第3話 ジムリとコズビを殺せ!

「バアル……コロセ……バアル崇拝……殺せ!」


 俺はどのくらい意識を失っていたのだろう。外から大きな声が聞こえて目が覚めた。しかも物騒な言葉だ。バスローブを羽織り声のする方へ向かった。


「バアル神を崇拝した者たちを殺せ! バアルにひざまずき、ミディアンの女たちと姦淫を犯した者全てを処刑せよ! 神の怒りが頂点に達した。殺せ!」


 二日酔いで頭痛がする。声の主がモーセだと分かって眩暈がした。


「モーセ様、イスラエルの民はもう罪を犯したのですか?」


 モーセは俺の質問に答えないで、さめざめと泣く女の肩に手を置いた。女たちは皆、モーセの周りに座り、粗布をまとい灰をかぶっている。


 古代イスラエルの民の悔い改めのやり方だ。すでに祭りが終わり、神罰が下される事を知った。いつそんな事が起きたのだろう。モーセとピネハスたちがコズビと話していたのは昨晩だったはずだ。俺はまだ夢の途中なのか、混乱していた。


「おお、兄弟、久しぶりだな。あれから三日三晩寝ていたぞ。……それより事は成った。コズビとジムリの策略により、多くのイスラエルの民が誘惑に負けた。神はモーセ様に命じられた。罪を犯した者を処刑せよと」


 声をかけられて振り向くと、ピネハスが血のついた槍の先を俺に見せ、もう何人も殺してきたと言った。


「偶像崇拝と姦淫の罪で神罰に値する者が二万四千人もいる。裁き人だけでは処刑しきれない。祭司たちも加わっている。兄弟、手を貸して欲しい」


「冗談じゃない。俺は牧師だ。牧師が殺人なんか出来る訳ないだろう。それより、コズビとジムリの策略とはどういう意味だ? 二人に自分の計画を遂行させたのはモーセではないのか! 俺はこの耳で聞いた。モーセの陰謀だろ」


───もう悪夢は終わりだ。こんな夢こりごりだ。現実に帰してくれ。


「タカユキ、お前も同罪だと言っただろう。お前は姦淫を犯した。コズビと寝た。いや、すでに姦淫を犯してきた。その事を公にしたくなかったら黙って私の命令に従え。まずはコズビとジムリ、そして一緒にいる男を殺せ!」


 モーセがこっちに向かってくる三人を指差し、俺の足元に槍を投げた。


「ちょと待て! 俺がジムリとコズビを殺したら、ピネハスはどうなる? 悪を容認しないピネハスが二人を殺したと後代に伝わって……なっ、なんて事だ。そういう事か!」


 俺は一番大事な事を忘れていた。ピネハスが二人を殺した事も、その行動が神に喜ばれて祝福された事も全て、モーセが書いたのだ。民数記の筆者はモーセだ。自分に都合の悪い事は隠蔽し、嘘を書く事が出来る。


「おい、ちょっと待て! イスラエルの神は侮られる事のない神だ。モーセが真実を書かなければ、お怒りになるのではないか!」


「タカユキ、甘い。冷静になって考えてみろ。エジプトのファラオを海に沈め、バアル神を崇拝した者を罰したのは何のためだ? イスラエルの神が全地で至高の神と高められ崇拝されるためだろ?」


 俺はその言葉を聞いてめまいがした。『出エジプト記」を書いたのもモーセであり、モーセに奇跡の力を与えたのが神だ。


 モーセと神は一心同体。モーセが殺人を犯そうが無かった事にされ、異国の女と結婚しても罪に問われない。その代わりにモーセはイスラエルの神だけが、唯一の神、至高者であると全地に伝えたのか。


 イスラエルの神は、わざとエジプトのファラオの心を頑なにし、十の災いを下した。自分に反逆する者を徹底的に滅ぼしたんだ。


 俺は今まで疑問に思っていた事全てに合点がいった。


「モーセ、本当はイスラエル国民をエジプトから救出した事を後悔しているのではないか? 荒野で散々、不平不満を言った民を憎んでいたんのではないか?」


「ふ、タカユキ、やっと気がついたようだな。シナイ山で十戒、つまり石の書き板を与えられた時に、すでに私と神は自分たちに反逆する者は必ず殺すと決めていた。食べ物がマナだけだと文句を言い、水がないと出せと言い、挙句の果てに、私を、この私を指導者には相応しくないとまで。我慢の限界だった」


 モーセは杖で二度地面を打ち叩く。モーセの怒りが伝わってくる。十戒を破ったゆえの処刑だと表向きは見せ、真実は反逆者たちを滅ぼす口実だったのか。


 しかも神と結託していたなんて誰も想像していなかっただろう。


 もう俺が知っているモーセではなかった。忠実で温和で謙遜だと信じて疑わなかった信仰の人、モーセ像が壊れていく。


「タカユキ、感傷に浸っている場合ではない。さぁ、彼らがやってきた。あの天幕の中でまた罪を犯すだろう。タカユキ、ジムリたちを殺せ!」


 自分の姦淫の証拠を消すために殺人を犯す愚かさを、俺は分かっていなかった。いや、もうどうでもよくなっていた。殺ったとしても夢の中だ。罪には問われない。


 神とは何だ! 罪とは! 信仰とは!


 今まで信じ積み上げてきた信仰が崩れていく。


 俺は槍を拾うと、ジムリ達の後を追って、天幕に入った。



 ギャー! 


 ギャ。


 キャー!















 



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