ふたりの王国

おおきたつぐみ

ふたりの王国

 津軽海峡を越えると白く染められた大地が現れた。

 冬に北海道を訪れるのは初めてだった。つい先日まで滞在していた国も、二週間隔離のために滞在していたホテル付近でも、常緑樹は緑の葉を茂らせているし、山茶花や椿など冬に咲く花も多い。お互いが住む場所の遠さを改めて思う。

 まもなく新千歳空港に到着すると機内にアナウンスが流れた。

 遠いとはいっても飛行機に乗れば数時間だけれど、昨年から世界を覆った感染症のせいで私は仕事のために移り住んでいた国から出られなかった。

 それまでは日本と国外に離れているとはいえ、私の帰省のタイミングで一年に一度は会えていたのだ。彼女にはもう二年、会っていない。こんなに会わないのは初めてだった。隔離期間が終わってすぐに私は北海道行きの飛行機に乗った。


「おーい!」

 ガラスの仕切りの向こうに見えた彼女は大きく手を振っていた。髪が短いことに驚く。

 機内持ち込みサイズの荷物しか持っていかなかったのでそのままゲートをくぐると、小さな彼女が抱きついてきた。

「久しぶりだね……」

 ようやく会えた、そう思いながら抱き締めると背中が震えている。泣いているのだ。

 涙もろいところは変わらない、けれど……。

 首筋に少しだけかかる髪を撫でた。

「ねえ、こんなに髪を短くしたなんて聞いてないけど」

「二年ぶりに会って最初に言うのがそれなの?」

 私の胸から顔を上げた彼女の目が潤んでいる。マスクから覗く目尻のしわ。私も努力したけれど変わった。染めたけれど増えた白髪や、コンシーラーで隠しきれないシミに彼女は気づいているだろうか? 私たちを引き離した時間の長さがもたらした変化。私たちはそれでも変わっていないのか?


「すごく似合うよ……好き」

 ようやく言えたのはそれだけだった。


 好き。

 年月がどれだけ彼女を変えても、やはり胸の底から湧き出る思いはこれだった。

 彼女が嬉しそうに目を細めて笑う。目尻から涙がぽろりとこぼれるのを指ですくった。

「私も大好きだよ。ずっとずっと会えるのを待ってた」

 その言葉に思わずマスク越しながら唇を寄せそうになり、ああいけない、ここは公共の場だ、と思って咄嗟に顔を背けると、彼女が弾けるように笑った。

「ねえ、今キスしようとしたでしょ。公衆の面前ですよ」

「や、ちゃんと自制しました」

「これだから海外帰りの人は……」

 ――早くふたりきりになりたい。ごまかすように彼女の背中を押し、空港地下にあるJR駅へと続くエスカレーターの方へ向かおうとすると、彼女がぶんぶんと首を振った。

「今日はJRじゃないの」

「どういうこと? バス?」

 彼女はにやにやしながら逆に私の背中を押し、エスカレーターで二階へ上がると駐車場へと向かう。車?

「誰かが待っているの?」

 彼女は免許を持っていない。私は昔取ったけれど、海外へ出たのを機にすっかりペーパードライバーになった。

「私ね、これも内緒だったけれど実は今年免許取って、中古だけれど車も買ったの」

「嘘? ちょっと、どれだけ秘密があるのよ」

 離れていてもわりとまめに連絡は取ってきたつもりだっただけに、驚くと同時に少し寂しくも感じた。その気になれば隠し事なんていくらでもできるものなのだと。私たちはそれほど遠く離れているのだと。


 屋外へ一歩出ると凍てつくような空気が一瞬で肺に流れ込み、ひるんだ。

「わ、滑る……!」

 地面は踏み固められた雪が凍り、私の足元はおぼつかない。

「気をつけて。ほら」

 振り向いて私に手を伸ばす彼女。背も私より十センチ小さくて年下で、いつも私がリードしてきたのに。戸惑いながらもドキドキする。私の手をしっかり握る彼女の手が温かい。

 車は彼女が好きな空色の可愛らしい軽自動車だった。寒さのあまり車の窓には霜がついている。

「さあ、乗って」

 白い息を吐きながら彼女は私から荷物を受け取り、トランクに詰め込むと颯爽と運転席に乗り込んだ。私も助手席に座ると、席を調整する彼女の姿を信じられない思いで見つめた。

「何よ、その顔」

「だってあなたすごく怖がりだったじゃない。本当に運転できるの?」

「できるのよ、それが。うまいかどうかは別だけれど」

 そう言って彼女はぐっと顔を近づけたかと思うと、右手で私のマスクを、左手で自分のマスクを下ろしてさっと口づけた。

「なっ……」

 驚いて身を引いてしまう。

「どうしたの?」

 至近距離で彼女が微笑む。

「だって私まだ、うがいも……」

「――こうしたくて免許取ったんだよ。会ってすぐ二人きりになれるように」

 彼女の右手が私の首に添えられ、優しく引き寄せられる。力が抜け、私は薄く唇を開いて彼女の口づけを受け入れた。 

 小さな車は私たちだけの王国になった。変わらない彼女の柔らかな唇。私たちはしばし夢中で口づけた。


「本当にこのために免許を取ったの? 大変だったでしょう?」

「本当よ……それに」

 彼女は顔を傾けると、私の頬にちゅっと口づけた。

「ただいつか会える日を待っているだけじゃ、寂しくて不安で押しつぶされそうだったから、何かあなたのためにできることがないか考えて……会えたらすぐにキスしたい、そのために車を買おう、と思ったの」

「まあ」

 私は思わず笑った。もちろん嬉しくて。

「本気だったんだから」

「わかるよ、この年で新しいことを始めるのも、勉強もすごく大変だもの」

「教習所に通っていても何度も試験に落ちて、もうこんなの無理だと思ったけれど……鬼の執念だね、夢って叶うものなんだわ。こうしてまた会えて、私の車でキスできた」

「……あなたは本当にすごい人」

「大変な時は大きく変わる時って言うでしょう」

 ただ変化を恐れていた私と、自ら変化を起こした彼女。

 感嘆と愛しさで胸が甘やかに締め付けられる。

「私はあなたのために何ができる?」

「会えなくてもずっと私のことを思って、帰国してどこより先にこんな寒いところまで会いに来てくれたじゃない。それが嬉しいの」

「――愛してる」

「私も」

 今度は私から口づけたけれど、まもなく彼女は身じろぎして私から離れた。

「どうしたの?」

「待って、時間」

 そう言って彼女はポケットから出した駐車カードと腕時計を見比べた。

「いけない、もうすぐ一時間だ。早く出ないと二時間分の駐車料金になっちゃう。シートベルト締めて」

 言われたとおりベルトを締めながら、私は再び笑った。

「こういうところ現実的よね、女どうしって」

「あら、そこがいいじゃないの。大丈夫、もっと良いところに連れて行くから」

「期待してる」

 エンジンがかかり、車が走り出す。

 凍った道を小さな車がガタガタと震えながら走る。

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫よ、たぶん」

「まあ、あなたと一緒なら死んでもいいわ」

「だめよ、まだまだふたりでしたいことがいっぱいあるんだから」


 車内が私たちの笑い声で満たされていく。

 ここは私たちだけの小さな王国。

 あなたと並んで進むふたりの王国。

 あなたと一緒なら、何があっても、どんなに変わっても、どこまでも行ける。


            終わり

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ふたりの王国 おおきたつぐみ @okitatsugumi

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