狐火の通り道

晴羽照尊

狐火の通り道


 食事処まるじの店主は強面で有名だった。短く刈り上げられた総白髪、一八〇近い身長、浅黒い肌。細身ではあるが筋肉は引き締まっており、腕には血管が浮き出ている。左腕には大きなやけどの跡があり、額にも小傷ではあるが跡が残っていた。正直、一般市民には見えない風貌である。ゆえに、元ヤクザだとか、いまだに裏社会には強い影響力を持っているんだとか、根も葉もない噂がたっていた。

 店主はたしかに愛想もよくない。客がきても小さく低い声で「らっしゃい」と言うだけ。注文を取るときもよほど聞き取れなかったときくらいにしか繰り返さないようで、僕なんかはけっこうちゃんと声を張る方だから、繰り返された覚えがない。「四百円ね」。「ありがとね」。といった感じで、敬語を使うこともまずない。これだけ聞くとわざわざそんな店に行きたいと思う人はほとんどいないだろう。だが食事処まるじにもちゃんとした魅力がある。

 まずなにより当然だが、食事がうまい。ただの白飯をとっても、僕がこれまでの人生で食べた中で断トツの一番だ。特に米の種類や炊き方についてこだわりがあるなどと謳ってはいないが、まず間違いなくこだわっているのだろう。ここではきっと、寡黙で無愛想な店主の性格が店にも出ているのだ。あえてこだわりを表に出さないのも好印象だ。そして食事処まるじの最大の特徴は、営業時間だ。店主ひとりで切り盛りしているというのに、ほぼ年中無休。店主の体調が崩れたときと、盆と正月に、それぞれ三日間ほどが数少ない休業日だ。朝、昼、夜の三つの時間帯での営業。朝は六時半から八時。昼は十一時半から十三時。夜は十八時から二十一時。各時間帯それぞれが短めの営業とはいえ、これだけ何度も店を開け閉めしていては纏まった休息も取りづらいだろう。店主の生活はそのほとんどを、食事処まるじの営業に費やしていたに違いない。


 僕が食事処まるじを利用するのは、ほとんどが朝の時間帯だった。東京の大学に通うために地方から出てきたはいいものの、大学近くは家賃が高く、現在は電車で片道一時間半もかかる郊外の安アパートに住んでいた。僕は講義をぎっしりとっている方だったので、ほぼ毎日一限から講義に出席していた。すると当然、朝は早く、食事の準備を自分でするのも面倒になる。そんな折にたまたま見つけたのが食事処まるじだった。

 食事処まるじの定食は朝・昼・夜とそれぞれ趣が違っており、朝はとにかく安いのが売りだ。ご飯に味噌汁、お新香、サラダや野菜の煮物などの小鉢、そして主菜として魚の切り身がついている。これだけそろって四百円だ。下手な男子大学生の自炊よりよほどコスパの高い栄養が採れていたはずである。正直、平日は毎日のように通うというのも抵抗があったが、周りを見渡す限り、多くの客が毎日のように通っている常連ばかりだったので、いつしか僕も気にならなくなった。こうして僕は、大学一年のゴールデンウィーク明けくらいから、大学三年の半ばくらいまで、平日は毎日、食事処まるじに通うようになったのだ。


 食事処まるじが店を構えているのは、不思議な立地だった。なんと四方を道に阻まれているのだ。店と、おそらく店主が住んでいる家とが一体となっている造りの建物だが、特別大きいというほどでもない。なのにどうして道路であの土地は隔離されているのだろうと僕は常々疑問に思っていた。だがある日、僕は偶然、店主からその理由を聞くことになる。


 ある日、僕は珍しく夜の営業時間に、食事処まるじを訪れた。その日、店内はいつもとは違う空気が流れていた。朝の時間の常連さんたちも一人も見当たらない。やっぱり時間帯によってだいぶ雰囲気が違うなあ、と、なんともなしに着席して、遅ればせながら、やけに騒がしい男がいることに気が付いた。

 朝の時間は基本的に朝定食しかメニューがない。ゆえに選びようもないのだけれど、夜は生姜焼き定食や焼き魚定食など、普通の定食らしい定食がいくつかある。だから本来ならあれこれと悩むところだが、僕は着席するなり「夜定食をお願いします」と声をあげた。店主の作るものがうまいのはすでに疑う気持ちすら湧かなかったし、ならば他の、名前だけで内容が解ってしまうものより、店主のおすすめするものを食べた方がいいという判断だった。その日はいつも通り朝も通っていて、朝定食と夜定食の違いを確認したかったという思いもある。おそらく夜定食も朝定食同様、日替わり定食だろうと踏んでいたからだ。

 注文を終え、セルフサービスのお茶を飲む。三つほど隣の席で、やはり男が騒いでいた。手持無沙汰で聞き耳をたてると、どうやら店主に怒鳴っている様子である。食事に対する文句。店構えに関する文句。店主に対する文句。よくもまあそんなに文句が浮かぶものだと感心するほどに、のべつ幕なし文句を並べていた。酒が入っているのか頬も赤い。だからこそあれだけ罵詈雑言が並べられるのだろうが、それにしても騒がしい。食べながら、ときおり煙草も吸いながら怒鳴っているのだから器用なものだった。見たところまだ若い。せいぜいが三十代前半だったろう。金髪が目を引く、ひょろりと座高の高い男だった。だが、男が文句を言っているのは、もともと寡黙な店主、完全に無視である。他の客もさわらぬ神に崇りなしの構えで、誰もなにも反応を返さないのに、男は飽きもせず騒ぐのだった。

 当然、そうなってくると、誰もがみな、気分も悪くなる。食事を手早く済ませ、そそくさと帰っていく。新たな来客も数人、入るなり顔をしかめて帰っていくありさまだ。もはや営業妨害である。そうこうして、僕が来たころには八割近く埋まっていた席も三割ほどまで減ったころ、その男は帰ろうとした。乱暴に椅子を引き立ち上がり、戸を壊すくらいの勢いで開けた。

 するとそこで他の客が、「ちょっとあんた!」と声をあげた。「お会計まだでしょう?」と続ける。

 食事処まるじは店主ひとりで切り盛りしている。ゆえに会計はカウンター越しで行うが、常連になると金を置いてさっさと帰っていく人もいる。だがしかし、たしかに、騒いでいた男は金を置いていないようである。

「ああ? うるせえよ。まずい飯に払う金なんぞねえ」

 男は相変わらずの悪態で、さも当然のように言い放った。彼がいろいろと言っていたことについては、僕も少しは考えたことがあるものが多かったが、「まずい飯」というところにはさすがに同意できかねた。とはいえ、まあ、感性は人それぞれだ。もちろん本当にまずかったからといって、金を払わなくていいわけではないのだが。そもそも残さず綺麗に食っておいてなにを言っているのやら。

 それから騒いでいた男と彼を引き留めた客が三往復ほど言葉を交わしたころ「いいよ、お客さん」と、店主が口を開いた。

「うちの飯がまずかったなら金はいらねえ。他の客の迷惑だ。とっとと帰んな」

 店主が短く低い声で言った。その威圧感に怯んだのか、男は舌打ちだけして、文句も言わず出て行った。帰り際にそばにあった椅子を蹴り飛ばす。そしてどうやらその椅子が、男を引き留めていた客に当たったらしかった。

「いたっ……。あいつ……」

 引き留めていた方のお客さんも舌打ちをして、食事も途中だったようだが、金を置いて急いで出て行った。男を追って行ったのだろう。引き留めていた客は見るからに優しそうな小太りで、やや禿げが目立つ、目の細いおっさんだったのだが、さすがに堪忍袋の緒が切れたのだろう。

「災難だったね」

 ふと僕に、店主が話しかけてきた。

「いえ、店主の方が災難だったでしょう?」

 僕が言うと、珍しく店主は口元を綻ばせた。

「これ、夜定食と、……こっちはサービスね」

 と言って、きんぴらごぼうの小鉢を出してくれた。

「ありがとうございます」

 遠慮してなにかを言っても、どうせ店主は無言で仕事に戻るだけだ。僕はありがたくいただくことにした。夜定食の内容としては、同日朝に食べた朝定食とはだいぶ違って、鶏肉と大根の煮物と刺身三種盛りがメインの定食だった。これで六百円である。安い。

 いつも通り米粒のひとつも残さず平らげた僕は会計をしようと厨房を見た。すると珍しいことに、この日の食後は、厨房に店主の姿が見当たらなかった。少しだけ待ってみたけれど、戻ってくる気配がなかったので、僕は「ごちそうさまでした」と言い、はじめてカウンターにお金を置いて、そのまま帰った。


 その日、最後の地方テレビのニュースで、身元不明の焼死体が発見されたと報じられた。場所は、食事処まるじの裏手の道だった。


 食事処まるじに向かって左手の道は、四方を囲む道路のうち、もっとも幅が狭く、車では通ることは難しい。事実、僕はその道を車が走る場面を目撃したことがない。ただ、毎朝きっかり六時に、食事処まるじの店主が、その道端に祀られているお稲荷様に油揚げをお供えしていることは知っていた。

 焼死体のニュースを見てから僕は、どうにもこらえきれない胸騒ぎを感じていた。位置的な問題。昨日あった食事処まるじでの騒動。どうしてもそれらを結びつけたがる僕がいた。だから僕は、よく眠れなかった眼を擦り、午前五時五十分に家を出た。今日に限っては世界が焦げ付いているかのような匂いに感じられた。

 僕が借りている部屋から食事処まるじまでは、せいぜいが五分といった道程だ。それでも僕は急く足を抑えきれず、結局は五時五十三分に到着した。長い長い七分間。僕はここまで来て、自分が店主になにを言おうとしているのかを理解していなかった。

 午前六時ちょうど。やはりいつも通り店主が、店の勝手口から出てきた。いつも店で出す皿とは違う、柄もなにもない真っ白い皿に、大きな油揚げを乗せている。僕が偶然、この光景を目撃してから、注意深く観察していたが、食事処まるじでは、一度も油揚げを使用したメニューを見ていなかった。まあ、だからどうだということもないが。これだけ通っていて、日替わりで出てくる定食に、一度も油揚げが登場しないのも不自然だ。煮物に入れることもあるだろう。味噌汁にだって入れたりするだろう。少なくとも、こうして毎日お供えをするために、店に常備しているはずなのだ。それなのに、一度も客に提供されていないとはどういうことだろう? 油揚げを供える店主の神妙な様子を見ていると、なにかあるのではないかと訝しんでしまう。

 油揚げを置き、厳かに手を合わせ、ゆっくりと時間をかけて崇める店主。ただ信心深いだけだと言われたとしても、僕の目には過剰に映った。やっぱり、なにかあるのだろうか? と。

 ふと、店主がお供えを終えて、立ち上がる。それからそそくさと、なにごともなかったかのように店に戻ろうとした。それを見てつい「すみません!」と僕は声をかけてしまう。店主は訝しげに僕を見て、やがて店内へ消えていった。無視されたのかとも思ったが、ややあって、店の正面の戸が開けられた。

「中で待ってるかい」

 と、言われたので、きっと開店前に早く来過ぎた客と思われたのだろう。僕は、「すみません」と内側にかかったままの暖簾をくぐった。

 適当なカウンター席に座る。珍しいことに店主自らお茶を出してくれた。少し驚いたが、どうやらまだセルフ用のお水とお茶が所定の位置に置かれていなかったので、そのためだったのだろう。

 僕はお茶を一口飲んで、切り出した。

「昨夜、そこで焼死体が発見されたみたいですね」

 僕は店主に向かって、ニュースで見た『そこ』を指差し、言った。店主は厨房で僕に背を向け、仕込みをしているようであったが、その手が一瞬止まる。だが、特に返答はなかった。

「昨日の、騒いでいたお客さん、よく来るんですか?」

 僕は話題を変えて言ってみる。だが、やはり返答はなかった。

「……あ、僕、昨日、お金置いて帰ったんですけど、ちゃんと足りてました? 少し待ってたんですけど、店主、厨房にいなかったみたいなんで」

「なにか話があるのかい?」

 ようやく店主が口を開いた。作業を終えたのか、僕の方に向き直る。

「いえ、ただの世間話ですよ。近場で起きた事件だから、気になってしまって」

「焼死体って言ったかい? この近くで? 悪いけど、最近はあまり、新聞に目が通せてないんだ」

「昨日の夜、見つかったみたいですよ。この店の、そのすぐ裏のあたりで」

 僕は改めて『そこ』を指差した。

「そうかい」

 店主は短く答えた。

 それから、また仕込みにでも戻るのかと思ったが、店主はただ黙って、僕を見つめていた。店主が悪い人ではないと僕は確信していたけれど、やはり見た目は少々怖い。僕はいまさらながら、店主になにかしらの疑いをかけている自分を認識して、引け目を感じた。

「おまえさん、このへんの生まれじゃないね」

 少しの沈黙を破って、店主が口を開くと、出てきたのは意図の読めない話題だった。

「ええ、まあ」

「じゃあ、ひとつ、このあたりに伝わる昔話でもしてやろう」

 言うと、店主は椅子に腰を降ろした。カウンターを挟んで、僕と顔を突き合わせる。

 急に昔話? と、僕は訝しんだが、きっと僕の意図をなにかしら感じ取って、それに関する話題を選んだのだろうと思ったので、黙って聞くことにした。そもそも、普段寡黙な店主が、意味もなく昔話などするはずもない。

「江戸の末期。この地域では夜な夜な、『とうかんび』と呼ばれる妖怪が出ると噂がたっていた。それは、真っ暗な道にゆらゆらと、火の玉が浮かんでいるような見た目だったらしい。その目撃情報を集めてみると、どうやら目撃されるのは、ちょうどいまの、そこの通りばかりだった」

 そこの通り、というのは、どうやらさきほど店主が油揚げを供えていた、お稲荷様がある道のようだ。「いまでこそ道が繋がってないが、当時はその先の田んぼも、さらに先の公園も、もっと先も、ちゃんと道が繋がってたらしい」。なるほど、つまりそこの通りの直線上で妖怪の目撃情報が多かった。そういう話らしい。

「そして、とうかんびが目撃され始めたころ、時を同じくして原因不明の火災や、それこそ焼死体などが多く見つかるようになった。そして、この二つの事件を結びつけて、調査した男がいた。男は好奇心と正義感から、夜な夜なその通りを散策するようになった。すでに町には妖怪の噂が広まっていたから、来る日も来る日も、夜中は誰も通らない。そして調査も七日が過ぎたころ、男はようやく、とうかんびを見ることになる」

 ここで少し、店主は言葉を溜めた。僕も緊迫した語りに気圧され、身じろぎもできていなかった。だからここで一度、乾き始めていた口を潤すため、お茶を飲む。

「男がまず見たのは、暗い人影だった。この夜中に明かりも灯していない。その人影は闇に紛れるように、道の隅を歩いていた。ただの通行人だと思った男は、『おい』と声をかけた。このあたりは妖怪が出ると噂で、危険だと、通行人に教えようとしたんだな。だが、通行人は声をかけられるなり、慌てて来た道を戻って行った。不審に思った男が通行人を追おうと、足を踏み出したとき。……急にその通行人の人影が光り、かと思うと勢いよく燃え上がった。男は慌てて駆け寄り、火を消したが、時すでに遅く、通行人は息を引き取った。……男は通行人に点いた火を消しながら、道の先にたしかに、ゆらゆらゆれる火の玉を見たそうだ。男いわく『あれはなにかの動物の尾に灯った炎だった』らしい」

 店主が言葉を切った。話の大筋は、だいたいそれで終わりだったが、少しだけ後日談があった。

「そのときに亡くなった通行人。そいつは当時、町を騒がせていた有名な泥棒だったらしい。それで男が思い返すに、一連の火災や人体発火事件はすべて、被害者が悪者だったのだと。それに気付いてからは男は、とうかんびが犯罪者だけを裁く良い妖怪だと判断し、そこに祠を建てた。そして毎日供え物をし、とうかんびを祀り上げるようになった。それからというもの、とうかんびの目撃はぱったりとなくなった。だが、その後も稀に、悪者への制裁は起き続けた」

 語り終えると店主は、両の膝をぱしんと叩き、少し息を吐いた。

「それで、そこの通りは道としてほとんど機能していないのに、残ってるんですね。とうかんびの祠が残っているから」

「まあ、そんなところだな。道としてある必要はないし、祠も絶対に必要ってほどじゃないんだがね。ただ、とうかんびが現れたそこの道は、室町時代には百鬼夜行が行われていたらしく、そのためにいまでも、立体的なもので『その道』を阻むのは倦厭されてる。祠も目印として置いてあるだけだから、そんな仰々しいものなんてなくても、とうかんびに感謝し、敬っていれば問題ない」

「……あの、店主ってもしかして、とうかんびに最初にお供えした――」

 僕が言いかけると、それを遮るように店主は立ち上がった。それからなにも言わず、さっきまでと同じように僕に背を向け、なにかの作業を再開した。

 珍しく店主が長話をするところが聞けて、僕も調子に乗ったのだろう。まだ朝の開店までには数分早かったが「朝定食、いいですか」と声をあげてみた。店主は作業を止め、顔だけ少し振り向き「朝定食ね」と言った。僕はなんだか嬉しくて、笑いながらお茶をすする。すると店主がおもむろに、

「価値観は人それぞれ違う。悪人だからと命を奪うのは正しい行いか。だからといって誰も裁かなければ被害は広がる。結局は誰もが、自分だけの正義に従って生きているんだ。……そして俺にとっての正義は、うちの飯を残さず食ってもらうことに尽きる。態度が悪かろうが、勘のいい餓鬼だろうがな」

 と言った。

 それを聞いて、笑んだ僕の頬はすぐに引き締まった。それから僕がなにを聞いても、店主はもう、答えなかった。


 どうにも後味の悪い思いを携えたまま店を出る。その日、僕は大学へ向かう準備をせずに食事処まるじを訪れていたので、一度帰った。ゆったりと準備を済ませ、再度出かける。時刻は午前八時過ぎだった。

 既視感に、顔をあげる。声こそ我慢したが、僕の挙動は不審だったかもしれない。

 そのときすれ違った男は、まごうことなく、昨日の夜、食事処まるじで騒いでいた金髪の男だった。僕の足は自然と、男を着けていた。

 僕はここにきてようやっと、自分の思考を整理し始めた。僕は昨夜の食事処まるじでの騒動と、見つかった焼死体のことを繋ぎ合わせて考えていた。あの日、僕が店を出るときには、店主の姿が見つからなかった。たしかに常連はカウンターにお金を置いて帰ることもある。だがだからといって、そうやすやすと厨房を離れたりしないだろう。少なくとも僕が記憶している限り、会計時に店主がいなかったことはない。だからもしかしたら、昨夜店で騒いだ男に内心怒っていた店主が、手を下したのではないかと考えていたのだ。

 店主はこの地域に伝わる妖怪の話をした。悪人を始末する良い妖怪だと。その話は『悪人は殺されても仕方がない』というような教訓のようにも聞こえる。つまりそれは、自分が犯した罪への言い訳なのかと考えていた。だが、こうも言った。「価値観は人それぞれ違う」、と。店で騒ぎ立て、罵詈雑言をまくしたてることは僕にとっては『悪』と言えるだろう。では、店主にとっては? 店主はいったい、なにを正義にしていると言っていた?

 僕が真相に気付くと同時に、男は目的地に到着したらしい。僕も、少し後ろで、顔をあげる。男の目的地は、食事処まるじだった。時刻を確認。午前八時十分。食事処まるじの朝営業が終わった直後だった。だが、男は、戸を開け、内側にかかった暖簾をくぐる。

 僕は食事処まるじの前に立ち、わずかに隙間を開けたままの戸へ顔を近付けた。どうやらもうお客さんはいない様子である。そして男が、店内で土下座をしていた。昨夜と同じような騒がしさで、謝罪の言葉を述べている。

 僕は覗き見るのをやめ、戸の横の外壁にもたれた。これでも声は十分聞き取れる。

 男の謝罪がひとしきり止んだあと、「まあ、座りなよ」と店主の声。椅子を引く音。男も言われたとおりに座ったようである。

「それで、これからどうするんだい」

「取り返しのつかないことをしてしまいました。……これから、自首します。……それで最後にわがままなお願いなんですけど、どうしてもここの飯が食いたくて」

「それは構わないが、……あれは事故だよ。気にするこたあない」

「いや、……でも」

「……最近のもんは、いつも忙しねえ。買い出しに町を歩いていても、どいつもこいつも急いでやがる。そんなに生き急いでどうすんだ。せめて飯食う時くらい、ゆっくり食えってんだ。……悲しいことにな、年々飯を残す輩が増えてんだ。とうかんびの火も、もう追いつかないかもな」

「とうかんび……」

「ああ、そうだ。昨日のあれは、とうかんびの仕業だ。おまえさんが気に病むこともない。俺も見てた。警察にも知り合いが何人かいる、口を利いてやろう。なんなら俺が一緒に行ってもいい」

「そんな、そこまでお世話になるわけにはいかないです。昨日のこと、黙っていてくれただけでも感謝しなきゃいけないのに。しかも、あんなに暴言を吐いたのに」

「いいんだよ。おまえさん、うちの飯、綺麗に食ってくれたろ。いくら言葉が汚くても、そういうやつを俺は信用してる。現におまえさん、こうやって謝りに来たじゃねえか」

「そんな……」

「まあ、ともあれ。飯作ってやるよ。続きは食ってからだ」

 ここまで聞いて、僕は聞き耳をたてるのをやめた。腹の奥底から、なにかがあがってくる気がして、その日は大学をサボり、帰って寝た。

 そしてその翌日から、大学を卒業するまでの一年と少しの期間、僕は朝食に困ることになるのだった。


 あれから十年が経った。僕は昔からの夢を叶え、警察官になっていた。そして、ふと、あのときのことを思い出したのだ。

 いちおう調べてみたけれど、やっぱりいまでもあの町では、原因不明の火災や焼死体がときおり見つかるらしい。データとして見れば一目瞭然だ。あの町でいまだに起きているこの怪現象は、統計的にありえない数字を叩き出していた



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