人形と爪

亜済公

人形と爪

 あっけなく、死んでしまう。ならいっそ初めから、生まれてこなければ良かったのだ。私はそんな風に考えながら、飾られた遺影を眺めていた。八重歯の覗く、綺麗な笑顔。あんな表情、学校では一度だって見たことがない。

 ――明るく、優しい女の子でした。

 名前を呼ばれた親族の誰かが、遺影の前についと立って、涙ながらに思い出を語った。ズルズルと、鼻をすする汚い音まで、マイクは丁寧に拾ってしまう。修正を重ねて練り上げられた、当たり障りのない言葉。些細な思い出を――それがまるで、逆説的に彼女を象徴でもするかのように――、大げさな口調で描写する。幼年期、転がっていた蝉の死骸を、庭に埋めてやったこと。あるいはまた、枯れ葉を川に流すのが、この上なく好きだったこと。

「ありがとうございます」

 遺影が目を瞬かせ、

「香芝さん、夏休み、また遊びにうかがいたかった……」

 と、こういった。

 その人は、嘔吐に似た声を上げ、肩をふるわせながら、立ち去っていく。

 馬鹿みたい、と、私は思う。

 発達する技術の一部は、伝統に多少の変化を与える。ホログラムで表現される花火とか、ロボット同士の結婚だとか。――そしてまた、動いてしゃべる遺影とか。残された動画や親族の証言、そういったデータを収集し、生前の口調や振る舞いを、人工知能に習得させる。ごく簡単な受け答えくらいは、たやすく実現できるのだ。

「秋山さん、いつか送ってくださったスイカ、本当、美味しかったです」

 見ると、また別の親族が、口上を終えたところだった。遺影の演じる、柔らかい微笑み。遺影の発する、上品な声色。

 ――雰囲気が、以前と少し違っている。

 私は、ふと、考えた。きっと彼女の家族には、ああいう風に見えていたのだ。あるいは、ああしていることを、望まれていた、という方が正確だろうか。

 告別式は、びっくりするほど冗長だった。不毛な時間だけが、流れていった。私はぼんやりと眺めながら、いつかの彼女を想起する。


   ※


 一人の少女が転校してきた。ご両親の、仕事の都合で、と先生は語る。誰もがその容姿に息を飲んだ。単に、美しかった、というだけでは無論ない。雑誌でも、テレビでも、美男美女は掃いて捨てるほど転がっている。問題なのは、彼女のそれが、私達とは全く異質だったということなのだ。

「あの子、結構かわいいじゃん」

 休み時間に、さっちゃんはいう。ちょっと不愉快な口調だった。さっちゃんは学級のマドンナで、毎日、爪を磨いている。カリカリ、カリカリ。削った先に、いつかなくなってしまうのではと、私は少し心配していた。

「さっちゃんの爪の方が、かわいいよ」

 そういうと、ぎょっとしたようにこちらを睨んで、当たり前でしょ、と、鋭く返す。

 転校生の、第一に目立った特徴は、透き通るような、真っ白い髪。毛の一本はあまりに細く、ちょっと触れただけであっても、ふつり、と切れてしまいそう。あるいは、なめらかな肌だとか、緑がかった灰色の瞳。全体に華奢なその身体は、運動をするには少し不便だ。だから、だろう。体育の時間、あの子はいつだってみんなの後ろを追い掛けていた。細かな汗が額に浮かび、頬に赤みが差していて、足取りは酷く頼りない。息を切らして、顔がフグのように歪んでいる。「あと三周! 体育祭はもうすぐだぞ」教師がみんなに声をかける。「はい!」と私達は返事する。

 最後に走り終えるのは、決まって彼女なのだった。五分程、私達はそれを待たねばならなかった。冷えた水筒に口をつけると、唇から溢れた水が、つい、と首を伝っていく。「見なよ、アレ。顔、やばいじゃん」嬉しそうに、さっちゃんがいう。それに呼応するかのように、嘲笑の声が、あちこちで上がった。

 ――どうやら「人形」というやつらしい。

 どこかで、誰かが、ささやいた。そのとき初めて、彼女の、曖昧だった異質さが、明確な形を持って、私達の前に現れたのだ。――誰だったろう? 言葉の主は、さっちゃんか。それとも、物知りだった倉西か。あるいは、案外、私自身かも分からない。

「『人形』って、一体なあに?」

 ずっと、ずっと、幼い頃、母に尋ねたことがある。テレビのニュース番組で、ふと語られた文言の中に、慣れない単語が混じっていた。きっと、それに反応したのだ。

「お母さんや、お父さんが、子供を好きなように作ること。瞳は青い方が良い、髪の毛は赤い方が良い、背は高い方が良い……まるで、お人形さんを、着せ替えでもするみたいにね」

 遺伝子を改良するのだ、と母は付け加えていたのだけれど、難しくって、あの頃はよく分からなかった。

「楽しそう」

 と、呟いてみる。人形遊びが好きだったから、それは私の、本心だった。母はびっくりしたように、こちらを見て、

「自分の子供を、玩具みたいに扱うなんて、どうかしてると、思わないの?」

 と、責めるように、言葉を発する。

 そうなのだろうか、と私は思った。次いで、そうなのだろう、と頷いた。そして、いつしか、そうに違いない、という確信へ変わった。

「子供をそんな風に作るなんて、自然じゃない。おかしいことよ。こういうことをする親に、子供への愛情なんて、ないんだわ。どんなに綺麗な顔をしても、どんなに勉強ができていても、その子供は、不幸せなの」

 こくり、と私が頷くと、母はそっと微笑んだ。私はなんだか嬉しくなって、何度も、何度も、頷いた。「機械みたいね」と、母は愉快そうにいったのだった。

 こういうわけで、彼女が「人形」なのだと、明確に意識したときに、私は「かわいそうだ」と、考えた。次に、「ずるい」とも、考えた。何が、とまではいかないけれど。とにかく、彼女の美しさには、何か、不公平が感じられた。

 ――ああ、人形か。人形だもんな。

 ささやきに応えるかのように、軽蔑とも、安堵ともつかない小さな言葉が、どこかでそっと紡がれる。

 みんな、はっきりと、口に出すことはしなかった。何かを組織的に行うことも、しなかった。けれど、不思議に、ある程度の緩やかな結束を伴いながら、私達は彼女を疎外し始めたのだ。

 ――だから。

 だから、なのだ。私はあの子に、関わりたいと思わなかった。誰かと違う特別なコトを、したいだなんて思わなかった。けれど向こうは、そう考えてはいなかったらしい。

「落としたよ、ボールペン」

 例えば、なんてことのない授業のひととき。隣の席から、細く透き通った声がする。窓の向こう、澄んだ青空を背景にして、真っ白い髪が揺れている。

「可愛いね。……コレ、どこで売ってたの?」

「……ありがと。返して」

 質問に、答える気にはならなかった。できる限り素っ気なく、そしてまた、なるだけ冷淡にはならないように。彼女の細い指先に、私のペンが挟まれている。最近あちこちで流行している、ウサギをモチーフにしたキャラクターが、胴体に小さく印刷してある。どの辺りがかわいいのか、私にはよく分からない。

 受け取ろうと手を伸ばした。ずらりと整列した机、ずらりと整列した生徒。

 私は、彼女の顔をそっとうかがう。唇の端が僅かに上がり、どこか楽しげな表情でいる。

 ――なんて、呑気。

 理由は解らないけれど、なぜだか、無性に腹が立った。


「新しく、誰か転校してきたって?」

 朝食の折、どこから情報を仕入れてきたのか、母はそんなことを口にする。

「どんな子なの?」

「どんな子だって良いでしょう」

 つまらないの、と恨めしそうにこちらを見ながら、母は目玉焼きにビールをかけた。つい先日、健康に良い、と、テレビで紹介された食べ方である。

「……そんなに、悪い子じゃないと思う」

 思う、と断定しなかったのは、それほど多くを知っているわけではなかったからだ。私だけではないだろう、クラスの中で、あの子のことを「よく知っている」といえるのは、きっと一人もいないのだ。

 ――彼女が、話さないというのではない。

 ただ、誰も話し掛けない。さっちゃんも、倉西も、みんな素知らぬ顔で黙っている。

「真面目そうだし。先生が冗談なんかいったときには、楽しそうに笑ってるし。……まあ、『人形』だって話だけれど」

 ふうん、と母は答えつつ、目玉焼きを二つに割った。とろり、と半熟の黄身が溢れる。ぱっくりと割れたその格好は、どこか傷口を思わせた。鋭利な刃物で、切りつけられた真っ白い皮膚……。

「仲良くしてあげなさいよ。そうなりたくて、生まれたわけじゃないんだし。かわいそうな子なんだから」

 ――そうなのだろうか、と私は思った。次いで、そうなのだろう、と頷いた。

 やがて、父が起床した。乱れた髪を掻き回しつつ、リビングにのそのそやって来る。私は既に食事を終えて、学校の鞄を背負っていた。

「随分早いな」

 と、父はいう。

「体育祭の朝練なのよ」

 母はいいつつ、二枚目の目玉焼きをつっついていた。

「優勝するから、見に来てよ」

 扉を開ける。空は、水を溶かしたような青をしている。排気ガスの混じった空気が、どんよりと私の頬を撫でた。


 街は、南西に海を望む。ちょっとしたビルとか、山だとか、そういう標高の高い場所なら、水平線だって見えるだろう。ボウゥ、という汽笛の音色が、どこからか地響きのように伝わってくる。私はまるで、それに背中を押されるように、自転車で坂道を駆け上がった。両脇には、古びた商店が建ち並ぶ。店先に陳列されている、薄汚れた人形の数々だとか、年月に茶色く濁ってしまった、ガラス窓の整列だとか――そんなものに混じりつつ、ホログラムの広告が、空中に極彩色の文字を映す。「安心、安全なお葬式。美浜葬儀社」。

「よう、今日も飛ばすじゃん」

 不意に、テノールの声が響く。横に並んだ自転車に、よく知る顔が乗っていた。

「おはよう、倉西。今日はちゃんと起きたんだ。この前の遅刻、反省してるの?」

「うんにゃ、別に。昨晩、徹夜したからね」

 なるほど確かに、その表情は、どこか憔悴している様子だ。

「何してたの?」

「調べてた」

「何について?」

「飲食店。……打ち上げで、行きたい店の候補がさ、みんなばらけてるもんだから。調整がいるんだよ、色々と」

「お疲れ様。優勝しなきゃね」

「当たり前よ。頑張ろうな」

 交差点に差し掛かる。まだ朝早いせいだろう、車も人の影もない。信号を無視して、しばらく走ると、真っ白く塗られた校舎の影が、民家の合間に顔を出した。立方体を、二、三個組み合わせたつまらない形。屋上近くの外壁に、立派な大時計が据えられている。もっとも、昔に錆び付いて、今は動いていないのだけれど。

 私はふと、考える。この時計に、果たして意味があるのだろうか? 誰かによって作られたものは、得てして目的を与えられる。そこにのみ意味があり、そこにのみ価値がある。それでは、目的を果たせなければ? きっと、何も残っていない。

 ――それじゃ、あの子はどうなんだろう。

 転校生の、綺麗な髪。肌、瞳、華奢な身体。それら全てが、両親の目的に沿って作られたなら、彼女の意味は、他に何もないのだろうか。

 学校の裏手に設置された、駐輪場に自転車を駐める。それほど多くは並んでいない。校庭の方から、がやがやという、話し声が流れてきた。

「人形ってさ」

 と、不意に倉西が口を開く

「大抵、身体が弱いんだ。遺伝子の操作を行う過程で、どうしても不具合が生じるせいか――発育に問題を抱える場合が、結構な割合で観測されてる。あの転校生も、やっぱりその傾向があるんだと思う」

「……そうなんだ」

 それで? と問うと、彼はいいにくそうに、顔を背ける。

「だから、アイツが練習しても、多分、どうにもならないんだよ。諦めろって、いってやるのが、良いんじゃないか」

「……そんなの、自分でやればいいじゃない」

 誰も関わりたくないというのに、一体どうして私だけが、行動しなければならないのだろう。特別なことは、したくない。私は、みんなと同じでいい。お前、隣の席だろう、と、背後で叫ぶ倉西を置いて、私はさっさと、着替えに向かった。

 彼女の練習が発覚したのは、一週間ほど前のことだ。登校した数名の生徒が、校庭を走る人影を見た。体育祭の朝練にしても、随分と早い時間帯。それが彼女だった、というわけである。ジャージを着て、頼りない足取りで校庭を走る。一周、二周、三周……と、大粒の汗を額に浮かべ、倒れるように足を踏み出す。そこには、努力、というよりも、むしろ痛々しさ、という言葉が似合った。

 翌日も、その翌日も、昨日も、今日も。ジャージを身につけ校庭に出ると、やはり彼女が目に入る。

「見なよ、あの爪」

 その姿を、あざ笑うように、さっちゃんはいう。

「全然、磨いてないじゃない。小指なんて、酷いもんだ。きっと、足だっておんなじだよ。爪を大事にしてないから、だから、あの子は走るのが遅いの」

 これくらい、と、両手を私に見せびらかした。

「これくらい綺麗にしとかないと、やっぱり女の子はダメなんだよね」

 日に日に、さっちゃんの爪は、光沢を増し、同時に小さくなっている。磨かれて、削られた、みすぼらしい、小さな爪。その大きさの不釣り合いが、どこか指を、異様に太く錯覚させる。

「爪が汚いと、走れないの?」

「それはそうよ」

 と、得意げな表情でさっちゃんは語った。

「爪はその人の心を映すの。爪が汚い人は、心も汚い。心が汚い人は、生活も乱れる。……わかる? 爪が綺麗じゃない人は、綺麗な人より、ずっと劣ってるってコト」

 さっちゃんは、自分の指先をうっとりと見つめる。矮小な、ピカピカに磨かれた、綺麗な爪。

「ホラ、見てよ。いったとおり」

 視線をやると、つい、と、どこかに足を引っかけ、姿勢を崩す彼女がある。転倒。うつ伏せになったまま、ピクリとも動く気配がない。それこそ、本物の人形みたいに。

 ケタケタケタ、とさっちゃんは唇を醜く歪めた。私もアハアハ笑い返す。一体何がおかしいのか、よく理解できなかった。アハアハ、アハアハ。さっちゃんはすぐに興味を失い、別の誰かと話し始める。ぽつねんと残され、私は一人、笑い続ける。自らの声が、誰に届くでもなく響いていた。これではまるで、機械みたいだ。

 思えば、いつだって、そうだった。友達と、仲良くしたいと思っている。自分の気持ちが分からないまま、仲良くしよう、とだけ思う。だから、頷くのだ。何度も、何度も。機械みたいに。

 アハアハ、アハアハ。転校生は倒れたまま、相変わらず動かない。静寂と、笑いと……。

 ――案外私は、あの子によく似ているのかも。

 十秒が経つ。二十秒が経過する。笑いを収めて、ふと思い立ち、彼女の方へと近づいてみる。ほんの少しだけ、転校生が、好ましく思われたのかも、知れなかった。

 特段、柔らかい表情で、接しようとは思わない。けれど先の笑いがまだ、口角にこびり付いている。油汚れに似たしつこさ。

「……大丈夫?」

 ひょう、と風が頬を撫でた。彼女の真っ白い髪が揺れて、その合間から、綺麗な瞳が姿を現す。疲労のせいか、表情がややこわばっていた。細かい汗が、額に浮かんでいるのが見える。

「大丈夫。いつも転ぶから、慣れてるの」

 両手の平を地面につけて、えい、と上体を持ち上げる。仕草は酷く頼りなさげで、腕が細かに震えている。手を貸そうか、貸すまいか――。私は少しの逡巡の後、傍観しようと、考えた。

「……走るの、昔から、遅いんだよね」

 立ち上がり、両膝についた砂を払う。

「どうしたら、私も速くなれるのかな?」

 どうだろう、と私は答える。

「爪を綺麗にしてみたら?」

 何それ、と彼女は笑った。この上なく、面白い冗談を聞いたみたいに、ぱっと表情が明るくなる。かわいいな、と、そう思った。

「さっちゃん――聡美さんがいってたよ。爪が綺麗じゃないと、走れないって」

 ふぅん、と、訝しげに頷いた。頬についていた砂粒が、はらり、と何かの拍子に落ちた。話題は特段見当たらず、そもそも私が、どうして彼女のそばに来たのか、それさえもはっきりとは分からない。

「あと、一週間」

 と、彼女はいう。

「頑張らないと」

 自らに、いい聞かせでもするかのように。


 体育祭の当日の記憶は、どこか夢のように思われる。曖昧だ、というのではない。むしろ逆で、あまりに鮮明なのである。晴れた空に、真っ白い太陽が、ぽっかりと穴を開けている。風はなぎ、どんよりとした熱線が、衣類を通して肌を焼く。汗にべったりとした肌に、砂埃がまとわりついた。やがて、ホイッスルが鳴り響き、クラス対抗リレーが始まる。

 誰かの走りを見るのが、好きだ。昔から、運動はそれほど好んでいなかったけど、気持ちよさそうに、楽しそうに、駆け回っているのを目にすると、不思議と気持ちが昂ぶってくる。自分では、少しも心地良いと思えないから、他人のソレにちょっとした憧憬を覚えていたのか。勢いよく、足を踏み出す。校庭に敷き詰められた砂が飛び、石灰で描かれたコースが削れる。観客の声援。あるいは、悲鳴。

「どう、あたし、早かったでしょ」

 さっちゃんが、駆け寄り、得意げな顔でいう。今のところ、私達は二番手だ。後続との距離は数メートル、先頭へはたったの数歩。体育祭を優勝するには、ここでそれなりの成績がいる。できれば一位。それが無理でも、せめて二位。バトンが次々と手渡される。大勢の手を介したソレは、きっと汗に濡れている。つるり、と今にも走者の手から、滑り落ちてしまうのでは――と、ちょっとした不安が、湧き上がった。

「ダメだね、きっと」

 さっちゃんは、不愉快そうに口を開く。

「順位、落ちるよ。あの子の番で」

 ――でも。

「でも、練習頑張ってたし、きっと、何とかなると思うよ」

 思うよ、というよりは、そうあって欲しい、という方が正確だろう。

 彼女は、ずっと走っていた。早朝も、放課後も。誰が見ても、速くなっているとは思えなかった。きっとあの子は、自分でもそれを分かっている。分かっていて、ここにいる。なら、奇跡を望まないのは、間違いだし、そして何より――迷惑だろう。ここで負けたら、きっと私達は優勝できない。倉西の徹夜が、無駄になる。さっちゃんも、機嫌を損ねるに違いない。他の人だっておんなじだ。たった一人が、クラスメイトの全員に、そんな迷惑をかけるのなら。仲良くいられないのなら――。

「いなくなっちゃえば、いいのにな」

 さっちゃんが、ぼそり、と呟いた。私は少し迷った後に、そうだね、と小さく返した。他人に迷惑をかけてはいけない。誰にでも分かる、単純な話だ。

 リレーは順調に進んでいる。目立った失敗は見られない。歓声が上がる。悲鳴が高まる。徐々に先頭との差を詰めていき、僅かに追い抜いてバトンが渡る。

 ――それが。

 それが、転校生だった。

 真っ白い髪が、陽光の下で輝いている。風にふわり、と煽られて、どこか幻想的な印象を与える。唇が強く結ばれて、相貌がまっすぐに前を向いた。走り出す。腕を振る。

 ――いけ。

 心の内に呟いた。

 ――いけ。

 ――走れ。

「走って……!」

 歓声がやわらいだ。ほんの一瞬、観客席が、戸惑うように静まりかえる。雲が、太陽の前をひょいとよぎって、僅かに涼やかな風が生まれる。

 ――なんてことはない。奇跡なんて、当然、起こるはずもない。

 不意に、彼女への応援が、後悔すべきことのように思われた。何もかもを、あの子は台無しにしてしまった。何か、裏切られたような、感覚があった。

「……見なよ、あの顔。恥だね、恥」

 さっちゃんは笑う。歓声の一部が、嘲笑に変わった。悲鳴の一部が、歓声に変わった。彼女の足は、酷く遅い。以前と、何も変わらない。真っ赤に染まり、フグのように歪んだ顔。鼻の穴が膨らんで、黒々とした穴が目立つ。見開かれた目が、ぎょろりと虚空を睨んでいた。一人、また一人と後続の走者に追い抜かれていく。積み重ねてきたモノが、いとも簡単に崩れてしまう。あまりにもあっけなく、そしてあまりにも冒涜的な。

 腹が、たった。

「あーあ」

 私は溜息をつく。すると不思議に、さっちゃんと自分が、緩やかな友情の中にある気がした。失望が、私達を繋いでいる。

「顔、キモいよね」

 私がいうと、さっちゃんは嬉しそうに「だよね」と答えた。

「キモい。気持ち悪い」

 何度も、口の中で反芻した。心地良い響きだった。キモい。キモい。

 リレーは結局、最下位に終わった。


 ――意味分かんない!

 夕刻、体育祭が終わったあとで、唐突にさっちゃんが、暴れ出した。あの子の爪が、磨かれていたのが原因だった。つるりと、油を引いたみたいに、ピンク色がなめらかだ。さっちゃんの、削られ、磨かれ、不釣り合いなほどに縮んだそれとは、比べものにならなかった。

「何よ、その爪」

 生意気だ、と繰り返し叫んで、転校生を突き飛ばす。いとも簡単に彼女は倒れた。膝が、真っ赤に染まっていた。転がっていた小さな石が、皮膚をぱっくりと割ったのだ。傷口はとても、綺麗だった。ナイフで切りつけたとしても、なかなかこうはいかないだろう。

 それは、いつかの朝食の、目玉焼きによく似ている。箸で裂くと、流れ出すのは、とろりとした半熟の黄身。転校生は、足首を押さえて、起き上がろうとしなかった。ケタケタケタ、とさっちゃんは笑う。それから、馬鹿じゃないの、と、誰に向かってか口にして、足早にどこへか去ってしまった。

 校庭の隅っこ。人の視線は感じられない。片付けが終わり、閑散とした風景に、私はぽつんと、立っていた。転校生は、喉を刻むような声を上げる。

「捻っちゃったな」

 こちらにそっと視線を送り、何かを訴えているようだった。

「凄く、痛い。歩けない」

 保健室まで連れて行け、と、つまりはそういうことだろうか。

 ――面倒くさい。

 私は答える。

「このあと、打ち上げもあるからさ。私、早く行かないと」

 彼女は、足をピクリと動かし、再び妙な声を上げる。ズボンの裾がめくれ上がり、しなやかな足を夕陽がそっと照らし出す。そこにはいくらか青みが差して、うっすらと汗ばんでいるようだった。

 私は、さっちゃんの後を追った。


   ※


 ――お線香くらいあげてきたら?

 母は、沈んだ顔で、そういった。だから私は、ここに来たのだ。

 転校生は、私を「友達」だと語ったらしい。彼女の両親は真に受けて、わざわざ挨拶をしにやって来た。それは、酷く不愉快だ。私は、他のみんなと変わらない。友達になったつもりはないし、なりたいとも思わなかった。

 ――そんな言葉を、口にできるはずもないのだけれど。

 立ち上がり、教わったマナーを想起する。細かく砕いた香をつまんで、器にパラパラと落としていく。目の前にずらりと陳列された、無数の花束。華やかな色彩に囲まれて、彼女の遺影が、ぱちり、と柔らかく瞬きをした。

 ――事故でした。

 と、彼女の両親は語っていた。捻った足を引きずりながら、車道を横切ろうとしたらしい。あっけなく車に弾かれて、そのまま、息を引き取った。

「あの子には、もっと生きていて欲しかった。私達は、生活に彩りをくれるように、あの子を作り上げたんです。これでは、まるで、逆効果じゃないですか」

 ――もしも、あのとき、私が放っておかなかったら?

 私は、事故を想像する。ボンネットにぶつかって、宙をひょいと飛んでいく。ゴム人形か何かのように、べたり、地面にキスをする。捻った片方の足首が、醜く膨れ上がっている。ぱっくりと頭が割れていて、そこから、何かがはみ出している。膝の鋭い傷口が、酸素を求めて、あえいでいる。両手の磨かれた爪だけが、不思議な光沢を放っている……。

 けれども、案外、辛くはない。

 事故を知らされたさっちゃんは、狂ったように爪を磨いた。カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ、カリカリ……。磨かれ、削られ、ついに血が流れ出しても、決して手を止めようとしない。それを見ると、私は不思議に、安心するのだ。

「正直俺は、あの子こと、嫌いだったな」

 親族の誰かが、ぼそりと呟くのが耳に入った。

「『人形』だからか……妙に、気持ちが悪くってね」

 そうだ。あの子は『人形』なんだ。

 深呼吸する。肩がひょい、と軽くなる。

 遺影は、パチリ、と瞬きをした。

「仲良くしてくれて、ありがとうね」

 吐き気が、した。こみ上げてくる何かをこらえて、

 ――どういたしまして。

 と、私は答えた。背後に並ぶ、出席者に聞こえるように、次いで、微笑みながらこういうのである。

「私達、きっと、ずっと友達だね」

 思えば私は、彼女の名前を、いまだ、知らない。

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人形と爪 亜済公 @hiro1205

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