怒られない程度の、小さな悪い事がしたかった

なんバ

①完

 『きつね』『たぬき』。動物の名前が入っている商品は子どもがいかにも好きそうで欲しがってもおかしくない――私は昔ずる賢い子どもだったからそう考えたし、さも「カップ麺?なぁにぃ、それぇ」みたいな、何も知らないフリをして間抜けな顔を作って、この赤いきつねやら緑のたぬきを食べたがった事が何度かある。

 私はいわゆる「体に悪いと誤った偏見を持たれがちなご飯」に憧れる保育園児だった。

 ジャンクフード、着色料だらけのカラフルなお菓子、カップ麺、当時は詳しい名前も知らなかったこれらにひどく憧れた。小さくてもいい、悪い事がしたかった。欲を言えば怒られない程度の悪事を。

 そんな子どもが『手軽な食事は悪いもの』と嫌う母にねだるには何も知らないフリをするしかない。


「赤いきつね、だって。おれ、キツネ好きだよ」

「なんでキツネちゃんが好きなの」


 母は厳格な人だった。共働きで子ども1人育てながら暮らしている親になったからこそわかるが、母は女手一つで相当気を張って私を育ててくれていた。仕事や家事はもちろん、子育てにも妥協を許せない完璧主義者。

 そして私の1番の理解者であったのだから、普段は動物に興味を示さない私が突然「キツネ好き」なんて一緒に買い物に来ていたスーパーのカップ麺コーナーで言い始めた時点で、私が最後にどんな言葉を言いたいのか察していただろう。

 けれど私はどうしてもCMでかわいい女優が食べていた未知の食べ物を食べたかった。正直に言おう。私は当時流れていたCMに出ていた女優も好きだった。初恋とは言わないけれど、まぁ、三回目くらいの片想い。初恋は当時保育園の同じクラスにいたあすかちゃん……ではなく、彼女のお母さん。案外そういうものだ、男の初恋なんてものは。その女優さんもそうだけれど柔和な雰囲気を持った女性が好きだったし、今も好きだ。母と正反対の雰囲気の人。


「買わんけんね。体に悪いから」

「え、え?買わん?何を?」

「カップ麺とかジュース。体が中から溶けるんよ。甘いもんは歯が溶けるじゃろ。怖いって、前も言うたでしょ」


 ずる賢いくせに気が弱い子どもだった。だから先手を打ってこう言われてしまうと堪らなくて、ボソボソと「いや、欲しいとか言ってないじゃん」と口の中で小さな舌をえっちらおっちら動かすしかない。

 結局私が赤いきつねをはじめて食べられたのは小学校に入ってからの事で、それもお小遣いで買ったというわけではなく友人の家にあったものを食べたのがはじめてだった。当時はやっていた対戦格闘ゲームをしに友人宅を朝から訪ねていた私たちに、友人の母が「お昼ご飯カップ麺でもいい?」と聞いてくれたのだ。

 昼ご飯は簡単なものでもいいかというその問いかけはゲームに夢中だった筈の私の脳天をがっつり揺らしたのを今でも覚えている。ゲーム機がない我が家に友人が訪ねてくる事は少なかったが、それでも昼時に友人がいれば母は張り切って冷蔵庫の具材を確認しキッチンに向かって栄養を考えた昼ご飯を振る舞おうとする人だった。どちらが良い悪いという話ではなく、”母親”という存在にはこんなにも個体差があるのだと驚いたのが1つ。当時の私には園児の頃程にはカップ麺への憧れはなかったけれど、それでも昔焦がれたのを忘れたわけではない。その憧れを口にする事ができるのだと感動したのが1つ。これで綺麗にフィフティー・フィフティーで右脳左脳をがんがん揺さぶってきてゲームは私の大敗で終わってしまった。

 買い置きの複数あるカップ麺、私から見れば宝の山の中から選ばせてもらったのは園児の私の思い出から『赤いきつね』。


「俺、赤いきつね初めて食うわぁ」

「そうなん?赤いきつね嫌いなら俺のと替えたろうか?」

「違う違う、こういう……お湯入れるだけみたいなやつ?母さんが嫌いでうちで食った事ない」

「嘘じゃろ!?普段何食いよるん、休みだいたい俺ん家これやで」

「お母さん厳しそうじゃよなー」

「わかる~、こういうの嫌いそうな感じするわ」

「厳しいっつーか鬼ババ。えーよな、皆のお母さんは優しいけぇ」

「こいつも鬼ババじゃ」


 鬼ババと呼ばれた友人の母の顔が笑顔の形で怒るのを感じて、あぁ、私の失言のせいだなと悟ったがそれどころではない。

 麺に絡む濃い汁の味が味蕾を刺激しひと様の家であるのに白米を要求したくなった。絶対にこれはご飯と合う。我が家の料理は基本的に薄味のものが多かったので、たった一口、口に含むだけで噛まずとも口の中全体に染み渡る強い味があるのだとはじめて知った。

 油揚げも母が作った薄味の出汁のうどんと一緒に食べたものとはまったく違うはじめて食べるもののように感じた。そんな事はないのに感動で脳内でバグが起きていた。噛むと溢れてくる甘い味を汁の中に溢すのが惜しくて上を向いて油揚げをかじっている私を友人は不思議そうに見ている。

 友人宅で母が禁止しているものを食べた――小学校低学年男子である私にとってこの背徳的な経験があまりに甘美な秘密である事はきっとわかっていただけるだろう。この秘密は母に言わず大切にとっておいて、中高以降はたまにこっそり買って1人で食べたりしつつ、結局これらの経験は母に黙ったまま成人を迎えた。母も気付いていて何も言わなかったのだと思うが、結局母は妥協や手抜きを嫌う人なままだった。

 ――なのに、何だ、今は。


「……置いとくよ、母さん」

「…………ん」


 小さな声だった。背中に聞こえる筈の私の呼びかけに、蚊の鳴くような吐息と大差ない返事が母の口から漏れ出るのみ。


「……ご飯、食べな」

「うん」

「お義母さんがあんまり食べないって心配してたから。帰ってくる前には食ってくれん?」

「……うっさいな」

「うるさくねぇよ」


 仕事帰りにスーパーで買った母の食事をリビングの机に置いても、和室にこもったままの母に見向きもされない。

 私よりも帰宅時間が遅くなりがちな夜間のレジ打ちをしている妻がまた心配してしまう。

 溜め息を噛み殺し、袋の中からカップ麺を取り出しやかんに水を入れ始めた私が口を開こうとしたタイミングでようやく母が立ち上がってこちらにくる。


「うるさいわ」


 もう一度怒られる。


「起きるやろうが」

「んふっ……いや、母さん、うるさいから起きるっつーけどさぁ、そんだけ見とったほうが起きるよ」

「うるさいほうが起きるわ」


 笑った母さんが肘で私の脇腹を小突く。

 やかんを私の手から取って「お疲れ様」と労ってくれ、そのまま水を火にかけるとまた和室へと向かう。私の子、母さんからすれば孫娘の寝顔を見る為に。

 幼い頃私が見ていた横顔とはまるで結びつかない穏やかな表情は、張っていた緊張の糸を切る事が許されたからこそ見れる表情なのだろう。

 昔は厳格な人だったのに、何だ、今は。穏やかな祖母として私たちの子育てに協力してくれている。だから私も昔のおどおどした子どもとしてでなく、1人の立派な大人として母と向き合える。向き合われても許す事ができる余裕が母にもできたように感じる。


「緑のたぬき貰うわ」

「だめ」

「一昨日赤いきつね食べたけぇさ」

「だめー」

「親不孝な子じゃわ」


 ケラケラ小さく笑っている母は孫娘見たさに1人の時は食事の時間を減らす事を望むようになった。何とも親バカな理由だ。

 私たち夫婦が休みの日や帰宅が早い時には手間暇かけて晩ご飯を作り待っていてくれる事もあるのでそれももちろん嬉しいが、ちゃちゃっと食事を済ませて母や妻と共にようやく授かれた我が子を眺める時間も愛しい。母も同じように感じてくれているらしい事も幸せだ。

 ピー、っと昔ながらの安いやかんが沸騰した事を知らせてきたので火を止める。きっと私が「だめ」と言っても意味はないのだろう、母のものになる緑のたぬきと私の赤いきつねにお湯が注ぐ。


「ご飯ある?」

「昨日炊いたの冷蔵庫あるけ、チンしようか」

「ありがとー」


 私が今いるのはあの日の友人宅ではなく我が家なので、遠慮なく白米をリクエストできる。

 楽をする事を――楽をする事は決してイコールで手抜きになるわけではないとようやく覚えた母に、昔もそう知ってくれていたらもっと母子2人の時間がとれていたのにと思う事がないわけではない。

 しかし、今わかってくれているならそれでいい。それだけでいいのだ、幸せなのだから、何でもいい。きっと母も幼い頃の私と同じで”小さな怒られない程度の悪事”をしたいんだ。楽をする事は悪い事なんかじゃないのに、昔からそう信じて生きてきた母は中々思考は変えられない。しかしこの”悪事”を母が楽しんでいるのなら万々歳だ。

 娘の顔を見るのをやめ私の為にキッチンにやってきて、小分けにラップで巻かれた昨日の残りの白米を冷蔵庫から取り出す母の背中を見て、次いで机の上のスーパーの袋を見る。今日は人が少なくて辛いとぼやいていた妻の為にスイーツを買ってきている。喜んでくれるだろうか。


「そろそろ3分じゃな。和室で食うんやろ?お盆載せとくで。緑のたぬきのほうね」

「ありがとー」


 母のそのお礼のトーンがつい先ほどの私の「ありがとー」と全く同じトーンで、笑ってしまった。

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怒られない程度の、小さな悪い事がしたかった なんバ @nan_kusu

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