エピローグ

 ここからは後日談である。

 林派会長として叛乱鎮圧に一役買った古池谷こいずみ甚太郎じゅんいちろうは党内で俄然重きをなすようになったが、さすがに「YKK」の友情もこれでおしまいだろうなどと人々が取り沙汰していたちょうどその頃、すっかり数を減じた葛西派の集う、お通夜のような葛西圭一誕生パーティーの席に古池谷が姿を見せた。

 古池谷は呆気にとられる葛西かとうの肩に手を回しながら

「YKKは友情と打算の二重構造なんだ」

 と記者団に向かって語っている。

 その場に出席していた山端やまさきが後年語ったところによるとこれは

「あんたら(葛西山端)の番は終わった。次は俺が起つから支援しろ」

 という意味合いの、古池谷一流のパフォーマンスだったのだという。

 実は葛西は蹶起直前、古池谷に「起つべきか起たざるべきか」と相談していた。これに対し古池谷は

「俺ならもっと早く起っている」

 と答えている。葛西は古池谷の賛同を得たと思ったことだろう。

 しかし事が失敗に終わってからよくよく思い返してみれば、この古池谷の回答にはなんとも微妙なニュアンスが含まれていたことに気付かされる。

「もう時機を逸している」

 そうも解釈できるからである。

 古池谷にいわせれば、

「時機を逸しているから蹶起は止めるように俺はアドバイスした。それでも蹶起して失敗したのは葛西なんだから仕方がない。そんなことより次は俺が総裁選に立候補するから、かねてからの約束どおり支援しろよ」

 ということだったのだろう。

 満面の笑みの古池谷と、苦虫を噛みつぶしたような表情の葛西。対照的な二人が肩を組む写真が残されている。

 もり内閣が退陣したあとの総裁選で古池谷は当選し、久々の長期本格政権を樹立することとなった。古池谷の後塵を拝する形となった葛西の心中如何ばかりだったか。


「葛西の乱」後、名門紘池会は分裂した。そのうちの一派を率いることになったのが山垣たにがき定壱さだかずである。

 ホテルオークラ東京の一室で

「あんたは大将なんだから!」

 との名言を吐いたあの人物だ。

 白面で線が細く、語り口調も柔和だった山垣に欠けていたものは「力強さ」だった。力強いイメージに欠け、損な役割を担うことも厭わないような、政治家離れしたどこか人の好さが滲み出ていたためか、山垣はそのころ下野して政権の座から転げ落ちていた自権党総裁に選ばれている。

 自権党総裁の座に魅力があったのは、それが総理大臣の座とワンセットになっていたからだ。そこに座れば自動的に内閣総理大臣として巨大な権力を掌握することが分かっていたからこそ、皆が血眼になって総裁の椅子を争ったのである。

「下野した自権党総裁の椅子なんか、なんの魅力もない」

 とまではいわないが、自権党総裁で内閣総理大臣になれなかった政治家が、このころまでに一人しかおらず、未だに

「悲運の政治家」

 とか

「総理大臣になれなかった唯一の自権党総裁」

 などといった枕詞とともに語られるとあっては、政治家としてはかえって不名誉ですらあった。

 山垣はその「空虚の椅子」に座ったのである。

 山垣は日頃の柔和な印象もかなぐり捨てて、時の政権与党進歩党みんしゅとうに激しく挑み掛かった。実際このころの山垣には、失策の多かった進歩党政権を打倒して政権与党に返り咲き、内閣総理大臣に昇る目算があったのだろう。その激しい戦いぶりは、或いは「白面の書生」然とした自らのイメージとの戦いだったのかもしれない。

 しかし山垣は自分との戦いに敗れた。いよいよ進歩党打倒が視野に入ってきたというその時になって、自権党が次のリーダーに選んだのは阿賀あべ景三しんぞうであった。阿賀体制下の自権党は進歩党を政権の座から引きずり下ろし、与党に返り咲いた。

 これに伴い山垣定壱の名には

「総理大臣になれなかった二人目の自権党総裁」

 という枕詞が付されるようになった。阿賀景三が戦後最長政権を樹立したこととは好対照であった。

 一方で、絶妙のタイミングでの総裁交代は山垣のイメージ云々ではなく、「葛西の乱」に際して最後の最後まで叛乱部隊に身を起き続けた山垣を、自権党世論が忌避した結果だとする見方もある。過去の山垣がとった行動に対し、自権党の人々は結局ノーを突き付けたという見解である。その意味でも、「自分との戦いに敗れた」とする山垣評はやはり動かない。

 事ほど左様に「葛西の乱」は後年まで影響を及ぼし続けたのである。

 山垣の悲運はまだ続く。交通事故(サイクリング中の単独転倒)により受傷し、半身不随の障害を負ったのである。

 それでも党重職、国務大臣を歴任した実力者山垣の復帰を望む声は多かった。実際、障害者の視点から求められる政策を実現する上で山垣の存在は社会に有用だったはずなのだが、彼は議員の椅子にはこだわらなかった。生来の淡泊ゆえか、己が不運に嫌気が差したためか、それは分からない。

 兎も角も、山垣を襲ったこれら一連の悲運こそ、真の残酷物語と評するに相応しい。


 熱気に包まれていたホテルオークラ東京の一室に、白けきった眼があった。山垣らとともに最後まで葛西に付き随った古河すが久秀よしひでの眼であった。

「しらーって感じですよ。(林)総理の首を獲るというから命懸けでやったのに」

 事件後古河は葛西派を離れ、それ以降は党内で如何なる派閥にも属することがなかった。

「人心読みがたし、派閥恃むに足りぬ」

 これが、葛西の乱を経てたどり着いた境地だったのかもしれない。

 派閥に属さなかったことは、かえって幅広い人脈を古河にもたらした。政策面でも実行力のあることを示し、阿賀内閣ではその安定した答弁の能力を買われて長く官房長官の重責を担った。

 パンデミック(感染症の世界的流行)が社会を覆うなか、阿賀に代わって内閣総理大臣に指名された古河であったが、その仕事ぶりは平時のようには運ばなかった。長かった阿賀一強時代に倦んだ人々からは「阿賀亜流内閣」などと呼ばれ支持率は低迷した。

 内外からの批判の末、父親同様国民的人気の高かった古池谷こいずみ甚士郎しんじろうを幹事長に任命することで難局を乗り切ろうとした古河だったが、将来の総理総裁候補として足固めをしておきたい甚士郎には、沈みゆく古河内閣と運命を共にしなければならぬ義理など微塵もなかった。結局古河は、甚士郎を幹事長に据えるどころか、かえって当の甚士郎に鈴を付けられる形で総裁選出馬を断念させられることになるのである。現役総理の総裁選不出馬は数えるほどしか前例がなく、これと恃んだ人物に介錯を委ねることとなった顛末は、残酷譚というより滑稽譚と評した方が相応しい。


 退陣した古河に代わって総理総裁の座を射止めたのは岸辺きしだ孝雄ふみおであった。「葛西の乱」から二十年以上の歳月を経て再統一した紘池会会長が、遂に内閣総理大臣の椅子に座ることになったのである。

 葛西かとう圭一こういち尾長のなか勉務ひろむも、その時を目にすることなく既に泉下の人になっていた。

 葛西本人は喜んでいるかもしれない。しかしその葛西を日本の大将に担ぎ上げるという夢を果たし得なかった尾長はどうだろうか。平和日本を希求し続けたあの硬骨漢は、葛西圭一とは違う、別の何者かが総理に就任したからといって、安直に喜んだりはしないだろう。

 私にはそう思われてならないのである。


                 (終)

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政界残酷物語――あんたが大将 @pip-erekiban

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