ひまわり迷宮

源公子

第1話 ひまわり迷宮

「そんなこといきなり言われても無理だよ」


 僕がそう言うと、隆くんが土下座を始めた。ここは伊豆諸島。八丈島の八丈町立大賀郷小学校。ガジュマルの木のしげる朝の校庭。


「そこをなんとか、男が恥を忍んで告白したんだぞ。頼むよ、一生のお願い」


 まさか親友の隆が、未だにオネショしてたなんて。何とかしてはやりたいけど。


「優のお母さん、沖縄のノロって言う凄い巫女さんなんだろ? その人が何かひまわり使って願掛けしてるって聞いたんだ。だからオイラも願掛けお願いしたいんだよ」


 僕のお母さんは、沖縄の生まれで、ノロっていう神官だ。琉球王家の血を引くノロ殿地(どぅんち)って言う、地方の大地主みたいな家柄だったらしい。

 今は沖縄はアメリカ軍に占領されて、親族と連絡も取れなくなってしまった。


 一九四五年の終戦の年、お父さんは軍の命令で日本国中の神社仏閣を巡り、日本の勝利とアメリカの敗北を祈願させるため、走り回っていたのだそうだ。


「神頼みで勝てると信じてたんだから、負けて当たり前だ。でもお陰で戦地に送られなくて良かったよ」とお父さんは笑う。


 そして沖縄戦の始まる寸前の三月に沖縄入りし、全地区のノロ達に、日本の勝利を祈らせようとした。


 でも、お母さんのお母さん(つまり僕のおばあちゃん)は、とても霊力の強い人で、ガンダーリィ(神垂れ)で、沖縄は戦場になり、ノロ達も殺され、日本が負けるのをハッキリ見たといった。


「神意は変えられないが、その事を口外せぬ代わりに、私の娘を嫁にしろ。主は女を幸せにする相が出ている」

 そう言われて、その場でお母さんをお嫁にもらって来たんだそうだ。


「すごい美人で一目惚れだったんだ」

 とお父さん。禿げのくせに。


「でもお母さんはお父さんと結婚してから、一度も辛いとか不幸だとか思ったことないですよ」とお母さん。


 おばあちゃんの見立ては正しくて、二人は運命の相手だったってわけだ。


「お前だっていつか運命の相手に会えるさ」

 父さんの言う通りになればいいけどな。うふ。


 でも、沖縄の琉球神道は、世襲制で女の人しか継げない。

 霊感の強い血筋の霊威は、三代後(祖母から孫娘)に引き継がれるといわれてる。お母さんはおばあちゃんの血筋を絶やさないために、跡継ぎの女の子を欲しがってた。 


 先月、念願の赤ちゃんを授かったのに、流産してしまい、お医者さんにもう赤ちゃんは望めないと言われたのだ。

 それでお母さんは、あのひまわり畑を作ったんだ。

 女の子を授かるよう願いをかけて。


「でも、無理だよ。花も終わったし、今日は土曜日で半ドンだから、お父さん午後からひまわり刈るって言ってたもの」


「だからだよ。今日は三時間目に全校生徒グランドに出て、日蝕の観測する事になってるじゃないか。全学年ゴチャゴチャになるから二人くらい抜けたってバレやしないよ」


「でも、学校サボるのはさ……」


「それ、私達も行く。まぜて」

 女の子達が木の影から飛び出してきた。うちの組のお喋り三人娘に立ち聞きされたのだ。


「どんな願い事なんだよ」

 恐る恐る僕は聞いてみた。


「アタシ、こんな島出て歌手になるの。江利チエミみたいな」


「ワタクシは女流小説家。未来の芥川賞作家よ」


 リーダーのデブのアキコに続いて、のっぽで眼鏡のトキコも言った。どんな根拠があるのやら鼻高々だ。でも、最後のチビのノリコの願いに僕はウッとなる。


「妹が、ひどい喘息なの。本土の病院で診てもらって、治してあげたいの」


 断わりずらい……。迷っていたら、アキコがトドメを刺した。


「頼んでくれなきゃ、隆がまだオネショしてるって言いふらしてやる」


「わ、分かった。後でみんなで抜け出そう」

 僕はそう言うしかなかった。


 チャイムがなり、僕等はいっせいに教室に走った。

 一九五八年、四月十九日。今日の十二時四十四分頃、“金環日蝕”が起こる予定だっ

 た。



 ◇



「優さんそんな約束しちゃったの?」

 突然現れた僕たちを見て、お母さんは困っている。


「ゴメン、お母さん。ひまわり畑片づける前に、一回だけでいいから試させて」

 僕が両手を合わせてお母さんを拝むと

「お願いしまーす」と、みんな揃って頭を下げた。


「仕方ないわね。ただし、日蝕が始まる前に終わらせるのよ。これは太陽神ティダへの願いの通路なんだから」

 やったー!


 僕たちはゾロゾロと、家から少し離れた海沿いにある、ひまわり畑に向かった。

 ゴザと黒い布。湯呑みとヤカンに入ったお茶、タライとバケツの水付き。

「後のお楽しみ」と、お母さんが言った。ちょっとしたピクニックだ。



 ひまわり畑につくと、お母さんはポケットから麻紐を巻いた玉を取り出した。


「さて説明します。この迷路はおばさんの故郷の沖縄に伝わる『ティダ(太陽神)の願い舞』と言うものなの。

 願い事を唱えながら太陽の環の動きをあらわす踊りを舞って、その足跡に沿ってひまわりを植える。

 少しずつ太陽に向かって伸びるひまわりを見ながら、収穫が終わるまで、毎日一度その道を、願いを唱えながらなぞって歩く。

 収穫が終わると願いが叶うと言われているの」

 みんな真剣な顔で聞いている。特に隆とノリコは。


「でも、この舞は環が幾重にも重なった形で踊るから、すごく複雑で雑誌なんかにある四角い迷路みたいにはいかないの。

 だからこの麻紐玉をつかいます。そうやって、おなじ環を回り続けて出て来れなくなるのを防ぐのよ」


「あ、それギリシャ神話に出てくるダイダロスの迷宮ですね。

 迷宮の奥に住む、ミノタウロス退治に来たテーセウスのために、ミノス王の娘のアリアドネが彼に糸玉を渡して、迷宮で迷わないで帰れるようにするの」

 トキコが叫んだ。さすが作家志望、だてに本は読んでない。


「その通りです。紐を垂らしながら進んで、糸が重なりそうになったら別の道を選ぶ。この繰り返しで、ぐるっと回って入り口に戻って来れたら、太陽神の舞いを踊った事になるから、願いが太陽神に届いた事になるの。

 でも神様は気まぐれだから叶えてくれないかもしれない。それでもやってみる?」


「はい」

 みんな揃って返事した。


「私一番ね」

 デブのアキコが麻紐玉を取った。

 紐の端っこをヤカンにつないで、ひまわりの中に入っていく。


 その間にお母さんは、ゴザの中から出した黒い布をタライに敷いて、バケツの水を入れた。水面に太陽がくっきり映る。


「中国では、こうやって太陽を水に映して日蝕を見るの。目を痛めたりしないし、みんなで見れるわ」

 お母さんがそう言った。今と違って観測用メガネなどない時代の知恵だ。


 その時、「もうだめ―!」と悲鳴があがり糸が引っ張られた。

 アキコのヤツ、五分と持たないじゃないか。

 次のトキコは、十分でダメだった。


 でも、チビのノリコは三十分以上かかってやり抜いた。

 ノリコは出てくるなり泣きだした。嬉し泣きだった。


 無理もない、前に母さんと手を繋いで一度だけ中に入ったけど、歩けば五分くらいの迷路なのに、とても一人じゃ通り抜けられないシロモノなんだ。


「俺、行くわ」

 隆が必死の形相で、麻紐の玉をつかんでひまわり迷路に入っていった。


「お母さん、みんなの願い叶うと思う?」

 僕はそっとお母さんに耳打ちした。


「どうかなぁ。だってこのひまわり畑はお母さんの専用だもの。

 それにこの太陽神の舞の足跡を隠すのは、本当ならサトウキビの苗を使うのが正しいの。でも、八丈島じゃ手に入らなかったから、たまたまあったひまわりを使っちゃった。本来はノロの神事というより、オマジナイみたいなものなのよ」


「あー、やっぱり」

 隆くんとノリコかわいそうに。後の二人はイイ気味だ。


「でもね優くん。人の想いってエネルギーなの。どれだけ本気か、どれだけ信じているかってこと。その想いが本物なら“奇跡”が起きることもある。

 お母さんはそれを信じてこのひまわり畑を作ったの。ニライカナイ(彼岸)にいる、ご先祖様に届くように」


 沖縄にいるおばあちゃんは、ノロの血筋を守るためにお母さんをお父さんに託した。お母さんとおばあちゃんの願い、叶うと良いな。


 そして四十五分が過ぎた。遂に、隆がもどってきた。

「や、やった!」息絶え絶えだった。


「隆くん頑張ったわね。願い叶うわよ、きっと。ほら見て、日蝕もうすぐよ」

 水を張ったタライに映る太陽は、もう半分を切った。

 お母さんは麻紐を玉に巻きおわると、全員にお茶を配った。みんなお茶を飲みながら、日蝕の観察に入った。


 まだ少し時間がある。おあかさん達は、消えていく太陽に見とれている。


 僕は麻紐の玉を取り、端っこをヤカンに縛ると、そっとひまわりの迷路に入って行った。糸をほぐしながら慎重に進む。

 大丈夫、お母さんと手を繋いで一度入った事ある。覚えてるはずだ。環になっている所さえ気をつければいい。なのに紐のある道に出た、環に入ってしまったのだ。


 紐を巻きながらもう一度戻る。背の高いひまわりの作る木漏れ日が、細い三日月になってきた。じき太陽が完全に隠れてしまう。僕は焦って走り出す。


「神様もう少しまって。どうか、お母さんとおばあちゃんの願いを叶えて」


 どのくらい走ったろう。不意に、闇がひまわり畑におりてきた。空気が冷えて行く。日蝕が始まったのだ。


 間に合わなかった――。

 がっかりして立ちどまった時、麻紐の玉を落とした事に気付いた。


「どうしよう」

 真っ暗闇の中、パニックになって、しゃにむに手探りで探したが、見つからない。

 

 その時、僕の左手を小さな手が掴んだ。僕の腰のところで息を吐く音がする。

 まだ小さな子供だ。なんでこんな小さな子がこんなとこにいるんだ?


「こっち」

 ささやくようにそう言うと、その子は僕の手を引いて歩き出した。

 訳がわからないまま、僕はその子に手を引かれて、歩き出した。

 世界がだんだん明るくなっていく。

 気がついたら入り口に戻っていて、僕はその子と手を繋いで立っていた。


「優さん、その女の子どうしたの?」

 お母さんが食い入るように、僕らの方を見ている。 


「女の子?」

 横を向くと、五歳くらいの小さな女の子が、僕の手を握って立っていた。


 ふわふわの白い服は、よく見たら銀糸で描かれたタンポポの綿毛の模様がはいっていて、靴までお揃いだった。

 それはとてつもなく繊細で、まるで花嫁衣装みたいに見えた。


 それにこの髪型――三つ編みなんだろうけど、一番上のツムジから左右交互に少しずつ髪をとって編んで、その中にリボンを一緒に編み込んでいる。不思議でおしゃれなこんな髪型みたことない。

 それよりなにより……その子の顔は、お母さんにそっくりなんだ。 

  

 ちょうどその時お父さんが仕事から帰ってきてこう言った。


「誰だその可愛い子、お前の嫁さんか?」




 それからあとはよくおぼえていない。他の四人は、授業をサボったのがばれて、先生に大目玉をくらった。

 そして僕はといえば、知らない大人に質問攻めにされて、怖がって泣き出した女の子を守るのに必死になっていた。その子は、僕の手を離そうとしないんだもの。


 お名前言える?

 ――なっちゃん。

 お父さんとお母さんはどこにいるの。

 ――パパとママはお墓。

 お家、どこかわかるかな。

 ――ひまわりの向こう側、おばあちゃんの家。

 お家には、おばあちゃんだけなの。

 ――おじいちゃんもいる。おじいちゃん、行くなって言ったの。でもおばあちゃん が『ひまわり畑の向こう側に行って幸せになりなさい』って言うから、なっちゃんこっちに来たの。


 これは……どうも捨て子のようですな。

 駐在さんはそう言った。



 ◇


 なっちゃんは、取りあえず家で預かることになった。

 僕の手を離そうとしないのだから仕方ない。

 お母さんはすごく喜んでいる。お父さんは困って禿げた頭を掻いている。


 僕は困ったのが半分、うれしいのが二倍。

 だってなっちゃんはものすごく可愛いいから。

 風呂上がりに、僕の小さい頃のお下がりのパジャマを着ていても、いい匂いがした。その日は、なっちゃんを真ん中にして、僕とお母さんと三人で川の字になって寝た。



 夜中に喉が渇いて目が覚めた。

 お母さんがいない、お便所かな?

 寝ているなっちゃんの手をそっと離して、台所に水を飲みに行った。


 その帰り道、茶の間でお父さんとお母さんが話し込んでいるのが聞こえた。

 ちゃぶ台の上には、なっちゃんの服とリボンと、靴が置いてある。


「しかし、いなくなった方にしたら、神隠しにあったも同然だ。今頃必死に探してるだろう」


「いいえ、あの子間違いなく捨て子よ。きっと誰か、私が女の子を欲しがっているのを聞いた人が置いていったんだわ。

 パパとママはお墓、おばあちゃんに『ひまわり畑の向こうに行って幸せになりなさい』と言われてここにきたって言うんですよ」


「しかし、あの子の服装はどう見ても都会の子だ。こんな狭い島に、子連れの旅行者が来たと言う話があれば必ず耳に入る。駐在さんが聞いて回ってくれたがそんな事実は無かった」


「海から船できたとしたら? ここは海に近いもの。

 あなたには黙っていたけど、私が沖縄を出る時母が言ったの。

『お前は、男の子しか授からん運だ。だから、家の血族の中から、必ず一人女の子を送ってやる。どうかノロの伝統を絶やさないでおくれ』って。

 あの子私に似てる、どう考えても私の家の血筋の子としか思えない。あの服だって、アメリカの服ならあり得るわ。だからパパとママなのよ」


「しかし、しばらく預かるならともかく、養子縁組となると……」


 そんな話になってたのか……

 聞き耳を立てる僕の左手に、触れるものがあった。

 振り向くとなっちゃんがいた。


「おしっこ」


「あ、お便所ね。連れてったげる」


 お母さん達に気づかれないように、そーっと廊下をもどる。

 繋いだ手があったかい。

 でも、なっちゃんはおばあちゃんに捨てられたんだ、かわいそうに。


「あのね、おばあちゃんが言ったの。

『このひまわりを通っていくと、ひまわりの中に、優しいお兄ちゃんがいるから手をつなぐの。その人は、なっちゃんの未来のオムコサンなの。

 その手を絶対に離しちゃダメ』って。

 お兄ちゃん、なっちゃんのオムコサンなの?」 


 僕がお婿さん――顔に火がついた。

 なっちゃんが僕の運命の相手?

 つないだ手が汗でベトベトで滑りそうになり、慌てて手を離してシャツで拭いた。


 そしたら、なっちゃんは両手で僕の肘にすがりついて、上目遣いに僕を見た。

 今度は全身に火がついた。

 この可愛い子が、僕の未来のお嫁さん? うわぁ!


「トイレ……」


「あ、ゴメン」

 僕は、我に帰ると慌ててなっちゃんの手を引いて廊下を急いだ。


 その夜は手を離さないなっちゃんの寝顔に見とれて、寝るどころではなかった。




 ザクザクと鎌を使う音で、目が覚めた。

 もう朝だ、隣になっちゃんがいない。すっかり寝坊して九時に近い。

 日曜日でよかった。


「なっちゃんどこ?」


 探しながら音のする方に向かうと、お父さんがひまわりを刈り取っているところだった。なっちゃんはお母さんと手をつないで、お父さんがひまわりを刈り取るのをみていた。そうだった。本当ならきのう刈るはずだったんだ。でも……。


「やっぱり刈り取っちゃうの?」


「だって、誰かがまたお願い事に来たら困るでしょう」


 ちがう。僕は本当の理由が分かってた。

 お母さんはなっちゃんを取り返されないよう、ひまわりの通路を通って誰も来れないように壊しているんだ。


 その証拠に決して離すまいと、母さんの右手はなっちゃんの左手をぎゅっと握ってる。僕のお下がりのパジャマを着たなっちゃんは、困ったような顔をしてお母さんを見ている。

 なっちゃんの右手が、何かを探すように空を泳ぐ。

 僕の左手がその手を握る。闇の中、ひまわり迷路で初めて会った時と反対だった。 なっちゃんの顔が僕の方を向き、安心したように笑った。


 お母さんにはなっちゃんが、なっちゃんには僕が必要なんだ。


「なっちゃんは僕が守ります、絶対にこの手を離しません。きっと幸せにします、だからなっちゃんを僕たちにください」


 あの日、刈り取られてゆくひまわり畑に向かって、僕は心の中で誓ったんだ。



 ◇



 一九七○年、春。なっちゃん――今は奈津子の、高校卒業と同時に僕達は結婚した。

 

 あの日、僕が「なっちゃんをお嫁さんにする」と宣言して、父が養子縁組をせず、里子として預かるように手配してくれたおかげだ。


 当時の駐在さんや、みんなの証言を証拠として保管してくれてもいた。

 そうでなくては、DNA鑑定などない時代、奈津子が母の娘ではないと証明するのは難しかったろう。

 二人は呆れるほど似ていたのだから。


「感謝しろよ」と、父は僕を小突き、

 ウェディングドレスを着た奈津子を見て、母は、

「やっとなっちゃんが私の娘になってくれた」

 と言って大泣きした。普通は、息子の方を見て泣くもんだろうに。


 その翌年、一九七一年(昭和四十六年)六月十七日、日米間で「沖縄返還協定」が署名され、沖縄の施政権が日本に変換されることが決まった。


 そして、一年後の五月十五日の本土復帰とともに、仕事を抜けられなかった父を除いて、僕達は沖縄に飛んだ。

 母は、最後までしぶっていた。身元が分かって、奈津子を取られるのではないかと恐れていたのだ。


 でも僕と奈津子は、どうしてもその人達にあってお礼が言いたかった。米軍の占領下で、国境をこえる危険を冒してまで、奈津子を連れてきてくれたノロ達に。

 ところが……。母の親族達は一人残らず既に亡くなっていた。母の故郷は沖縄戦でも特に激戦区だったのだ。では奈津子は、いったいどこから来たのか?。


 その時、奈津子が言った。

「これでいいの。奈津子の故郷はお母さんと優さんなの」

 奈津子の右手が母を、左手が僕の手を強く握る。

 あのひまわりの日のように。

 この手を決して離すまい。僕はもう一度、母の親族の墓に誓った。



 ◇



 あれから五十年以上の時間が流れた。

“僕”と言っていた子供が、いつのまにか“俺”なんて言う、おっさんに――いや、おじいちゃんになってしまった。

 奈津子は白髪を染めてるし、俺は親父に似て見事に禿げた。


 アルバムの中の、あの日父が撮った白黒写真――ひまわり畑で僕となっちゃんが手をつないでいる。あの日から、俺達夫婦の全てが始まったのだ。

 父が心筋梗塞で亡くなった後も、母は一人、島で暮らした。


 娘の春香が結婚し、お腹に千夏がいると分かった頃、癌で入院して

「きっと女の子よ」と言って亡くなった。

 ウチの家系はどうも、男が肩身が狭い。  

   

 転勤の多い仕事で、奈津子には苦労ばかりかけた。

 ずっと社宅住まいだったが、来年六十五歳で定年を迎えるのを機に、二世帯住宅を建て娘夫婦と孫と一緒に暮らすつもりでいる。

 今日もその相談で娘夫婦が孫の千夏を連れて来ていた。


 “ちなつ”とうまく言えなくて、いつのまにか自分のことを“なっちゃん”と言うようになっていた。昔の奈津子のように。

 千夏は奈津子に似ている。隔世遺伝と言うやつだ。

 だから千夏が、「パパ、ママ」と言うたび、どきりとする。

 あの日蝕のひまわり畑を思い出すからだ。――

 パパとママはお墓。……縁起でもない。


 奈津子は「大きくなったら、お父さんお母さんになりますよ」と笑っている。


 家は、土地選びが難しい。娘婿の明くんの通勤もある。

「八丈島に建てると言うわけにはいかんものな」

 俺は父とおんなじ禿げた頭を掻く。


 歳のせいだろうか、無性にあの島が懐かしい。ガジュマルの木、潮風、父さんと母さんのいた家。おねしょの隆くんは、今では島でハイヤーの運転手をしている。

 他の三人はどうしてるだろう。歌手になったとか、小説家になったとかは聞かないが。


「そういえば、今年の五月にまた日蝕があるんです。ちょうど三サロスめだから、八丈島でも見れますよ。みんなで見に行きましょうか」

 娘婿の明くんが言った。


「三サロスめ? どういうことだ」


「サロスというのは、日蝕の周期の単位なんです。紀元前七世紀頃のバビロニアの占星術師の名前で、サロスの周期と呼ばれています。


 六五八五日と約三分の一日(十八年十日八時間)サロスの周期ごとに太陽と地球と月が相対的にほぼ同じ位置に来るため、日蝕または月食は、一サロス後にはほぼ同じ条件で起こります。

 ただし、三分の一日という端数のため、地球上で三分の一日の時差(経度にして百二十度)の地点に移ります。

 そして三サロス(五十四年一ケ月)後には、ほぼ同じ地点でみられるんですよ。

 千三百年も前に、空を見上げてこんな計算をしてたなんて、凄いと思いませんか。

 お義父さん、どうしました? 顔色が悪いですよ」


「ああ、なんだろう、頭痛がするんだ。耳鳴りも」


 日蝕が戻ってくる――? 頭の中で、アルバムの中の写真がぐるぐる回る。


 その時、外から春香と千夏が帰って来た。春香の美容院のついでに、千夏の習い初めたばかりのピアノの発表会で履く靴と服を買いに行ったのだ。


「おい、千夏のその髪どうしたんだ?」


「私の見て、千夏もやりたがったから、ついでにしてもらったの。フィッシュボーンと言って今こう言う髪の編み込みが、流行ってるのよ。かわいいでしょ」


「そ……うなのか?」頭痛が酷くなる。


「ねえ、みてみて。お母さんの子供の時着てたワンピースと、同じの見つけたの。ピアノの発表会にぴったりでしょ、靴もお揃いなのよ」


 奈津子の顔が凍りつく。


 あの日の靴、あの日のワンピース、あの日の髪型、なっちゃんという呼び方!


「やめろ、今すぐ捨てるんだ!」

 俺は娘の持っている服をつかんだ。その時、突然頭がなぐられたように痛み、俺は意識を失った。


 気がつくと病院の集中治療室のベッドの上だった。くも膜下出血だった。左半身に麻痺が残るといわれた。娘夫婦は、病院で一晩中付き添っていたと言う。


「春香達は?」


「さっき帰ったわ。明さん、どうしても出席しなくちゃいけない会議があるからって」


 その帰り道に、事故が起きた。居眠り運転だった。

 娘夫婦は即死。後部座席にいた千夏は奇跡的にきずひとつおわなかった。


 パパとママはお墓――その通りになったのだ。



「あなた、島に帰りましょう。千夏と一緒に」


 こんな体になってしまって、会社は一年早く退職する事になった。

 今いるところは社宅だから出るしかない。

 財産と言えるものは、実家のあの建物だけだ。

 懐かしい島、帰りたかった故郷――だがなんだろうこの不安は。


「もう決めたの」奈津子がきっぱりと言った。


 奈津子は千夏を連れて先に島に帰った。

 病院で携帯は使えないから、公衆電話で毎日電話をしている。


 リフォームして、家の中の段差を無くしたり、手すりをつけたりしなくてはならない。町役場に相談して介護保険の範囲でなんとかやりくりしてるとの事だ。


 私は、リハビリを続けて杖があれば、一人でなんとかなるようになってきた。島に帰る日は、日蝕の次の日の五月二十二日にした。

 もう日蝕は、見たくなかった。奈津子も、承知してくれた。


 二十日の朝、久しぶりに隆に電話した。フェリーの乗り場まで迎えに来てもらうためだ。


「だけど、なんで、もう一日早く来ないのさ、日蝕一緒に見ないんか? 

 なっちゃん――奈津子さん、おばさんみたいにひまわり植えて、お前が良くなるようにって願掛けしてるぞ」


「なんだって! 奈津子がひまわり畑を作ったのか」

 また、頭痛がした。奈津子がやろうとしている事が分かったからだ。


「隆たのむ、今すぐ俺を迎えに来てくれ。日蝕に間に合うように!」


 隆はすぐ来てくれた。日蝕見物の観光客向けに、フェリーが増便されていて、それをうまく捕まえてくれたのだ。奈津子を止めないと――。



 ◇



 二〇一二年五月二十一日、六時二十分。太陽が欠け出した。

 三サロスと一ヶ月、五十四年と一ヶ月後に日蝕は同じ場所に戻ってくる。


 もし、奈津子が千夏なら……俺は血を分けた孫と結婚してしまうのだ! 

 俺は、杖と隆に支えられて、よろける足で、ひまわり迷路へと走る。


 奈津子が千夏と迷路の入り口に立っていた。

 あの日の靴、あの日の服、あの日の髪。あの日のなっちゃんがそこにいた。


「さあ行きなさい」

 奈津子が千夏の背中を押す。


「だめだ、行くなー!」

 私の声になっちゃんが振り向く。


「行きなさい! なっちゃんの幸せは、ひまわりの向こうにあるの。振り向いちゃだ

 め」


 奈津子の声に、なっちゃんは走り出す。ひまわりの中へ――時間の迷宮へと。


 後を追おうとする俺の背中に奈津子がすがりつく。

「行かせてあげて。あの子の生きる場所はここじゃない、向こう側なんです」


「ダメだ! 二人を会わせちゃいけない。あの子は俺の孫なんだぞ」


「それでもです。

 あたしはあの日あなたに出会ってから、一度も不幸だと思った事はありません。

 あたしは――あの子は、幸せになりに行くんです」


 奈津子のすすり泣きで、シャツの背中が濡れていく。

 俺はがっくりと膝をついた。

 幸せだった五十四年と一ヶ月。それは、願ってはいけない幸せだったのだ。

 木漏れ日が細い三日月にかわり、空気が夜のように冷えていく。世界を闇が包む。

 七時三十二分、金環日蝕が始まる。


         

                  了

 

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