今年のそばは一味違う

四条藍

第1話

 パチパチ、と重なった木材の燃える音色が小刻みに鳴り響いて、薄紅に染まった耳を吹き抜けた。

 大晦日のこの時間に川沿いのキャンプ場に来ているのは私だけだった。今年もあと1時間で終わる。年末にこうして一人静かに新年を迎えることは私の中で既に恒例行事となっていた。

 家で炬燵に入ってテレビを見ながらまったりと過ごすのも悪くないが、真冬の凍えるような寒さに白い息を吐きながらロースタイルチェアの背もたれに身を任せて星を見上げる方が不思議と落ち着くのだ。


「そろそろ始めるか」


 眠気に負けじと体を起こし、焚火の上にステンレスケトルをセットする。

 冬場のキャンプの楽しみと言えば温かいものに限る。バッグから取り出したカップそばを掌の上に乗せてお湯が沸くその瞬間を心待ちにしていく。

 年の終わりにこうして寒空の下で年越しそばを食べるのも私の中で恒例行事になっていた。


「やっぱこれ食べないと大晦日の気分にならないよな」


 パッケージに書かれた緑のたぬきの文字。もう飽きるほど目にしているはずなのに、蓋に写る大きな天ぷらが食欲をこれでもかと刺激する。

 大学で一人暮らしを始めた頃、財布に余裕がなかった私は腹が減った時は決まってこれを食べていた。さくさくのかき揚げを出汁の利いたスープに浸して割り箸で細かくしながらコンビニのおにぎりと一緒に喉に流し込む。健康に良くないとは分かっていても、つい最後まで飲み干してしまうのだ。

 その味に惚れこんだ私は卒業後に某会社へ就職し、幸運なことに緑のたぬきにも関わる機会のある食品開発部に所属した。

 それから数年、仕事にも慣れてきて頼れる部下もできた。順風満帆のように感じるが、どこか満足してない自分がいることにも気が付いていた。

 定番となった緑のたぬきを改良しようにも元の出来が良すぎるためか、なかなか納得できるものができない。変わらない味が大切なのも理解しているつもりだが、それに満足しているだけでは他のブランドに負けてしまうかもしれない。最近はその境目に悩んでいるところだった。


「うだうだ考えていても仕方がないか」


 そろそろお湯が沸く頃だろう。

 緑のたぬきの蓋をかじかんだ手で開けようとした、その瞬間だった。

 急に吹いた寒風が私の掌から緑のたぬきを奪い去ったのだ。

 慌てて追いかけようにも周囲に灯りはない。バッグから懐中電灯を取り出してスイッチを入れる。そのまま容器が転がっていった方向へと足を進めた。

 幸いなことにそれはすぐに見つかった。静かに流れる川の浅瀬に浮かんでいた緑のたぬきを拾うためにしゃがみ込む。

 そのとき、川に異変が起きた。

 穏やかだった流れが途端に勢いを増していく。渦巻いた川底からは金色の光が溢れて、思わず目が眩みそうになる。

 夢のような光景に呆気に取られていると、神話に出てくる女神のような恰好をした麗しい女が水上に浮かび上がってきた。


「い、一体何が……」

「あなたは今、これを落としましたね?」


 驚きで頭が回っていない私にも何の遠慮もなく、その女は手にしたカップそばの容器をこちらに差し出した。そう、私は風に運ばれた緑のたぬきを取りに来ただけなのだ。しかし、じっと目を凝らして見ると、そのパッケージは何かがおかしいような気がした。


「そうですけど、何というか微妙に違うような……」

「なるほど。では、あなたが落としたのはこの金のたぬきですか? それとも、この銀のたぬきですか?」

「は?」


 何を言っているのだこの女は。訝しみながら近よると、そこには見慣れた緑色の蓋ではなくピカピカの黄金色と輝かしい銀色に染まった何とも豪華な装飾をしたカップそばの姿があった。


「いえ、違います。私が落としたのは普通の──緑のたぬきです」


 そもそも金のたぬきや銀のたぬきといった商品はこの世に存在しないはずだ。もしあるとするならば、商品開発に携わっている私の耳にも入ってきていることだろう。


「正直者ですね。そんなあなたには、この金のたぬきと銀のたぬきを差し上げます」

「あ、ちょっと! 私の緑のたぬきは?」

「それは私がいただきます」

「何で!?」

「前から食べてみたいと思っていたのです。ではでは」


 そう言うと女は満足そうに水底へと消えていった。水の勢いも落ち着きを取り戻し、後光のような不思議な光も色を失っていつもの澄んだ水色に変わっていく。

 取り残されたのは呆然と立ちすくむ私と、その両手に残された金のたぬきと銀のたぬきだけ。

 まさに狐につままれた気分だ。誰かに相談しようにも相変わらず周りには人の気配はなかった。

 しばらく焚火から離れたせいか、体中はもう冷え切っていた。このままでは凍え死んでしまう。こんなところで突っ立っていても仕方がないので、しぶしぶ元の場所へ戻ることにした。


「それにしても、これは何なのだろうか」


 左に持った『金のたぬき』と右手に持った『銀のたぬき』を交互に眺める。どちらも正規品のはずがないのに、その高級感に思わず圧倒されそうになった。

 そもそもこれは本当にカップそばなのだろうか。玉手箱を開ける浦島太郎のように恐る恐る金のたぬきと書かれた蓋を少しずつ開くと、そこにはお馴染みの乾燥麺と粉末、そして天ぷらがしっかりと収まっていた。

 しかしながら、見知らぬ女から渡された物を口にするのにはさすがに抵抗がある。どうしようかと考えながらふとスマホの時計を見ると新年が始まるまであと30分もなかった。

 年越しそばは年が明ける前に食わなければ意味がない。こうなってくると背に腹は代えられぬ。

 粉末を加えてケトルから沸騰した熱々のお湯をそばに注ぐ。天ぷらは後から乗せて半分はさくさくに、もう半分はスープに浸して細かく砕いてから飲み込むのが私の食べ方だ。

 会社で働いている時の3分なんてあっという間なのに、カップ麺を待つ3分はひたすらに長く感じるのは一体なぜなのだろうか。まだかまだかと待ち焦がれる。この時間のわくわくする気持ちはいつになっても変わらないものだった。


「できた!」


 しっかりと3分が経過したことを確認して閉じた蓋を開ける。白い湯気と共に溢れた香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。


「これはすごい……」


 そこにはまさに『金のたぬき』と呼ぶにふさわしい黄金色のスープが広がっていた。ごくりと唾を飲み込んで、その透明なスープに口を付ける。

 瞬間、溢れんばかりの幸福感が指の先から頭の中まで広がった。2口目、3口目……。緑のたぬきで使われている鰹節や煮干の出汁とは似ているようで少し違った優しい味。舌先に貝のような芳しい塩味や砂糖醤油の甘辛い風味が触れた。

 続いてそのスープを絡ませた柔らかい麺を啜る。ツルツルとした食感にコシのある確かな食べ応え。熱々のスープと麺が冷えた体に温もりを取り戻してくれた。

 天ぷらもよく見るとプリプリの小エビがこれでもかと存在をアピールしている。勢いよく噛み締めるとサクッとした音に耳が幸せになる。味を確かめながらゆっくりと噛み砕いていく。最後にスープに浸して箸でかき混ぜてそのまま喉に流し込む。


「ぷはぁ」


 美味い。美味すぎる。味だけではない、普段では味わえない高級感を前に、不思議と涙が零れてきそうだ。

 抵抗など全く感じなくなってしまった私は『銀のたぬき』も口にすることにした。こちらは金のたぬきとはまた違った味わいと確かな満足感が体中に広がる、まさにその名の通り、金のたぬきと双璧を成す支え役、と呼ぶにふさわしい代物であった。

 気が付くともう日付が変わっていた。新しい年の始まりにこれほどの高揚感を覚えたのは今年が初めてだろう。


「そうか、これだ!」


 そのとき、私の脳裏に一筋の光明が差し込んだ。


 §


 結果として、その天啓は大当たりだった。

 一般的に普及している緑のたぬきに加えて『金のたぬき』と『銀のたぬき』という高級品は徐々に売れ筋を伸ばし、今や弊社のブランドとして名を連ねることになった。暮らしの中での小さなご褒美として人々に愛される商品として認められたのだ。

 パッケージに広がる金と銀には縁起の良いとされる笑顔のたぬきが書かれている。そのためか、何かの記念日に食べられることが多くなっていた。

 それこそ、年末の年越しそばのような……。


 §


 私は今年も川沿いのキャンプ場を訪れた。大晦日のこの時間帯には相変わらず周囲に人の気配はなく、静かに流れる川のせせらぎと燃えたぎる木々の音だけが小さく木霊する。

 辺りを隈なく探してみたが、あの女神の姿はどこにもない。あと30分もすれば日が変わってしまう。その前に、まだ私には試していないことがあった。

 地面が透けて見えるほどの浅瀬にそっと緑のたぬきを置いてみる。さながら、神様へのお供え物と言ったところだ。

 予想をしていた異変はすぐに起きた。河川が渦巻いて輝かしい光が世界を包み込む。その中心にはあの女神の姿があった。


「あなたが落としたのはこの金のたぬきですか? それとも、この銀のたぬきですか?」


 両の手にカップそばを添える姿を見て懐かしい気持ちになる。でも、要件はまた別のことにあった。


「いえ、違います。私が落としたのは緑のたぬきです」

「正直者ですね。そんなあなたには、この金のたぬきと──」

「あっ、結構です。それより、今日はお礼をしに来たんです」

「お礼? はて、なんのことでしょうか?」

「あのときはありがとうございました。あなたのおかげで助かりました。お礼に何でも言ってください。私にできることなんて、限られているかもしれませんが……」


 それから女神は考え込むように首を傾け、しばらくして私の方を指差した。


「でしたら、あのお湯をいただけないでしょうか? 毎年あなたが美味しそうに食べているのを見ていて、一度食べてみたいとずっと思っていたのです」

「それくらいなら、お安い御用です」


 ケトルから二人分のお湯をそれぞれのカップに注ぐ。

 この場所で誰かと一緒にそばを食べながら新年を迎えるのは今年が初めてだった。














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