短編「雪化粧」

みなしろゆう

雪化粧


 女には夜中、出歩く癖があった。

 夢遊病の様に歩いて、女が暗闇へと溶けていくのは決まって、雪が降る夜だった。

 追って連れ戻そうとしても、頑なに首を振って女は、いいえと繰り返す。


「まだ、涼太がそとにいるんです」


 女がうわ言の様に繰り返すのは、五年前に志願して軍人となった弟の名前。


 女の弟はどうやら、雪が降る頃に帰らぬ人となったらしかった。



 ──私が女と出会ったのは、とある春の日、生家である染物屋の前。

 長男である私は父親を毎日手伝って店に立ち、弟達が退屈だという家業のことを好いてもいた。

 仕立てるよりも前の、染める、という行為は一度やり始めれば視界を一色にしてくれる。その感覚が好きで、堪らず没頭する。

 出来るだけ長く、せめて日が暮れるまでは、色彩の中にいたい。

 十代はそんな日々で終わっていったが、私は何にも思わなかった。


 染め具の手入れを終えて顔を上げた私は、ふと通りの方から女が中を覗き込み、此方を伺っているのに気付いた。

 父は通りに背を向けていて気付く様子もなかったし、仕方なしに私は女に向かって、何か用かと声を掛ける。


 結局、女の小さな声が聞き取れず、腰を上げ染料で汚れた手を洗い、私が表に出ると、女は何度も頭を下げきた。

 あの、と口を開いて私を見上げてくる女は頼りなく何処にでも居る娘に思える。

 若草色の良く似合う、春の陽気に相応しいおっとりとした女だと思った。


 女は父方の親戚で母親と共に疎開して越してきたらしい。

 越してきたはいいものの、住む場所がないのでと、父を訪ねてきた様だった。

 父は少し頭を悩ませて、放り出すわけにも行かないが、住まわせてやる所なんて納屋くらいのものだぞと言い、屋根があれば十分ですからなんて、女は何度も頭を下げて、父は結局、うんと頷いた。


 私が子どもの頃悪さをして良く閉じ込められた狭い納屋に、母親と住む事になった女は父に深々と頭を下げて礼を言う。

 そして私にも、ご迷惑をお掛けしますと頭を下げてきて、気にしないでくれとしか、私は返せなかった。


 後から連れて来た母親は耄碌していて、足も悪いらしい。

 正気半分夢見心地半分の老婆は、いつも虚空に向かって話しかけていて、娘の方を一度たりとも見なかった。

 納屋から女が根気よく母親を介抱している声が聞こえてくるものだから、私は可哀想になって来て、居心地の悪いような、良心が痛む様な気持ちに苛まれ、それは父も同じだったらしい。

 昼間は私の部屋に二人を上がらせてやる事にしようと、話が決まった。



 本当にごめんなさい。

 大変なのは私達だけじゃないのに。

 それが女の口癖で、言われる度に私は首を振っていいやと返す。

 歳も思ったより離れてなかったから、私は女の話し相手に良くなった。

 弟が戦争に行って死んだのだと、私は女から聞かされた。

 悲しそうに懐かしそうに言う女の横顔は、芯のある強い女のそれ。

 強くないと、生きていけない様だった。


 春が終わり夏が過ぎ、冬が近付き始めた頃。

 女は毎日、夜には納屋に戻っていたが弱り始め寝たきりになった母親の事は、私の部屋で寝かせていた。

 女がというより私がその様にさせた。

 本当は女にも、かあさんの傍で寝れば良い、俺は店で寝てくるからと何度も言ったが、女は頑なに首を振って断り、毎晩納屋に戻る間際、深く頭を下げられ、私は相変わらず上手い返しが浮かばなかった。


 朝方、女は毎日家事をして、母親のいない家を回してくれていたが、

 女の指先が真っ青で、震えているのが気になって、私は横から家事を取り上げる様にして、女を多少無理やりに休ませた。

 女は私には笑ったり、怒ったりするようになって、次第には泣いたり縋られたりもして、それを嫌とも思わずに、私は頷いてただ、肩を並べて過ごす様にした。


 そうしているうちに冬が来て、女の母親が死に、今年初めて雪が降って。

 その夜、私は納屋の戸が開く音で飛び起きたのだった。



「みよさん!みよさん……ッ!どこにいくんだ、早く帰ろう」

「ちがうの、弟が……外にまだいるの。

 探してこないと、こんな寒いのに」


 私が必死になって追いつくと、女は道端で蹲り明らかにおかしな事を言って、カタカタと震えていた。

 思わず肩を抱くと息を呑むほど冷えていて、私は何度も帰ろうと繰り返した。

 違う、違う、と繰り返す女を家の前まで連れてくる頃には雪は止み、女はことりと意識を落として、ゆっくりと寝息を立て始める。


 私は納屋に転がり込み、女を抱きしめたまま眠った。

 朝目覚めた時、女が居なくなる気がして怖かった。

 とても一人になどしておけない、放っておいたら死んでしまう、そんな気がする。

 その晩には白色に若草色が溶けていく夢を見た、酷い、悪夢だった。


 翌朝、女に昨晩はどうしたのかと聞くと、女は分からない、夢を見ていた気がするとだけ答えて黙り込んでしまい、私は取り敢えず、納屋で寝るのはよそうと言った。


「そうしたら、貴方はどうするのですか。

 ……お店で寝るなんてまた言うのですか」


 女が伏し目がちにそう言うから、私はいつも通り首を振り、いいやと返す。


「俺も昨日寝てみて思ったけど、あそこは人が寝る場所じゃないよ、やっぱり」


 だからおいで、と私は言った。

 女は暫く考えて、貴方がちゃんと布団で寝るならいいと答えた。




 隙間を大きく開けて布団を敷いて、背を向けて眠っていても、女が身を起こす音で目が覚める。

 雪が降る夜に女はふらつきながら外へ出て、それを追うのが当たり前になり、

 最初は必死に連れ戻したが、ある日から気の済むまで歩かせてやる事にした。

 この人は弟を探して歩いているんだ、と思うと悲しさで息が詰まって仕方が無い。

 女が膝を抱えて蹲ると同時に、駆け寄って抱きしめる。


「寒いねぇ……」

「涼太……?」


 話し掛けると女は私を見上げた。

 雲の切れ間から覗いた月が真上にあって、虚な瞳が良く見える、いつもの調子でいいやと返して、私は女の肩をさすった。


「涼太が……まだ、小さいから探さないと」

「うん、そうかそうか」


 女の青白い手を握る、冷たい手に体温を移して、この人がもっとあたたかくなれば良いのにと思う。

 冷え切って動きが鈍った体の中心が、燃えるように熱い、心臓の脈打ちがはっきりと聞こえる。


 私が出来うる全てでこの人の。

 冷たくなって凍えてしまったこの人の、

 強くあろうとして壊れてしまったこの人の、心を、思考を、繋ぎ止めるにはどうしたら。


「涼太くんは優しかったんだよね」

「うん」

「涼太くんに会いたいんだよね」

「うん」


 女が頷く度に、私は言いたくて仕方がない言葉を幾つも堪えた。


 あんたの弟はもう死んだんだ。

 お願いだから逝かないでくれよ。

 俺をおいていくな、俺をみてくれ、俺を。

 俺の事を、忘れたまま死なないでくれ。


 ──言ったらきっとこの人の事を否定する。

 本当は弱いこの人がまた、強く生きなきゃいけなくなる。


「でも、でもね。涼太は、涼太は──」


 私は震える女を抱きしめ続け、腕の中から女は夜空を見上げた。

 雲がまた月を隠して、ちらちらと雪が降り始める。

 遮られた光を追って、女が夜空へ手を彷徨わせた。

 唇に乗った雪の粒を受け、女は虚な瞳から涙を流して呟く。


「涼太はもう、死んだ、のよね」


 身を切らんばかりの寒さから守る為だけに、私は女を抱きしめる。

 はらはらと雪に混ざって涙が消えたあと、ごめんなさい、と呟かれ、

 私はいつも通り変わらない調子で、いいやと返した。

 最後まで、上手い言葉は返せなかった。

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短編「雪化粧」 みなしろゆう @Otosakiaki

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