フェスの夜
がしゃむくろ
一話完結
僕はフェスにきていた。一人で。
純粋に音楽を楽しみたいわけでもなければ、ライブがこの上なく好きなわけでもない。
それがなぜ、こんな山奥で開かれるフェスに単身やってきたのかといえば、その行動によって、何かが変わることを期待したからだった。
音楽とアルコール、生々しい汗の臭いが理性を狂わすこの空間ならば、この単調で平板な人生を変容させてくれると思った。
包み隠さず言えば、女性と関係が持てることを何よりも望んでいた。
僕と同じように、一人でふらりとやってきた女性。そういう人ならば、自然と共鳴し、互いに惹かれ合ってもおかしくはない。
そんな期待という名の妄想で胸がいっぱいだった。
それは間違いだった。
めぼしい女性の側にさりげなく近づき、様子をうかがう。ただ、それだけ。僕から声をかけることもなければ、当然、僕に声をかける女性はいない。
巨大なスピーカーが吐き出すサウンドを浴びながら、他の観客の乗りに合わせて適当に体を揺すり、空いた時間にホットドッグを食べ、トイレに並んでいるうちに、いつの間にか真夜中になっていた。
夜通しのDJイベントが行われているブースに足を運んでみたが、僕は空気か、あるいは踊り狂っている観客の障害物でしかない。あまりにも場違いな空気に、五分と待たず退場してしまった。
もう、このフェスに僕の居場所はない。
どこかで野宿でもして始発のバスまでやり過ごそうかとも考えたが、夏とはいえ、深夜の山は冷える。
そこで僕が目指したのは、会場に隣接するホテルだった。予約はしていないし、これから部屋を取る気もない。そもそも、空いている部屋などないだろう。
しかし、これくらい大きなホテルならば、人一人くらいの場所は余っているはず。僕はそう考えた。
エントランスをくぐり、フロントを無視して廊下を道なりに進んだ。すると、突き当たりに丸テーブルと椅子が並ぶ、大学の食堂のような空間が現れた。
看板には「くつろぎスペース ご自由にお使いください」とある。
利用時間はとっくに過ぎていたが、自分と同じような魂胆を持っていると思しき数人の男女が点在しているので、問題ないだろう。
ここで、朝まで過ごすことに決めた。
なるべく他の人間のテリトリーを犯さないよう席を選び、椅子に座って、机にリュックを置く。それを枕代わりに突っ伏した。
結局、何も変わらなかったな。
今日一日をなぞり返し、ぼんやりとそんなことを考えていた。
近くで男の声がした。
「申し訳ございませんが、利用時間外ですので、部屋にお戻りください」
警備員が僕よりも先に陣取っていた男性に話しかけていた。
並べた椅子に寝そべっていた男性は、ヘッドホンを外して「はい?」と聞き返す。
「利用時間外です。部屋にお戻りください」
「部屋は取ってないですけど」男は詫びれる様子もない。
「ここは、宿泊のお客様以外にはご利用いただけないんです」
「えっ、出てけってこと?」
「ご利用いただけないんです」
警備員の口調がやや強くなった。その圧力が効いたのか、男はそれ以上抵抗することなく、机に広げていた荷物を片付け始めた。
そのやり取りを眺めていた他の招かねざる滞在者たちは、警備員に促される前に自ら出ていった。
僕もそそくさと退散した。
ホテルから出ようかとも思ったが、他に僕を受け入れてくれる場所がどこにあるだろう。仕方なく一階をうろうろしているうちに、トイレが現れた。
入ってすぐ右手に手洗い場があり、突き当たって左に曲がると、片側に小便器が五つ並んでいる。その反対側は、個室が三つ設置されていた。いずれもドアが開放されていて、中には誰もいなかった。
そこで、思いついた。ここなら、誰にも邪魔されず一夜を越せるんじゃないか、と。
警備員の「ご利用いただけません」という言葉が浮かんできたが、異常を感じたりしなければ、わざわざトイレの個室にまで声をかけてくることはないはずだ。
ベビーチェアが設置されている一番奥の広い個室に入り、鍵をかけた。
洋式便座の蓋をおろし、そこに腰掛ける。スマホを見ると、二時を過ぎていた。
とても快適な空間とはいえない。しかし、自分を拒むものがいないと思うと、それだけで居心地良く感じた。
イヤホンを耳に突っ込み、音楽を再生する。
腹の底から絞り出したような苦痛に満ちたボーカルと、ドロドロとしたギター。その音が心地よく、心が落ち着く。
やがて、僕は眠った。
何かの気配を感じて、僕は目を覚ました。それは隣の個室からだった。
ガサガサ。ヌチャ。ヌチャ。
そして微かな息づかいが聞こえる。
イヤホンを外して、聞き耳を立てた。「アッ」だとか「ウッ」だとか、短い声が混じっている。
人がいる。それも一人ではない。
僕はじっとしたまま、しばらくの間、隣から漏れてくる音に集中した。
どうやら、二人の男女がいるようだ。会話はないが、時々何かをささやき合っている。「やばい」「きそう」とか、そんな内容だった。
しばらく経って、確信した。隣で行われているのは、セックスだ。
途端に、言いようのない気まずさに襲われた。DJイベントの場に引きずり戻されたような気分だった。
ここには、もういられない。反射的に、僕は出ていこうとした。自分がいたという痕跡を残さないように。気配を消して、ゆっくりと。
ところが、ポケットからスマホが転がり、床にゴンと当たった。
「アッ、ちょ。隣、ウンッ、やっぱ人いるじゃん」女のひそひそ声だ。
「いいよ、気にすんなよ」
「イッ、嫌だよ」
「見えねえんだから、大丈夫だよ」
それだけだった。二人にとって、僕は透明な存在のようだ。
彼らの行為は、さらに激しさを増していく。まるで、ここは私たちの空間だとでも主張するように。
そのことで、僕は怒りを覚えた。ここはみんなの空間だ。お前たちが発情するための場所ではない。
いや、ここは僕の場所だ。だから、出ていくのをやめた。
再び便座に座り、イヤホンをつけ、音楽を流す。耳がかち割れるくらいの爆音で。
ズンズン、ドンドン。洪水のようなサウンドが、頭の中を埋め尽くした。
ズンズン、ドンドン、ズンズン、ドンドン。
ズンズン、ザクザク、アンアン、ズンズン、アンアン、ザクザク、アンアン、アンアン、アンアン……。
あれ、おかしいな。爆音の中に、女の喘ぎ声が混じっている。いや、違う。楽器の音が、喘ぎ声に変化していった。
アンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアンアン──。
喘ぎ声のビートだ。
ギョッとした僕は、イヤホンを引き抜いた。
そこで異変に気がついた。
男と誰かが口論しているのだ。
「だから、うるさいんですけど」
「っるせーな。関係ねえだろ」
「いや、あなた達がうるさくて寝られないんですよ」
「こんなところで寝てるやつの方が、おかしいだろ」
「トイレはみんなが使う場所ですよ。セックスする方がおかしいですよ」
非難している男は、個室の外側から声をかけているようだ。
「うるせえ。引っ込んでろ」
「きっと隣の人も迷惑していますよ」すると、僕のいる個室のドアがコンコンとノックされた。
「あなたもそう思いますよね?」
唐突に発言を求められ、思わず顔が強張る。
何だよ、急に。やめてくれ。巻き込まないでくれよ……。
心でそう懇願しながら、僕は黙った。再びノックの音がする。
「寝てるんですか? 起きているなら返事してください」
やめて、やめてくれ。
「お前、しつこいぞ。とっとと失せろよ」隣の声が割り込んできた。
「セックスやめてくれたら、失せますよ」
「やめねえよ」
「外に出てきて、話しませんか? 顔が見えないと、何だか気持ちが悪い」
「出るか、ばーか」
「ブスなんですね」
「あっ?」
「彼女。ブスなんでしょ。見られたくないんでしょ。ブスとセックスしてるところを」
女の喘ぎ声が止んだ。ガサゴソと音がし、ファスナーを上げる音がした。
「ねえ、やめなよ。ほっときなよ」
「見せてくださいよ。ブスとセックスしてるところ」
「てめえ……」
ゴンと大きな音とともに、個室の壁が震えた。個室にいた男が、ドアを蹴り飛ばしたようだった。
続けて、別のゴンという音がした。
「なめやがって。変態野郎が」
ドン……ドン……ドン。打撃音が止めどなく続く。外の男が殴られているのだろう。ゲホゲホと呻吟していた。
僕は動けなかった。この壁に囲まれた空間なら、大丈夫。ここでじっとしていれば、巻き込まれたりはしない。
「もういいよ。死んじゃうよ」
「あと一発だけ」ドスン。何かが倒れたようだ。
「気が済んだ? もう部屋にいこうよ」
「まじ、こいつのせいで白けちまった」
「トイレなんかでやるからいけないんだよ」
「でも、興奮したろ?」
「んっ」
クチャクチャと、粘っこい音が隣の個室から流れてくる。舌と舌が絡み合う音。
「あともうちょっとでいきそうだったから。すぐ終わるから」
「もう、変態」
二人は、またまぐわい始めたようだ。
なぜ、出てっていってくれないのだろう。僕がいるのに。ここは、僕の空間なのに。
猿以下の畜生ども。
早く出ていけ、出ていけ、出ていけ……!
「あっ、後ろ」
女がそう言った直後、ビシャッと液体が飛び散る音がした。
「えっ、え、えっ?」
ゴフッゴフッと出来損ないのうがいみたいな音がしている。
グゥォエエエ。男が何かを吐き出した様子だった。
「お願い。助けて! 助けて!」
突然、女が壁を叩きながら、こちら側に向かって叫び始めた。
「やめて! やめて!」
短い悲鳴を最後に女の声がしなくなった。
壁一枚を隔てて、何か良くないことが起こっている。
しばしの静寂を経て、数々の変な音が奏でられた。
ドゴッ。グチュグチュ。ジャキ。ジョギュ。ベチョ。ペチョ。ニュモ。グチョ。ニュモ。ドシュ。ブッ。ピュー。ギギ。ベギ。ニュニュニュギュ。
壁の下の隙間からは、赤黒い液体が流れてきている。
きっと血なのだろう。それは床一面を覆っていった。
たぶん、セックスをしていた二人は死んだ。これは彼らの血なのだ。
僕はすっかり青ざめ、足下を見下ろしていた。
「おーい、お隣さん」
上から声がした。驚いて見上げると、壁の上から男がこちらをのぞきこんでいる。殴られたからか、まぶたがひどく腫れ上がり、唇も切れていた。鼻も曲がっているように見える。
「あれ。あなた、さっき休憩スペースにいた人でしょう? 奇遇だなあ」
男は僕に見覚えがあるらしい。あの場所にいた人間の一人だろうか? 思い出せない。というより、血で汚れた真っ赤なその顔は、たとえ知っていても判別できないだろう。
「これで、殺っちゃいました」カッターを掲げていた。
「あっ、お礼なんていいですよ。僕が勝手にやっただけですから。ほんと、迷惑でしたよね。こんな場所で盛っちゃって。猿みたいなやつらでした」
男は気味の悪いほど、にやついている。顔が腫れて細目になっていたので、恵比寿さまみたいに見えた。
「そういえばノック、無視しましたよね。まあいいですよ。面倒ですもんね、揉め事って。あなたも一人でフェスに来たんですか?」
うんうんと首肯する。
「僕たち、仲間ですね。朝まで暇ですよね。始発のバスまで、あと二時間くらい。どうします? せっかくだし、一緒に遊びませんか? 何をしたいですか? ねえ、聞いてます? それなら、僕が勝手に決めますね」
そういって、男は顔を引っ込めた。隣の個室から、また音がした。
ネチャ。ブチッ。ズチュ。
「投げますよ」
壁を超え、何かが飛んできた。肩に当たり、床に転がる。
目玉だった。
赤くヌメヌメとした繊維のようなものがくっついた、取れたてほやほやの目玉。
男がまた、顔をのぞかせた。
「クイズ。それは男のでしょうか、女のでしょうか。さあ、どっち?」
僕はじっと、目玉を見つめている。何も答えずに。
「……はい、時間切れ。答えは女でした」
次いきますよと言い、男はまた引っ込んだ。
さっきと同じく、不快な音がして、何かが投げ込まれる。
汚い入れ歯みたいな物体だった。
「どっちだと思います? 男のか? 女のか?」
もうやめてほしい。頼むから、構わないでほしい。
「……まだ無視するんですか。無礼な人ですね」
男はまた戻って、何かを始めた。
「次はサービス問題ですよ」
投げ込まれた何かは、頭に当たり、腿の上に着地した。
「ほら、簡単でしょ。男、女、どっち? ……はあ。あなたにも付いてるでしょ。ほら、その股の間についているのは何ですか? ほら、言ってみて。恥ずかしがらずに」
僕は、腿の上に転がっているものを手で払った。
それに懲りることなく、男は次々と、死体から肉片を切り取っては投げ込み、クイズを出した。
長い髪がついた頭皮、爪、唇、どこかの内臓の一部、方耳──僕はただひたすら、無視し続けた。
やがて、僕の足下には、先ほどまで快楽を貪っていた二人の肉片が積み重なり、小山ができ上がった。幾多におよぶ人間の部位がランダムに混じり合ったそれは、まるで新種の生命体を思わせた。
男はようやく音を上げた。
「はあ、もう飽きちゃいましたよ」
足音がし、僕のドアの前で止まった。
「聞いてもいいですか? 何でそんなに、自分の殻に閉じこもるんですか? そうやって、心を閉ざして、自分だけの世界で生きるのって、楽しいですか? 何しにここへ来たんですか? トイレに籠るためですか? 隣で人が殺されてるっていうのに、何でそんなに無関心でいられるんですか? 傷つかないためですか? 自分を守るのに必死すぎて、周りが見えないんですか? 何のために、口があるんですか? あなたの意見を言うために、ついているんじゃないんですか? 無視するなら、口なんかない方が良くないですか? セックスしたいなら、正直にそう言うべきじゃないですか──」
男は、ドアの下から手を入れて、僕の足下にカッターを置いた。
「それ、あげますよ。困ったら使ってください」
いつの間にか、男の気配は消えていた。
意を決して個室から出ると、やはりそこには誰もいなかった。
隣の個室には、人の形にも見える、よくわからない肉の塊が、横たわっていた。
バス停に続く長い列に向かって歩いていると、けたたましくサイレンを流しながらホテルを目指す数台のパトカーとすれ違った。
きっと清掃スタッフか誰かが、通報したのだろう。
もちろん、僕が通報していれば、もっと早くにパトカーが駆けつけたはずである。
しかし、そうはしなかった。あの事件に関わるのが面倒だったから。
第一発見者ともなれば、事情を聞かれたりで拘束されることが、火を見るよりも明らかだ。
それは嫌だった。ろくに睡眠も取れず、僕は疲れていた。一刻も早く、うちに帰って布団にもぐりたい。
その一心で、怠い体に鞭打ち、進んでいる。
行列の最後尾には、若い女性のグループがいた。彼女達はこちらを見て、小さな悲鳴をあげた。
「大丈夫ですか? 救急車呼びましょうか?」
薮から棒にそんなことを言われ、きょとんとしてしまった。
「えっ、救急車ですか? 何で救急車?」
「何でって……そんなにたくさん血が出ているのに……」
あ、そうか。あの男が投げ込んできた肉片のせいで、服が汚れてしまったんだな。トイレから出るとき、鏡を見ておくべきだったと後悔した。
それにしても……。僕はいま、ここへ来て初めて会話をしている。しかも、女性と。
急に気持ちが昂った。それを悟られまいと、必死に喋った。
「驚かせてしまってすみません。でも、大したことないんですよ」
精一杯の笑顔を作りながら答えたのだが、彼女達は互いに顔を見合わせ、訝しい表情をしている。
何か、まずいことを言っただろうか?
「顔は痛くないんですか? その、そんなに腫れているのに……」
腫れてる? 僕はスマホのカメラを自撮りモードにして、顔を映した。
あの男の顔だった。
「ねえ、何か変だよ……」
女性達がひそひそと何か言い合っている。もはや、僕のことなど心配している様子はない。
どうするべきかわからず、僕は途方にくれた。
「困ったら使ってください」
男の一言が思い出された。
僕は恵比寿様のような笑みを浮かべて、ポケットに手を突っ込んだ。
(終)
フェスの夜 がしゃむくろ @ydrago
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