第4話 陰謀。
「あなた、あなた起きて」
俺は君子の声で目が覚めた。机に突っ伏したまま眠ってしまったようだ。置き時計を見ると午後11時だった。あれから一時間も経過していない。
「……怖い夢を見ていたようだ。明日の講演のために民数記を読んでいたら寝てしまったらしい。……どうした? そんな恰好をして」
先にベッドで休むと言っていた君子がワンピースに着替えている。
「さっき、警察から電話があって、夫が出張先のホテルで誰かに……誰かに刺されて、今病院に運ばれたって連絡があったの」
「どういう事だ!」
俺は君子の夫とは面識はない。しかし、君子の話では夫は不倫をしていて、出張先で女とよく会っていると聞いたことがあった。
「まさか、女に刺されたのか? いいから、早く行きなさい」
俺は動揺していた。今夜君子が家に来ていた事を知られては困る。
「いいか、自分の家から病院に行った事にするんだよ。ここからタクシーで一度自宅に戻り、念のため別のタクシーを使いなさい」
───姦淫を犯してはならない。
頭の中ではその戒めがグルグルと回り、君子の夫の容態を全く気にしない自分に驚いた。俺は牧師だ。誰にも君子との関係を知られてはいけないのだ。
君子は学生時代の同級生だった。牧師として君子の相談に乗っているうちに、
一線を越えてしまった。確かに良心は痛んだが、本能を無視することが出来ず、表裏のある敬虔なふりをしたクリスチャンに成り下がって半年が経とうしていた。
「あなた、ごめんなさい。ありがとう」
君子が俺の手を握って言う。こんな状況の中で、きっと夫の大事さに気がつき、俺と関係を後悔し始めたのかもしれない。それならそれで構わない。
「あなたのおかげで夫と……別れる事が出来ます。もうあの人の暴力や女癖の悪さに悩んだり怯えて暮らさなくてもいいの。本当にありがとう」
「何を言っている、君子。早く病院に行きなさい。あとの事は、また後で考えよう。」
俺は今は君子を病院に行かせる事を優先した。たとえ君子を愛しているとはいえ、夫が大変な時に引き止めるほど非人道的ではない。最悪の場合、死に目に会えなかったら、君子は一生後悔するだろう。いやそんな縁起でもない事を考えてはいけない。しかし俺のおかげってどういう事だ?
君子は薄ら笑いで言った気がする。こんな時の笑い方としては可笑しいだろう。俺は君子の手を握り返した。
「もう、夫は亡くなりました。病院に運ばれたんですが、出血がひどくて無理だったみたいなの。慌てて行かなくてもいいわ」
君子の口元が笑っている。こんな時になぜ?
「あなたにお願いがあるの。本当の事を知っても牧師をやめないでね。あなた、夢の中で学んだんでしょう。信仰の人だと思っていたモーセは最悪の人物で、祭司なのにピネハスは殺人者で。それを神さまが許していたのよね」
「何を言っている? いや何で知っている、君子」
俺は怖い夢を見たとは言ったが、内容までは語っていない。
「人間の本質なんて変わらないのよ。モーセが陰謀を企んでいらない人間を排除したように、私もいらない人間は排除するの」
「まさか、君子、夫を刺したのはお前なのか? 俺にワインを飲ませて眠らせ、アリバイを作って。ここからなら一時間で行って帰って来られる」
疑いたくなかったが、君子の言葉から推測したら疑うしかなかった。
「バカね、あなた。モーセは自分の手を汚したかしら?」
「陰謀を企んだが、直接手は下していない。処刑は裁き人達と、祭司達が。
ピネハスも血が滴る槍を持っていた……けどそれは夢の話で、関係ない!」
俺は下らない質問をされて気が立ち、大声で叫ぶ。
「あなたの足元にある槍の先も血が滴っているわね。それに……」
足元の槍? 俺は恐る恐る足元を見た。言った通り槍がある。しかも見覚えがある。バカな。
「あなた、コズビとジムリ、それにもう一人、男を刺したでしょ? それが私の夫なのよ。初めてにしては上出来だったわね。バスローブも返り血で濡れてるわね。シャワーを浴びてきたらいいわ」
狂っている、薄ら笑いを浮かべている君子は狂っている。
「ああ、あなた信仰が崩れていくって言ってたけど、私は逆。神様って本当にいるのね。そして神に不可能な事はないのね。あなた牧師のくせに……」
君子は大声で笑いながら、俺の鼻を2回人差し指で突っつきこう言った。
───信仰がなければ、神を十分に喜ばせる事が出来ないのよ!
モーセの陰謀 星都ハナス @hanasu-hosito
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