#2

平山芙蓉

電波塔と僕

 空を塞ぐ曇天が、この町の普通だった。僕は引っ越しの手伝いをサボって、公園のベンチで一人、自販機で買ったココアを飲んでいる。行く当てもなく来た公園に、人は誰もおらず静かで、雪の降る音でさえ聞こえてきそうだった。深々、深々、と。この静けさを、少しでも紛らわせるかのように。

 ココアの缶を呷りながら、町の中心にそびえ立つ電波塔を視界に入れた。普段は目にしないように暮らしている、巨大な鉄骨の集まり。こうやって、どうでもいい言い訳を含んだ行いのうちでしか、あれを見上げることはできない。

 恨んでいるのとは違う。かと言って、憎んでいないわけではない。僕たち家族はあの電波塔が原因で、この町を出なければならなくなったのだから。別段、どっちでも良かったけれど、少しは憎むというのも礼儀だろう。

 空っぽになった缶を、白く柔らかな地面へと置く。積もった雪の冷たさは、手袋越しにも感じ取れた。町全体が冷凍庫だと言われても信じてしまえる。そのくらいに寒いし、寒いのはもう嫌だった。ここで生きていく人たちは、死ぬまでの間、寒さに凍えながら生きていかなければならないのだろう。地は今でさえこんなにも冷たい。これから先は、より一層、酷くなるに違いない。そう考えれば、こうして町を出て行くという選択肢は、強ち間違いではない気がしてくる。もっとも、それを決められるだけの権利は、僕にはなかったのだけど。

 大人はみんな、自分の都合の良いように権利を手にする。僕はそれに抵抗したこともあった。無駄に終わってしまったけれど。子どもの論理が正しいとは少しも考えてはいない。むしろ、そこに正しさを見出さないのだろう。どこかが破綻していると決めつけて、僕たちの意見を耳にする。

 たとえ、自分たちの導き出した結論が、間違えていたとしても。いつの間にか、新しい疑問にすり替えて、結論を求めようとするものだ。

 そう考えると、出て行くということに対して、多少の寂しさに似たものを覚えた。友だちだって、まだ残っている。僕に良くしてくれたご近所さんだって、この町に残ると言っていた。僕たち家族は、そういう関係を断ち切ってでも、町から出て行こうとしているのだ。

 ぼうっと電波塔を見つめていると、後ろから足音が聞こえてきた。あからさまに、僕に振り返れと言うかのような気持ちが籠っている。僕は気付かないフリをして、振り返ることはしなかった。

「ねえ」と、音の主に声をかけられる。ようやく振り返ってやると、そこにはクラスメイトの女の子が立っていた。黒のダウンジャケットには、僅かに雪が付いている。

「どうしたの? 学校は?」僕は挨拶もなしにそう聞いた。彼女も挨拶なしに、僕の隣へと座る。腐りかけのベンチは、少女の華奢な身体に対して失礼な音を立てた。

「休んだ。もうほとんど誰も来てないみたいだし」

 ニット帽から伸び出た長い髪を耳にかけながら、彼女は言った。露出した頬は赤く染まっていて、そこに彼女の持つ全ての熱が集中しているみたいだ。僕は適当に返事をしてから、上着のポケットへと手を突っ込む。暖かさは外気と差して変わらない。

 彼女はピンク色の手袋の上に、息を吐きかけた。煙草の煙を彷彿させる、白い息が浮かんだ。頬の色は変わらない。ただ、息の漏れる音は静寂を満たすのに、十分だったらしい。僕はそれを横目に見ているだけだった。お互いに会話はない。そもそも、僕は彼女と喋りたくはなかった。自分でもよく分からないけど、多分、後ろめたいことがあるのだと思う。

 ずっと彼女を見ているわけにもいかず、僕は視線を逸らした。そうしたのはいいけれど、やり場はどうしても困ってしまう。迷子になった視線は結局、天を貫こうとする電波塔のところで止まった。まるで、そこから溢れる電波に、引き込まれるかのように。

「あなた、今日でこの町から出て行くんでしょう?」

 しばらく手を温めていたはずの彼女は、唐突にそんなことを口にした。僕は目だけを彼女の方へと向ける。だけど、彼女は僕の方を見ず、中空を眺めていた。僕は何だか、電話でもしている気分になって、足元に置いたココアの缶へと目を落とす。口はマフラーの中へと沈んでしまった。

「そうだけど」

「どんな気持ち?」

「……、そう言われても、どうとも思わないかな」

「冷たいのね」

「今日よりかマシさ」

 適切な距離感が分からず、映画か何かで観た冗談を言ってやった。正直、嫌になって帰ってくれればいい。いちいち僕に構わないでほしい。大人の決めたことに、僕は従っているだけだ。僕だって、出て行きたくて出て行くわけではない。引き止められないからと言って、厭味いやみを口にするのは卑怯だと思う。同じ子どもなら、それくらいは分かってくれてもいいのに。

「あれが建ってから、随分と町も様変わりしたね」彼女は笑う気配すら見せないままに言った。『あれ』じゃ分からないよ、なんて意地悪を返してやりたかったけど、寒くて言う気になれない。僕は黙ったままもう一度、電波塔へと目を遣る。鉄そのものの色を残した建造物は、生きている風には全く見えない。まるで、大きな動物の骨格のような気がしてならなかった。生まれる前か、死んだ後なのかは、区別できないけれど。

「有馬、藤井、小野、金田、柴田、小林、鈴木、笹井、栗林」

 彼女は呪文のようにその名前を呟いた。ちゃんと全部聞こえていたけれど、僕は寒風で聞こえていないフリをする。反応をしたら、背負わなければならない。この異常な雪の日々で潰えていった、命の名前を。

「今度は私かもね」

 そう言われて、僕はポケットの中で指を動かしてしまった。布の擦れる音。視線だけはずっと落としたままでいる。それでも、隣の彼女は僕を見ていることに気付いた。僕の身体は、自分で思うよりもずっと、感情で動きやすいのかもしれない。そうやって後悔しながら、責任を取る憂鬱さで溜息を吐く。本当は舌打ちをしたかったけれど、彼女に突っかかられることは、目に見えていた。マフラーに熱が籠ったのは一瞬だけで、後に残っているのは、ココアの甘い香りだけだ。

「縁起でもないことは、言わない方がいいよ」僕はより顎を引いてそう言った。

「あなたの耳が痛いだけじゃないの?」彼女はより空を仰いでそう言った。

 僕は心の中でそうかもしれない、と答える。情けないけど、とても口にはできない。認めてはいけない気がした。逆に、同じくらい、認めなければならないとも思っている。だから答えなかった。答えてやらなかった。僕は大人よりも、もっと狡猾で杜撰ずさんな子どものやり方を、彼女に対して突き付ける。

「じゃあ、私は行くから」彼女は言って立ちあがる。また、雪を掘る音が聞こえた。僕は彼女の足下へ目を遣る。ブーツは雪の中に沈んでいて、寒そうだ。

「どこへ?」僕は社交辞令のつもりで聞いてみた。本当は大して興味なんてない。だけど、大人はみんなそうしていると、僕は知っている。いつまでも、彼女みたいに子どものままではいられない。現実を生きて受け入れるためには、子どもの我儘な、どこか破綻しているという前提の理論を捨てるしかないのだ。

「あなたのいない場所」

 だったら、最初から来なければいいのに、と思ったけど、それも言わなかった。きっと、彼女には彼女なりの、信念があったのだろう。その気持ちを無碍むげに扱う気にはなれない。

 彼女は歩き難そうに雪の中を進んだ。降りしきる雪が、彼女の上着にまで積もろうとしている。僕はその後ろ姿を眺めた。彼女と話した、最後の日になるかもしれないなんて考えながら。そして、僕はこの死にゆく町を出て行く。血の繋がった大人に連れられて、知らない人間の暮らす、平和な町へと引っ越す。

 本当は僕だって残れるのなら残りたかった。亡くなった友人たちと、魂を縛られた人々と共に、破滅したいとさえ思っている。だけど、それはできない。我儘ばかりで生きてはいけない。これが大人になることなのだと、大人に言われた通り、自分に言い聞かせもした。

 今日で一つ、子どもの論理は捨て去られる。

 そして僕は代わりに、大人の理論を身体に入れる。

 そうやって、次第に僕は自分の意思を失いながら、

 大人へなっていく。

「ねえ」

 僕は気紛れに、それでも、何かしらの信念を抱えて彼女を引き留めた。聞こえていないと思ったけれど、彼女は振り返る。まるで目の前の華奢な身体が引き起こしたかのように、寒風が吹いた。彼女の髪が揺れる。僕たちは、お互いの目を見つめ合った。彼女の目は、鈍い灰色を灯している。その目は、電波塔によって引き寄せられた雪雲のように、奇妙な不安を孕んでいた。

 だから僕は、電波塔へと目を逸らす。

 僕を大人に仕立て上げていった、一つの元凶へ。

 いつだってそこに佇むだけの、全ての元凶へ。

 この町の破滅を、静かに運んでくる、生死の概念を持たない、元凶へ。

「僕は嫌いだよ」

 どちらへ向かって言ったのかは分からない。だけど、そういう言葉を紡がないと、子どもの僕は、ちゃんと消えてくれそうになかった。

「そう。私も嫌い」答えてくれるのは彼女だけだ。

「分かっていながら、自分のことを棚に上げるところが」

「私も、あなたには全く同じ感想を抱いていたの」

「知ってたよ」

「言いたいことはそれだけ?」

「言いたいことはそれだけ」

 ポケットから手を出し、僕はじゃあ、と言った。

 それが礼儀だと思ったから。

 彼女はポケットに手を入れて、何も言わずに公園を出て行った。

 それが彼女なりの、礼儀だったのだろうか。

 背中は何も語ってくれない。

 ただ僕ではなくて、降りしきる雪だけを受け入れていた。

 電波塔は今日も明日も、この町へ白と灰色の不幸と不安を呼び寄せてくる。そして、不幸を餌に多くの人々を、この町に縛り付けてしまう。そうやって縛り付けられた人間は、大人にはなれない。だから彼女も、ずっと子どものままなのだと思う。ずっと子どものまま、不幸を嫌い、噛みついて、その毒で滅んでいく。

 多分僕は、一緒なんだ。

 不幸を振りまいて、噛みつかれても、知らんふりをしているだけの、電波塔と。

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#2 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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