第3話
西郷隆盛
1
島田は鹿児島市内のホテルに荷物を預け、そのまま薩摩半島突端の山川港へ向かった。
島津久光の逆鱗に触れ、奄美へ遠島になるまでの間、船中に監禁されていた西郷隆盛が、田中河内介の訃報を受けた地を一目見ておきたかったからである。
山川湾はおよそ五千年前の火山噴火によってできたカルデラであり、山川港は古くから拠点港として利用されてきた天然の良港である。幕末においては、モリソン号事件の舞台の一つにもなった。
風光明媚な湾であったが、第二次大戦後は遠洋漁業の基地として栄え、東部が埋め立てられ、水産加工団地が作られたため、古の姿を偲ぶよすは失われてしまっている。
西郷が山川に到着したのが文久二年というから一八六二年の四月十六日のことであった。それから六月十一日までの間というから、実に二か月弱、西郷は船中に閉じ込められていた。
島田は、しばらくの間、散策した後、西郷が河内介の訃報に接した時の様子を想像しながら、徳富蘇峰と海音寺潮五郎の文章をiPadで読みたいと思ったが、Wifiが繋がらないのであきらめ、鹿児島への帰路に着いた。
ホテルに着くと早速、グーグル・ドキュメントに保存している徳富蘇峰と海音寺潮五郎の作品の関連箇所を拾い読みした。
蘇峰は西郷が木場傳内に宛てた書簡から
田中河内介と申すは、中山家の諸大夫にて、京師において有名の人に御座候。(中略)船中にて私かに隠然と父子三人(二人)外に浪士三人、都合六人殺され候由。(中略)私かに天朝の人を殺され候儀、実に意恨のことに御座候。もふは勤王の二字相唱へ候儀、出来申すまじく、此儀を若し哉朝廷より御問い掛け相成り候はば、如何御答相成り候ものに御座候哉、頓と是限りの芝居にて御座候。もふは見物人もこれ有るまじくと相考へ申し候。
と引用し、
西郷も当時は孤島幽囚の身にて、その文句はあまりに悲観に過ぎるているが、とにもかくにも薩人が田中河内介らを殺したる一事は、何ら弁護の余地はない。これは事としては不智であり、業としては不仁である。しかしてこの失策は、長く薩は藩に祟りをなした。
と締めくくっている。
また、海音寺は、「寺田屋騒動の報が西郷の許に届いたのは、まだ山川港の鰹船の中で、処分の言渡しを待っている時であった。西郷はおどろき、いきどおった」という文章に続けて、木場傳内に宛てた書簡から蘇峰が引用した箇所を現代語風に直して引用した後で、「と、涙をこぼした」と書いている。
時計を見ると、まだ五時にもなっていない。昨夜は、寝たのかどうかも定かでなく、いささか疲れが残っているようなので、一時間でもと思い、ベッドに横になった。
目が覚めて、カーテンを開けると外は真っ暗である。時計は八時過ぎを指している。
食事にでも出ようと思って机の上を見ると、メモが置かれている。
八階のスナックでお待ちしております
と書かれている。
ところが、手にとって書かれている内容を確認した途端に文字が消えた。
不審に思ってフロントに電話で確かめると、お客様がご入室されましてから誰も出入りはしておりません、と応える。現にメモが置いてあるんだ、と言うと、マネージャーがやてきて、詫びを入れたが、文字の消えたメモを見ながら、おかしいですね、こんなメモ用紙見たことがございません、よほど古い和紙のように見えますが、たしかに文字が書かれていたのでございましょうか・・・・それにいたしましても、当ホテルのセキュリティは水も漏らさぬほどの完璧さを誇っておりますので、誰かが入るなどということなど、百パーセント不可能でございます、入室されてすぐにお休みになられたということですから、お疲れだったのでございましょう、また、もし、不審なことがございましたら、ご一報ください、と言って引き返した。老人ボケか何かと思われたらしい。
致し方なく、島田は、八階へ上がった。
スナックへ入った途端に空腹であることに気づき、なんでもいいから、早くできるもので腹持ちがよいものを作ってくれと注文し、テーブル席を見渡すと、一つだけ埋まっているテーブルがあり、男女の二人連れが掛けている。他に客はいないので、その二人を見つめると、目顔で挨拶をし、手招きをする。近寄ると、大阪で喜助とお元と名乗った二人であった。船上とは違って現代人と同じなりをしている。
「お呼びだてして申し訳ございませんでした」
「いえ、昨日から、悪い夢を見ているようで」
「山川港はいかがでございましたかしら?」
「えっ、どうしてご存じで!?」
「わたくしども死霊は神出鬼没でございますのよ」
「先程は勝手にお部屋に入らせていただきまして、大変失礼いたしました、驚かれましたでしょう、それに、マネージャーに妙な勘ぐりをさせてしまい、失礼いたしました、さぞかしご憤慨のことでしょう、お詫び申し上げます」
「やはり、あなた方でしたか、そうではないかとは思ったのですが、常人のマネージャーに言うと、それこそキ印かと思われかねませんので申さずにおりました」
「それはお気を遣わせて申し訳ございません」
「料理が出てまいりましたので、ちょっと失礼します、何しろ昼から何も食べておりませんので。耳は空いておりますのでどうぞお続けください」
「では、遠慮のう、と申し上げたいところですが、急ぐわけでもございませんので、お待ちします。どうぞごゆっくりお召し上がりください」
見ると、二人の前には何も置かれていない。何か言おうとすると
「ご心配なく、わたくしどもは人の目には見えません、見えているのは島田様だけでございます、ここで三人が話している声も、周りの者の耳には聞こえておりません、どうぞ、お気になさらず」
三人連れの客が入ってきたが、島田は気にすることもなく、ワインをグラスに注いで飲み続けた。すると、
「そのような、血のような色をしたお飲み物が美味しいのでございますか? わたくしどもには、気味が悪くて飲む気にはなれませんけれど、ねえ、喜助さん」
「葡萄から作ったワインという酒で、美味しいんですよ、この色は、葡萄の皮の色です」
「そういえば、お元、先生が、西国に行った折に血のような酒を飲んだが、酸っぱくて美味しかったぞ、と仰ってたような気がするのう」
「さて、島田様、今日、山川へお出でになったのは、西郷様に関わることでしょうかしら」
「はい、そうです、実は、わたしは河内介が西郷に会っておれば、あのようなことにはならなかったのではないかと思っておりまして、それが残念でならないのです。山川へ行ったところで何がわかるわけでもありませんが、西郷が留め置かれていた場所を確認しておきたかったのです」
「使用人風情がこのようなことを申すのもなんでございますが、わたくしも、臥竜先生がもし西郷にお会いになる機会があったならば、少なくともあのようなことにはならなかったと思いますし、歴史が大きく変わっていたのではないかと思います」
「その通りでしょうね。久光は二人が出会うことを恐れていたのではないかという気がします。天朝の側の人間でもある河内介と人を動かす力のある西郷が手を結べば、自分の出る幕がなくなる、そういう恐れを抱いていたのではないでしょうか。だから、薩摩藩の勤王史上最も恥ずべき汚辱行為を働いた上に、藩をあげて隠蔽工作に走らざるを得なかった」
「それはありえますね。藩を挙げての隠蔽工作にもかかわらず、宮中の宴の席で、明治天皇が、幼いころ世話になった田中河内介を懐かしんで、「最近、河内介の姿を見ないが、どうしておる」と発言なさったおり、しーんと静まり返った中で、小河一敏が「あいつの手で殺されました」と言いながら、大久保利通を指差した。それ以降、天皇が河内介のことを話題にされることはなかった、という話が伝わっております」
「そして、明治十一年五月十四日に、大久保が紀尾井坂で暗殺されたときに、河内介の怨霊じゃ、という噂が駆け巡りました」
「喜助さん、わたしたちと違って、島田様は生身のお体です、今日は、お疲れでしょうから、明日もあることですし、今宵はこのあたりで解放して差し上げてはいかがです」
2
翌朝、島田は、市内の西郷と大久保の銅像を訪れた。
西郷の像は、一九三七年という軍国主義酣の時代に作られたからだろうか、上野の像は違って、軍服を着ており、犬は連れていない。早朝であったせいか人影はまばらだったが、市内観光の人気スポットの一つである。
顔は、上野のものと同じだが、上野の銅像の除幕式に招待された妻の糸が、「こげなお人ではなか!」と言ったと伝えられている。有名な西郷隆盛の肖像画は、西郷の死後来日しているので、当然のことながら西郷を見たこともないイタリア人画家エドアルド・キヨソネが、弟の西郷従道といとこの大山巌の顔を合成して描いたものである。西郷が写真嫌いだったので、写真、肖像は一枚もないと言われているが、この点に関し、島田は疑問をいだいている。明治天皇に写真を所望された時や、大久保がアメリカから自分の写真を送ってきた時の返事などから、西郷が写真嫌いであったことは確かであろうが、一枚も移していないのではなく、一枚も残っていないだけなのではなかろうかと思っている。
四五十年前になるが、岡山大学の図書館で西郷の写真が見つかり、伝えられているような巨漢ではなく小柄な人物である、という新聞記事を読んだ記憶がある。その後、その写真の真偽をめぐるニュースに接した覚えはないが、最近、新たに西郷が写っていると言われる集合写真が見つかり、書籍やネット上で公開されているところをみると、薩長を中心にした明治政府が、西郷の死後、西郷を慕う反乱分子が再結集するのを恐れ、意図的に写真や肖像のたぐいを隠滅したのではないかと島田は思っている。
一方の、冷血漢としてのイメージが定着しているかに見える大久保の像のまわりには、島田以外、人影はなかった。生誕の地、鹿児島に西郷像だけというのも寂しいというので、没後一〇〇年を記念して一九七九年に作られたものであるが、フロックコート姿の銅像の除幕式に大久保の子孫の姿はなかったという。
「おはようございます、大久保は人気がありませんね」
声のした方を見ると、喜助である。
「最後まで薩摩人であり続けた西郷と、そうでなかった大久保の違いでしょうか。大久保はいつも西郷からの手紙を懐に忍ばせていたと言われていますし、わたしとしては、大久保が、人間として、心の底から、冷血だったとは思いたくない気がします、・・・・地位がなせるわざだったのかと」
「そうかもしれませんね、情の人と理の人の違いでしょうか」
「今日は、これから、どちらへ参られますのでしょう」
「はい、今回の鹿児島詣での目的は河内介の代わりに鹿児島の地を踏むことにありましたから、もう、後は、お決まりの城山巡りをしてから熊本へ足を伸ばし、明日、熊本城と田原坂を巡ってみようかと思っています」
臥竜窟の男 青井栄 @septimius
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。臥竜窟の男の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます