赤いきつねと先輩とぼく

恵喜どうこ

赤いきつねと先輩とぼく

久米くめ君! 久米君!」


 遠くから尋常じゃない声の大きさで名前を呼ばれ、ぼくは焼きたてのあんぱんを咥えたまま振り返った。ぼくの名を呼んだ人物は豊かな毛を蓄えた向う脛が見えるのも構わずに、鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭を振り乱し、ものすごい形相でこちらへ駆けてくる。ぼくは咥えたあんぱんを落としそうになったが、なんとか地面寸前でキャッチした。あぶない、あぶない。


 「どうしたんです、先輩?」とぼくが問うと「な、なにが、あったも、くそも、ない。た、た、た、たすけ、て、くれ、たまえ」と先輩は倒れ込むようにぼくの服を掴んだ。令和現代には珍しく和装姿。夏場は着物の裾をたくし上げていたが、さすがに冬場はそれだと寒いらしい。黒い外套を羽織り、首には水色のマフラーを巻いている。手袋の代わりに『米一途愛』と金糸で刺繍された手甲をはめている。金田一耕助がなにを間違ったか京極夏彦コスプレをして道を闊歩している姿を想像してもらえばわかりやすいだろう。


 そんな奇妙奇天烈な良知りょうじ定治さだはる先輩はぼくと同じ大学に通う四年生。いや、もう二年くらい留年しているらしい。大きな米農家の長男として生まれた先輩は、米離れが加速する日本を憂い、米文化日本国を取り戻すべく、大学一年生のときに『全日本お米を守る会』を立ち上げた。会員を増やすため、日夜奔走する先輩の姿は勇ましく、巷ではラストサムライだと称されているものの、現在ぼくが唯一会員である。米に合うお供の研究と普及活動の最中に珍事に巻き込まれたと訴える。


 すると「ちょっと逃げんといて」「そうよ、逃げんといて」と鈴が鳴るようなかわいらしい声がした。先輩が「ひいっ」と小さな叫び声をあげて、ぼくの背中へ回り込む。駆けてくるのは日本髪に振り袖姿というつり目美女二人。先輩と違って、こちらはぜんぜん息が切れていない。ぼくは瞬いた。昭和初期の時代にでも迷い込んでしまったのだろうか。手の中のあんぱんのぬくもりがなかったら、夢だと思うところだ。


「あら、あなた久米喜朗君?」

「はい、ぼくが久米喜朗です」

「全国お米を守る会唯一会員の?」

「はい、唯一会員の久米です」

「ご出身は愛知ね」

「正解です」

「三河ね」

「よくご存じで」

「なんでもお見通しよ」

「そりゃすごい」


 美女二人の質問攻撃にも怯まずに対応するぼくの後ろで先輩が「さすが久米君」とほめた。先輩は奥手で、女性と話すのが苦手なのだ。米普及のときでさえ、女性には声を掛けられない。変人だがとっても初心で可愛い人なのだ。


「あのね、お米を食べさせてほしいのよ、私たち」

「そのためのお供も持ってきたんだから」


 そう言って、ふたりは着物の袂から見慣れた赤いカップ麵を取り出した。


「赤いきつねですね」

「ええ、実は大好物なの」

「だけど私ら、上手にお米が炊けないの」

「一度でいいから美味しいお米と一緒にこれを食べたいの」

「私ら、年明けからこの一週間、一生懸命働いたのよ」

「仕事も一息ついたから、美味しいもの食べてゆっくりしたいの」

「お二人ならその願いを叶えてくれると思って」

「藁にもすがる思いでこうしてやってきたの」


と、美女たちは口々に言った。「それはたいへんですね」と言おうとしたぼくの背後ですすり泣きが聞こえた。振り返ってみると、先輩が目元を押さえて泣いている。どうやら感動したらしい。先輩はこの手の話にめっぽう弱い。弱すぎる。

 「先輩」とぼくが声を掛けると、はたと泣き止み「久米君」とぼくの両手をあんぱんごと強く握りしめた。手の中でパンがつぶれて、あんこが飛び出した。「先輩、あんぱんがつぶれました」と言うぼくの声は先輩の耳には届かない。


「こうまで言われて断ったら男が廃るというものだ。なあ、そうだろう?」


 ぼくはつぶれたあんぱんと先輩の満面の笑みを交互に見比べて、やれやれと嘆息した。


 *


 ぼくたちの根城もとい先輩の下宿先の亜米利加荘に二人の美女を案内した。女性を家に招くのは初めてのことらしく、先輩はカチコチに緊張していた。同じほうの足と手が一緒に前へ出るほどだ。先ほどまでの勢いはなく、五センチほどしかない上がり框でこけて、したたかに膝をぶつけていた。そんな先輩を見ていられなくて、急いで部屋へ上がりこみ、空気を入れ替えた。充満していた男臭は冷気と共に外へ逃げていった。


 一月の初旬。やはり寒いので窓を閉めた後、炬燵へ誘った。座布団はひとつしかないので、部屋の隅っこに片付ける。美女たちは炬燵を物珍し気にあらためていたが、中へ入ると「ぬくとい、ぬくとい」と頬を赤らめた。そんな美女たちに先輩も頬を赤らめた。じっと二人を見つめたまま、一向に動こうとしない先輩の腕を引っ張って台所へ連れていき、米を炊くように指示をした。


 先輩は我に返り、さっそく支度を始めた。流しの下から取り出した土鍋で米を炊く。ぼくはその間に二人からカップ麺をもらう。「お二人の分もあるの」と二人は計四つのカップ麺をぼくに渡した。なんならお代わりもあるという。振り袖にしこたま仕込んでいるらしい。ひとつの重みはさほどではないだろうが、走っているときによく落ちなかったなとぼくは変なところが気になった。とはいえ先輩も袂にいろんなものを隠し持っているから、和装している人はだいたいそんなものかと納得した。

 台所へ戻ると、鼻歌交じりに先輩が米を炊いている。「ところで久米君」と先輩が呼んだ。


「それはどうやって食べるのかね?」

「知らないんですか、これ?」

「スーパーで見た覚えはある。しかし食したことはない。うちは母や祖母の作るもの以外、口に入れてはならぬという家訓があったのでな」


 どうやら先輩の家の人たちも少々変わっているらしい。そうでなければ講義を放り投げて米普及活動に没頭する跡取り息子をこうも放置できるはずがないとひとりうなずいた。


「便利ですし、美味しいです」

「どう便利なんだ?」

「お湯を注ぐだけです」

「すぐ食えるのか?」

「五分待ちます」

「たった五分で?」

「たった五分です」

「お揚げの入ったうどんがだぞ?」

「乾燥したやつを熱湯で戻すだけです」

「スープもか?」

「スープは粉です。どこからでも切れるので鋏も要らないし、手も汚れません」

「完璧だな」

「完璧です」


 先輩が笑った。ぼくも笑った。「そうか、たった五分か」と先輩はしげしげとカップ麺を眺めながら、目をきらめかせた。


 *


 米を蒸らしている間に、カップ麺を用意した。ぼくのマネをして先輩もやってみる。蓋を全部開けそうになったのでひやひやした。乾燥した中身を見て「おおっ」と声を上げる。粉末スープとかやくを入れてお湯を注ぐ間も、先輩は「うおおっ」と興奮したようにぶるぶると震えた。お盆に二つのカップ麺を載せて美女の前に置くときは違う意味でプルプルしていた。


 こうして炬燵の上には土鍋で炊いた米とカップ麺が並んだ。全員がほくほくとした顔でぼくを見つめている。ぼくのスマホのアラーム音が鳴るのを待っているのだ。

 小鳥がさえずる音がした。五分を知らせるアラーム音だ。「開けていいですよ」と促すと、各々が嬉々とした様子で蓋を開けた。ふわりとお出汁のいい香りが漂った。白い湯気がカップ麺から立ち上る。先輩が「ふおお」と鼻の穴を広げた。お米から意識が飛んでいるらしいので、ぼくが土鍋の蓋を取った。お米の甘い香りに美女たちが鼻をヒクヒクさせた。お米を十字に切って、四分の一ずつひっくり返す。きつね色のおこげが姿を見せた。美女たちが鼻息を荒くした。米を優しく混ぜていき、茶碗によそった。


 美女たちはお出汁をまず口に含み、次にお米を食べた。うふっと声があがる。その後、はふはふ言いながら、ズルズルっと麺をすすった。先輩も続いた。やっぱり、うふっと声が出た。ぼくも倣った。どうしても、うふっという声は出てしまうものらしい。


 ああ――とぼくは心の内で感嘆のため息を漏らした。なんと美味いのだろう。赤いきつねと白米。炭水化物×炭水化物の絶妙なハーモニー。先輩が隣で「マイ マイ マイ マイ」と歌った。うっとりした顔だ。それを聞いた美女たちが「マイム ベッサッソン」と続けた。三人はうっとりした顔でほほ笑み合っている。どうやら三人の口の中で米と赤いきつねがマイムマイムを踊っているらしい。ぼくはたまらずぷっと噴き出した。


 そうして食べていくうちに、米はみるみる美女たちのお腹の中へ消えていった。食べ終わった美女たちはふうっと息をつきながら、ポンポンと腹を叩いて「満足、満足」とつぶやく。炬燵を出ると、二人並んで正座をして三つ指を立てた。


「どうもごちそうさまでした」

「いえいえ、またお越しください」と先輩も同じように正座三つ指で頭を下げるので、ぼくも慌てて真似をした。頭を上げたら、そこに美女たちはもういなかった。その代わり、畳の上にそれまでなかったものが二つ落ちていた。先輩と一緒に拾ってみる。お守りだ。


 「いい子たちだなあ。お礼まで置いていくとは」と先輩が『家内安全』と『学業成就』のお守りを見て、よよっと涙を拭いた。


「先輩、扉の音がしませんでしたよ?」

「奥ゆかしいのだろう」

「それにこれ、近所の稲荷大社のお守りですよ?」

「わざわざ寄って買ってきてくれていたのだろう」

「きつねに化かされたんじゃないですかね?」

「なぜそう思う?」

「だってきつねはお揚げが好きだから」

「きつねだっていいではないか」

「いいんでしょうか?」

「バカだなあ、きみは。ほら、言うだろう? 米好きに悪いもんはないってさ」


 先輩がガハハと笑った。ぼくもアハハと笑った。


 「それにしたって美人だったなあ」という先輩のつぶやきと共に不思議な体験は幕を閉じた。そして先輩はこれをきっかけにしばらく、赤いきつねとおにぎりをセットに普及活動に勤しんだのだった。


 了

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赤いきつねと先輩とぼく 恵喜どうこ @saki030610

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