。いつ壊されるかわからない文明を維持しようとする意志が弱まりつつあった。その中で、肇だけが溌剌として見えた。

 最初、雅美は彼もまた大切なものを怪獣によって失ったのだろうと思った。ところが交流を深めるにつれてそうではないということがわかったとき、彼女の心は揺れた。肇の熱心さには動機がなかった。少なくとも彼女が納得できるほどのものはなかった。

 あるとき、研究室の飲み会でひどく酔った雅美は、そのときの勢いで肇に絡んだ。怪獣が来たらどうせみんなぺちゃんこになっちゃうのに、どうしてそんなに頑張るの?

 肇は、あの繭のことをもっと知りたいのだと答えた。「うまく言えないけど、もっと色々知りたいんだ」と。その横顔には恋に近い感情が宿っていた。やめてほしかった。自分から家族を奪ったものに、そんな眼差しを向けないでほしかった。

「気持ち悪い」と吐き出した言葉は、すぐに彼女自身を傷つけた。肇は悪くないなんて、そんなことはとっくにわかっている。謝らなければならないと思いながら、寮の部屋から出るのに何日もかかった。人に会うのが怖かった。今まで堪えていた感情が噴出してしまうことが怖ろしい。ずっと押し殺していた負の感情は、一度堰を切って噴出してしまうと、その後は何度でも容易く他人を攻撃してしまうような気がした。

 それでも雅美は今、こうして八木沢肇を探している。寮の部屋を出て「展望台」中を駆け回り、息を切らしている。彼女がここに来たのは、怪獣のことを思い出したからだった。もしもこの繭が壊れて中から成虫が出てきたら。もしくはまたどこかから新たな怪獣が現れたとしたら。

 私達はあまりに簡単に、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。

 いくつかの定点観測ポイントを回った。家族以外の誰かに、こんなに会いたいと思ったのはひさしぶりだ。やがて雅美は、遠くに見知った人影を見つけた。

 雅美は手を振った。手を振りながら駆け寄った。肇は驚いたように彼女を見ていたが、すぐに手を振り返してきた。


 朝子は孝太の手を引いて展望台を後にした。孝太は彼女の指に、まだ小さく細い指をしっかりと絡めてきた。

 去り際に一度振り返る。繭はやはり静かに、そして確かに蠢いていた。

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尾八原ジュージ @zi-yon

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