「時間停止? そんなのあり得ないでしょ」というSF好きの文学少女と、「ある派」の俺で口論になった

及川盛男

本編

「時間停止? そんなのあり得ないでしょ」


 俺の「時間停止能力って実在しうると思うか」という端的な問いに、江末えすえフウカはメガネを光らせながら答えた。こうも唾棄するように言われてしまうと、俺もちょっとムッとする。


「いやいや、でもよく言うだろ。創作の時間停止モノの9割は偽物だって。ってことは、残りの1割は本物ってことじゃないか」 


「……さよなら」


「ちょ、待て待て待て」


 すたすたと先に行こうとする彼女に追いすがる俺。


「突然下ネタを言うような人は相手にできません」


「ほんとゴメンって、同じ図書委員の仲じゃないか。そんなに邪険にせんといてよ」


「居るよね、おちゃらけてはぐらかそうとして方言混ぜる人。誠実みに欠けるから止めたほうがいいよ」


「……肝に銘じます」


 想像の5倍は鋭い切れ味で忠告され、思わず喉がヒュウと鳴る。 


「それに図書委員の仲って、時定ときさだくんは別に好きで居るわけじゃないでしょ。本だって、もともとはそんな好きじゃないだろうし」


 ジトッとした目で見てくる江末。困った、とことん信用がないらしい。

 まあ実際、放課後の時間を拘束される図書委員になってしまったのは貧乏くじだと思ってたし、初めの頃は本の並び順とか貸し出しカードの字の書き方とかで色々細かい江末に文句言いまくってたりしたけど。


「最近はそんなこと無いさ。別に好きだぜ、ドラえもんとか、ジョジョとか、X-MENとか……」


「マンガじゃん……って言いたいけど、そこまで幅広いとあまり馬鹿にできない。……というか、全部時間停止っぽい要素が絡んでるじゃない」


「お、さすが。ハードな文学だけじゃなく、サブカルまで幅広くカバーしておられる」


 メガネに三つ編みのお下げ、校則を完全に遵守した制服という完全無欠なまでの文学少女といった出で立ちの江末が、意外と話せる奴だと分かったきっかけもサブカルチャーだった。


 読書の鬼である彼女は、時刻表もののミステリーから美少女の日常系萌え4コマまでを幅広くカバーしていて、少年誌や青年誌の話題も当然のように出来た。刃牙の好きなキャラについて語り合えたときは感動したものだ。


 以前、そんなに本が好きならなぜ文芸部に入らないのか、と聞いたことがある。すると彼女は間を空けて、


『……実は、昔入ってた。けど文芸って結構縄張り意識があって。それで私、雑食だから、あんまり馬が合わなくて、それで辞めちゃった』


 というようなことを言っていた。文芸部に入ればエース級だったろうに(文芸部のエースっていうのがどういうものかはわからないけど)。


「そんな幅広い知見のお持ちの江末さんだからこそ聞いたのに、一刀両断なんて寂しいな」


「はーっ……分かった。じゃあとことん論破するまで付き合うけど。代わりに一杯奢りね」


「はいはい、一杯な」


――――


「お前、一杯って……」


「一杯でしょ」


 そう言いながら、スタバのアホみたいにクリームとチョコが乗っている、どろどろした飲み物を嗜む江末。向かい側の席に座る彼女は、幸せそうな顔でそれを頬張っている。手前に置かれた俺のホットコーヒーショートサイズが対比となって、それはもはや難攻不落の城塞に見えた。


「ふざけるな。一杯っていったらすりきり一杯だろうが。許せて表面張力分だ」


 あのクリームの部分で400円は取られているに違いない。マドラーでグラスの縁より上に出ているクリームの山の部分を削ろうとしたら、腕をつねりあげられた。


「お行儀悪いことしないの」


「お行儀よく食べることが不可能そうなもの頼んどいて、よく言うな」


 しばらくクリームをパクパク食べ進める江末を、コーヒーを飲みながら眺める時間となる。


 そしてようやく見た目が普通のカフェオレっぽい(この前これはマキアートだと叱られたが、クソどうでもいい)感じになってきたところで、ぷはと江末は一息ついて、


「で、なんだっけ」


「時間停止が、あり得るかどうかだよ」


「ああ、そうだった。無い無い」


「どうしてそんなにべもないんだよ」


「逆に、どうしてありえると思うわけ?」


「お前がこの前言ってただろ。SF的なものってのは、実現しうるって」


「ジュール・ヴェルヌの言葉とされているものね。人間が想像しうるものは、人間が必ず実現できる。本当はそんなこと言ったって記録はないらしいけど、私はこの言葉を信じてる、って話はした」


「それそれ。で、この前ドラえもんがSFだって言ってたから、読んだんだよ。そしたらドラえもんにタンマウォッチが出てくるじゃないか。じゃあ、時間停止だって実現できるってことだろ」


 その言葉に、彼女は「ちっちっち」とストローを振る。お行儀の話はどこ行った。


「ドラえもんがSF、ってのは広義の話。いわゆる鉤括弧付きの『SF』で、時間停止をあなたが楽しんでいたような形で扱うのは無理筋。リアリティが無さすぎ」


「あなたが楽しんでたような形?」


「どうせ時間を止めて、周りの人をああしたり、こうしたりみたいな物でも読んで、感化されちゃったんでしょ。あんなの、理論的に不可能だから」


 おやおや。


「街行く女の子の服脱がしたり、身体を触ったり……色々時間が止まってる間に一方的に影響を行使して、時間を再び動かした瞬間、止まってる間に蓄積された感覚とかが一気になだれ込んできて、その奔流に崩れ落ちてしまう様とかを遠くから影で見守ったり……」


 って、詳しすぎるだろ。


「……いや違うけど」


「え?」


「まあそういうのも知ってるけど、別にそんな好みではないし……。というか、さっき『9割がウソ』の話したときも、すぐに『下ネタだ』って反応してたけど、あれだって」


「ゴホンゴホン」


 顔を真っ赤にして咳払いする江末。


「冗談だ。溢れてるクリーム分はこれでチャラな」


「……さいてい」


 一方的にいやらしい認定をしてきたのはそっちだからな。というかムッツリすぎるだろ。逆に怖えよ。


「それにしてもやっぱり、なんでだよ。じゃあSFで取り扱われるタイムトラベルだって、過去に戻るのは物理的に不可能だって読んだぜ。けど、時間停止はブラックホールの表面とか理論的に起きてるかも、って見た。時間の逆行はオッケーで停止はダメって、それこそ逆じゃないか?」


「……ふうん。意外と色々調べてはいるんだ」


「お前が薦める本ばっか読んでたら、そうなったんだよ」


 ぱちん、と彼女が自らの頬を叩いた。


「え、何? お相撲さん?」


「なんでも良いでしょ」


 彼女はごくんとカフェラテを飲んで、


「そういうのは、一つ嘘つけば済むから。例えば過去のタイムマシンの話なら、過去に戻れる、っていう一つの嘘だけでいい。それ以外の話はそこから、極めて理論的、演繹的に展開できる。だけど時間停止は、嘘をつかなきゃいけない要素があまりにも多すぎるってこと。例えば理論って言うけど、周りの時間が動いていて、自分だけ動くなんてこと、どうやって理論的に説明できる?」


「ええと、そりゃ」


 俺は言葉に詰まった。言われてみれば考えたことが無かった。俺が今まで触れてきた創作物では全て当たり前のように時間を停止して、その中で主人公やら登場人物が動き回っていた。

 ストーリーの主題は「その力をどう使うか」ばかりで、「どうしてそうなるか」なんて、殆ど説明されない。

 だが、まったくゼロではなかったような気がする。


「……例えば、主人公だけ超高速で動ける、とか。そしたら周囲が遅すぎて、止まって見える、みたいな」


「まず時間止まってないでしょ、それは。あくまで止まって見えるだけで、止まってはいない。それに、早く動けば動くほど周囲に与える二次被害は大きくなる。衝撃波が出るから。ある程度の速度を超えるって言うなら必要なエネルギーも問題になる。ロケットがあれだけ大量の燃料を燃やしてようやくマッハ30に到達するくらい。この程度で、時間が止まってるって言えるほどのことが出来る? で、速度が光速に近づけば相対性理論の効果で確かに時間の流れは変化するけど、その効果は真逆で、周囲の時間が早く流れることになるし」


「……ブラックホールの周りだと時間が止まる、って話があるだろ」


「じゃあブラックホールをここに落としてあげようか?」


 いや、それは勘弁だけど。


「結局はあれも相対性理論の効果で、周囲の時間が早く流れるって話だし。この世の全ての物体をすべて光速で動かすか、あるいはブラックホールに落とすか。相対性理論が認める時間停止っていうのは、その程度のもの。それに、そこで仮に時間が止まったとしても、あなたの時間も止まってるんだから、そもそもそれを認識できない」


 江末はまだ言葉を続ける。


「それで、仮に今話した部分で一つ嘘を吐いて、物語の前提にしたとする。はい、時間が止まりました。私はそれを認識している。でも自分以外の物体全ての時間が止まってるとして、じゃあ主人公の周りの空気は?」


「なんで空気が出てくるんだ?」


「私がこうやって腕を動かせるのは、私が筋肉で動かしてるからってだけじゃない。それに合わせて私の腕の周りの空気も動いてくれているから。もし私以外の全ての物質の動きが止まったとしたら、完全に固定された空気の分子に阻まれて、私は瞬き一つできなくなる」


 そう言われた途端、周囲に漂う空気が身体にまとわりついているような、そんな感覚がしてきた。目に見えないせいか、あるいはそこにあるのが当たり前すぎるせいか意識していないものだが、しかし俺の体は無数の分子に囲まれているのか。


「出血サービスでもう一つ嘘をついて、周りのものを動かしてどかすことができるとする。けどそれで動いたとして、自分の体にぶつかって周囲の空気の分子も玉突き式に動いていくってこと? あなたが知ってそうなエロゲーとかエロ漫画の類だと、周りの人間にほいほい干渉できるけどさ、服を動かしたり関節を動かしたり、それに付随してどれだけのものが動くことになるか……バタフライ・エフェクトが大変なことになるでしょうね」


 ふんす、と腕組みしながら、


「こんだけの事象について全部無視するか嘘つくかしなきゃいけないわけだけど、それだけ嘘が多いと、それはもうファンタジー。だから、SFにおいては時間停止は成立しないの」


「……なるほどな」


 ここまで綺麗に説明されると、たしかにSFとして時間停止を成立させることはかなり難しそうだ。したがって、SFで考えつくことは実現できる、という理屈から、時間停止の実在を証明することは出来ないと言えよう。


 けれど、困ったことがある。


「そっちの主張の骨子は分かった。今ある理論からすると、たしかに時間停止は難しそうだ」


「納得してくれたようで何より」


「けれど、SFが大切にしている科学において、最も重要な基盤があるだろ。理論と、観測された事実が異なっていた場合、それは事実が優先される」


 それもまた、江末に教えてもらったことの一つだった。


「だから俺は、困ってる」


 そう言いながら、俺はポケットから一つの、小さな懐中時計を取り出した。上部には小さなボタンがひとつ付いている。


「……なにそれ」


「実家の倉庫にあったんだ。時間を止める能力があるらしい」


「からかってるの?」


「そう思うだろ、でもさ、こうやって押すとさ」


 かちり、という音が鳴る。




 瞬間、世界は静謐に包まれた。最高級のノイズキャンセリングヘッドホンを使っても、ここまでの静寂は得られないだろう。


 店内も、窓越しに見える通りの人影も、その全てがまるで写真のように凍りついていた。カウンターでは店員がコーヒーを注いでいるさなかで、カップへと飛び込んでいく黒い液体が、不安定で不規則な放物線を描いたまま、彫刻のように固まっている。


「止まるんだよ。本当に」


 俺は目の前で座り、訝しげな顔のまま固まっている江末を見た。


「……お前、どれだけエロゲーとかエロ漫画とか読んでんの。ムッツリすぎだろ」


 そう言いながら、俺は彼女の頬に触れようとして、手を下ろす。勝手なことはできない、と言った道徳心もあるけれど、それ以上に、触っても何も満たされないことが分かっていたからだ。


 彼女の指摘で、一つ完全に正しかったことがある。実際に時間を止めてその中で動き回れたとして、他の物に触れたとしたら全ての事物の玉突き事故を引き起こしかねない、という懸念だ。


 それをこの装置では、「本人が動き回れるほかは、全く他の事物の動きには干渉できない」ようにするという形でクリアしているようだった。あるいは時間停止というのはそのような形でしか実現できないのかもしれない。


 俺は唯一、空気の中だけは自由に動き回れる。けれどそれだけだ。例えばカップから飛び跳ねている水滴の一粒ですら、髪の毛の一本ですら、まるで鋼鉄のように硬く冷たく感じ、まったく動かすことはかなわない。家で母の頬を触って確かめたが、人の肌を触っても銅像のようにしか感じない。


 だから、こうして時間を止めたところで、何も俺は得られない。あるいはスパイとかだったら重宝する力なのかもしれないけれど。


 瞬間移動とかにも使えるかと思いきや、時を止めた場所じゃないと、再び時を動かすことは出来ない。どうやら、この力を使ったことにより現実に何か変化が起きることを、厳しく制限しているようだ。


 だから、ここで再び時間を動かして、「いや、今時間を止めたんだけれどお前が分からなかっただけ」とか言っても、本当に冗談だと思われるだけだし、反論する手段もない。


 俺は低いソファーに身を委ねようとして、その石のような感覚にため息を吐いた。ふかふかの椅子でくつろぐことすら出来ないなんて。


 木組みの天井を見ながら、


「俺、江末のことが好きなんだ」


 と呟いた。


「なんかさ、普通に美人だしな。まあそのおさげは最初どうかと思ったけど、怒ってるときに横に揺れるのとか可愛いし。でも、別の髪型とかも見たいぜ。解いて、普通のロングも見てみたいし、ポニテもいいかもな。一気にショートとかでも絶対に合うって。メガネも……、いやメガネは良いな。うん」


 腕を組み、改めて彼女を見やる。胡乱げなその表情は、よく俺に向けられる、見慣れたものだ。


「それに、話も合うしさ。というか、合わせてもらってるんだろうな。俺が知ってるようなコンテンツは大体知ってそうだし。それが気遣いだとしたら嬉しいし、もし自然に合ってるんだとしたら、なおさら嬉しい」


 手が無意識のうちにコーヒーに伸び、ガチガチに動かないカップに辟易する。


「ほんと、好きなんだよな……なんだろうな。放課後、一緒に帰ってるときとか、マジで毎回死ぬほどドキドキしてる。そっちはそんなこと無いのかもしれないんだけど。この前さ、隣のクラスのイケメンに告白されて、それ断ったって話聞いたときはヤバかった。あんな凄いやつからの告白断って、それをわざわざ伝えてくれるなんて、マジで脈あるんじゃないかって。でもその後、調子に乗ってアイス奢って上げたらそれを江末の本にこぼして、すげえ怒られたよな。あの時は終わったって思ったよ。なんとか新しい本買って、許してもらえたけど」


 自分の髪をくしゃくしゃ、わしゃわしゃとかき回す。本人の眼前でこんなに自分の気持ちを開陳するなんて、やってることは殆ど露出狂だ。あるいはマジックミラーマン号か?


「マジで、好きなんだ。こんなこと俺が言ったらダサいしキモいかもしれないけど、一緒にディズニーとか行きたいし、クリスマスとかもデートしたい。でもそんな派手なことじゃなくても、図書室の受付の影とかでこそこそいちゃついたりしたいし、なんなら時間が止まった世界で、二人でずっと口喧嘩しながら笑って過ごしたい。頭がおかしくなりそうだし、もうなってるかもしれない」


 そう一気呵成に言い切って、ようやく言葉の激流が収まってきた。


 情けない話だ。本当にマジックミラーマン号じゃないか。伝えることが出来ているような気になりながら、一方的に吐き出して、気持ちよくなるなんて。嫌になる。誰か俺を逮捕してくれ。


 そんなことを思いながら、俺は懐中時計のボタンを押した。




 喧騒が一気に戻ってきて、俺は一瞬それに圧倒されそうになるがすぐに気を取り戻す。ええと、さっきなんて言ってから時間を止めたんだっけ。


「本当に、時間が止まるんだよ。といっても、俺以外はそんな感覚がないから、結局意味ないんだけど……って」


 冗談めかして茶化そうと思ったら、江末が微動だにせず、硬直していることに気付いた。あれ、まだ時間が止まってるのか?


 けれど周囲は普通に喧騒を取り戻し、人々は忙しなく動いている。その中で江末だけが一人固まっている。


 不思議に思っていると江末の顔がみるみる真っ赤になっていき、こちらをにらみ始めた。え、怖いって。


 かと思ったら段々と涙目になり、「フーッ、フーッ……」と鼻息も荒い。


「お、おい、大丈夫かよ、体調悪いのか――」


「――誰が、ムッツリですって?」


「え?」


 そう言うやいなや、彼女は獣のような俊敏さで俺の手から懐中時計を奪い取った。彼女の髪がふわりと俺の顔にかかり、ドキリとする。じゃなくて、


「ちょ、か、返しなさい!」


「一体なんなの、これは!」


 そう言いながら、彼女がボタンを押す。え、やばい。


 かちり。


 その音を聞いた瞬間、俺の頭に、耳に、物凄い勢いでが流れ込んできた。細かい内容は割愛するが、桃色で、甘ったるくて、濃密な、感情と言葉のほとばしりだ。

 

 顔、熱っつ。まるで爆弾が顔で炸裂したかのように、一瞬で血が巡った。


 無言の間。


「……なるほどね」


 顔はまだ赤いものの平静を取り戻した様子の江末が、懐中時計を俺に返してくれた。


「……なんというか、その」


「時間を止めている間に与えた影響が、動かした瞬間に一気に相手に伝わる」


 江末が、ため息と共にそう言って、俺は手で顔を覆った。まさか、エロ漫画のあの描写が、こんな絶妙な形で実際に起こるなんて。


 つまり、時間が止まっている間に俺がくどくど言っていたことが、時間が動いた瞬間一気に彼女に伝わったのだ。だから彼女は一瞬で、あんなゆでダコのような状態になっていた、ということだ。


「……知らなかったんだ、まさか喋ったことが、一気にこんな風に伝わるなんて」


 これは本当だ。俺はただ、家の倉庫の中でこの時計を見つけ、家でその性能を試し、「なあんだ」となって終わっただけに過ぎない。だって時間を止めてすぐに、母に日頃の感謝と愛を伝えようなんてならないだろ?


「……じゃあ、伝わるって分かったのなら、もう言わないつもりなの」


「え?」


 顔を上げ、彼女の目を見た。

 今度は彼女が、俺から視線を少しそらす番だった。

 この江末フウカという人は、横顔もとても綺麗だなと、そう思った。


「……いいや」


 かちり。


「言える」


「――ほんと、ありえない」


 そう言いながら、江末はまた顔を真っ赤にして、口をもにゅもにゅとさせた。


「お前のほうがありえないぞ。だって瞬時にこれの仕組みを理解して、それでそのままあんな――」


「わーっ! ちょっと、そんなのズルでしょ! なんで止めてる間に言ったこと、わざわざ――」




――――


 すっと息を吸って、吐いた。時間が止まっているのに、息が吸える。まったくもって意味がわからなかった。けれど、いったいどんなルールがこの場を支配しているのかはなんとなく分かった。そして、先程時定が一体何をしたのかも。


「……あなたの、いつも適当なところが、最初は凄く嫌だった」


 彼女は、ぽつりぽつりと話し出す。


「『昔本を借りたときに順番を凄く待たされた嫌で、同じ思いを周りにしてもらいたくないからだ』って聞いた時、適当な言い訳だな、って思った。でも一緒にいて、だんだんとそれが、本心からの気持ちなんだってことが分かった。知ってる?」


 江末は時定の頬に触れた。それは銅像や石像のような感触だったが、彼女はそれを優しく撫でた。


「私が最初、あなたに本を勧めた時、ものすごく手が震えてたこと。私、こんな性格だから、昔から自分の意見とかは曲げないし、だから昔文芸部にいた頃、本の感想とか解釈とかで、凄い言い争いになったことがあるの。それが嫌で文芸部を抜けて、図書委員になった。だけどあなたがおすすめの本を教えてくれっていうから、可能な限り感想が割れないような本を紹介したの」


 なのに、と江末は笑った。


「一体、どんな読み方したのっていう感想を話してくれたよね。思わず私、一気に論破しにかかっちゃった。それでああ、これであなたとも終わりかなって思ったら、次も懲りずにおすすめの本を聞いてくれて……。それで、あなたとならこだわりを持ち続けても良いんだ、って思えた。なんだか凄く自分が自然で居られて、それを許してくれるような気がして」


 江末はしゃがみ、座る時定の顔を見つめた。懐中時計を取り返そうとする顔はとても間抜けで、それを見てひとしきり笑った後、


「時定くん、私もあなたのことが好き」


 と言った。


「あなたの意味わからないボケとか、角度の付いたツッコミとか、本当になんでだろうってくらい、全部面白いの。それで笑ってると幸せな気分になる。一緒に図書室を戸締まりして、二人で駅に向かう時。何度も、手をつなぎたいって思った。そっちから、普段のふざけた話題とは違う、真剣な話が出てこないかなんて期待したりした。夏の帰り道に一緒にアイス食べて、あなたのアイスがこぼれて私の本に掛かったときあったでしょ。あの時怒ったの、あれ嘘。本当は全然怒ってなかったけど、あなたが本当に申し訳無さそうになったり、しょんぼりしたりしてるのが可愛かったからだし、なんなら新しい本を買いに行くって口実で一緒に本屋さんに行きたかっただけ」


 江末は周囲を見渡す。雑談する若い女性、パソコンでタイピングしているサラリーマン、窓の外の待ち行く人々、その全てが止まっている。時計の針は寸分たりとも動かない。


「そんなとき、本当はいつも思ってたの。時が止まれば良いのに、って。あなたとずっと一緒に居たい、って」


 そう言って微笑みながら、懐中時計のボタンに指を乗せる江末。


「本当、言ったからには覚悟してよね。知ってると思うけど、私、結構面倒だから」


 かちり。

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