血と水

村雨雅鬼

追跡

女は砂の上に倒れた。どのみち、これ以上進めるはずもなかった。裸足で駆けてきたため、足の裏全体が深く浅く抉られている。痩せ衰えたふくらはぎには矢が深く刺さり、間もなく血液の流れに乗って、全身に麻酔毒が回るはずだ。

追手は三人だった。底の厚い白銀のブーツを履き、眩しさと紫外線から目を守るゴーグルをしている。うち一人が女のすぐ横まで歩いてきて、低く問うた。

「子どもはどこだ」

女はしゃくりあげるばかりで答えない。聞いた追手がゴーグルを上げ、フードを脱ぐと、短く刈り込んだ銀髪と、鋭い光を湛えた青い目が現れた。手首には、その立場と責務を示すサフィール文字の刺青がほどこされている。

「ナハール、シュラグエン、子どもを追え」

その追っ手、イェルガが短く命令すると、残り二人の追手はガラスの砂を踏み分け、鉄の木々の合間に急いで走り去った。

地下に戻れば、他にも数十人の訓練生がいる。このうち、一体どれだけがサナークに昇格出来るのか。ナハールの運命は来年の今頃には決まっている。シュラグエンは、イェルガがとりわけ目をかけている子どもの一人だったが、最終選抜はまだ先であり、また狩人としての適性が高いわけではなく、今日はナハールの手伝いとして付いてきたに過ぎなかった。

苛烈な追跡者である以上に優れた教育者でもあったイェルガは、自分は後を追わずに、女のそばに残った。この母体の他に、合計三体の子どもが脱走し、うち二体は既に回収していたが、イェルガはどれにも興味はなかった。今まで研究所内で生まれた子どものように、異なる遺伝系統はうまく調和せず、数年もすれば多臓器不全を起こして死ぬだろうからだ。

「私の子・・・私の子だけは見逃して・・・」

自分は逃げきれないと悟り、女は泣いていた。イェルガは嫌悪の眼差しで女を見下ろした。女の腹の中で胎児を養育し、極めてリスクが高く痛みを伴うプロセスを経て産み落とすという原始的でおぞましいシステムを、テラの人間たちはいまだに踏襲している。結果、不具合の多い個体や変異種が溢れ、争いの耐えぬ幾重にも分断された脆弱な社会を生み出している。更に不可解なのは、テラの人間たちが、交配も出産もコントロールしないでおきながら、家族という単位に固執し、不毛な内輪揉めを繰り返すだけでなく、その外部では血統がやや異なるだけの自らの眷属さえ迫害し、殺し合うことだ。

「なぜ、こだわる」

「私が・・・お腹を痛めて産んだ子ども・・・だもの・・・」

「お前の腹から出てきた。それだけに過ぎない。臍の緒さえ切り落としてしまえば、お前など関係なく育つ。その子どもとて、中途半端に人間の要素を持った化け物だ。なぜ愛着を覚える」

妊娠から出産に至る道のりがあまりに長く、苦痛に満ちているからか。先払いした代償が大きければ大きいほど、人間は手に入れたものに執着する。そうだとすれば、テラの人間が愛情と呼ぶものはうわべだけ美しく飾った独占欲でしかない。本人の意思とは関係なく産み落とされた子どもを理不尽な感情の鎖で雁字搦めにすることを、自己中心的と言わずしてなんと言うのか。男は出産の重荷を女に押し付け、女は出産という既得権益にしがみつく。そうしてテラの社会はいつまでも進化することなく、負の連鎖を延々と紡いでいる。

「あなたたちに・・・わかるわけが・・・ない・・・」

女が絞り出した一言は、強くイェルガの好奇心と自尊心を打った。

「ならば、お前に何がわかると言うのか。血はなぜ水に勝るのか、言ってみろ」

問い詰めた時には既に、女はエリクサーの禁断症状の典型である意識混迷の様相を呈し、途切れ途切れに歌を口ずさんでいた。ここまでくれば、反抗や逃亡の恐れは皆無だ。イェルガは振り返り、太陽の南中と共に高温で溶け出し、うねるガラスの海を見た。ナハークはまだ戻ってこないが、そろそろ撤退せねばならない。もし子どもが同じポータルを通り、海を超えていなければ、ここで死ぬ。子どもが死んだと伝えれば、女は悲しむだろうか?

そこでイェルガは不意に、女の歌っているメロディが何か思い当たった。子守唄だ。まだ若かった時分に、師と共にヨーカの首長の家を訪れたとき、首長の娘が乳飲み子をあやしながら口ずさんでいた。サフィールは音楽を好む種族であり、彼女もまた例外ではなく、物悲しいメロディに心惹かれ、そばにいた人間になんの曲か尋ねたのだ。当時はヨーカの言葉にあまり堪能でなかったイェルガは、歌詞を聞き取ることはできなかったが、曲調は新たな生命を祝福するにはあまりにも暗く、むしろ人生に待ち受ける幾多の苦難を憐れむようにも聞こえた。

それからヨーカには何回も行った。悲惨なものだった。先天性の異常を抱え、親の無知無理解から適切な治療すら施されぬまま、民家の一室に閉じ込められ、陽の目も見ずに一生を終える子を見たことがある。親を殺す子も、子を捨てた親も見た。

我々はそうした歪みを乗り越えてきたのだ。サフィールの羊水から生まれた以上、我々は皆親子であり、兄弟だ。血の繋がりという理不尽な軛を負わされることもなく、親を失ったり、親から見捨てられたために、路頭に迷うこともない。

「イェルガ、見つかりませんでした」

戻ってきたナハークが、青い目を神経質に瞬かせ、悔しさも顕に報告した。女が囮になり、子どもは違うポータルから逃がしたのだろうか?だとすれば、他の追手が見つけるだろう。とてもではないが、海を越えて逃げたとは考えにくい。サフィールに離反者でもいない限り。微々たる成功の可能性と、自分が犯している危険とを秤にかけられないほど、母親というものは愚かなのだろうか?お前はなぜ歌うのだ?

「急げ、地下に戻る」

融解したガラスの海が噴き上げる熱気は、今やイェルガたちのもとにも届いていた。踵を返すと、少年たちが女を担ぎあげて小走りについてきた。女の歌は耳の奥でまだ低く渦巻いていた。

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血と水 村雨雅鬼 @masaki_murasame

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