つまばなし

 どうしてだろう。みつえは思う。

 ただ、マグカップが欠けただけなのに。

 ただのマグカップだったのに。

 物なんていつかは壊れるものなのに。

 なのに、口も聞いてもらえなくなった。あーあ、なんて面倒なんだ。それに、口は聞かないのに夫が美味しいものを作りまくるせいで、今年の正月以上に太ってしまった。いったい、何が気に食わないのだろう。


「それ、お義姉ねえちゃんが悪いでしょ」

 旦那の妹に相談したが、あっけなく切り捨てられた。

 カフェテリアのテラス席の、木々のこもれび、さりげない鳥のさえずり、当たり前の風景がいつもと違って見える。当たり前の風景をずいぶんと見ていないからだ。みつえは職場の暖房と外の寒風を感じ比べて、そう思った。

「桃ちゃんならそう言うと思ってたけどね」

 みつえは、はあ、とため息を吐いて、つぶやいた。

「けど、マグカップだよ。百均とかで買った安いの」

「それでもお兄ちゃんそういうの怒るよ。一応聞いとくけど、……わざとじゃないよね」

 みつえは気まずそうに目をそらす。それから、義妹のほうを見なかった。

「ちょーっと、夫婦喧嘩でね……」

 このときのカフェのイスは居心地が悪かった。小声でみつえは続ける。

「ちょっとテーブルの角に叩きつけちゃったの」

 義妹は呆れたと書いた顔で、「なんだ」と言った。

「やっぱりお義姉ちゃんが悪いんじゃん」

「だよねー」

「自分でもわかってるならあたしを呼び出さないでよね」

 義妹はブラックのコーヒーを飲み干して、音を立てずにコーヒーカップをソーサーに置いた。こうやれば、マグカップは欠けなかったと改めて思う。


 怒りの衝動に身を任せるんじゃなかった。みつえはつまらない後悔が頭に残ったまま、家への道を歩いた。

 道を歩くと、今まで見えていたはずの見えていなかったものが見えた。あのアパートの部屋に赤ん坊が産まれたんだなとか、あの家は笑い声が絶えないなとか。つまらない何気ないものがよく見えて、「おかえり」の待つ家にとっても帰りたくなった。

 それで、すねた夫の顔が頭に浮かんで、ただでは帰りたくなくなった。夫の好きな食べ物、飲み物、テレビ番組……そんなものばかりが思い出されて、自分が好きでもないものを買って帰ろうという気になってきた。

 夫の好きなものは不思議と安いものが多くて、夫から使いすぎるからと減らされたこづかいでも買えるものばかりだったから、目についたものをとりあえず買い物かごに入れていきそうだった。買っていったものを見た夫のダイエットに失敗したデブを見るような目をついでに思い出して、少し考えた。

 業務用のバニラアイスクリーム。家にまだ残っている。

 直売所で売っている桜井さんの手作り梅干し。家にまだある。

 同じく桜井さん手作りの梅シロップ。家にまだあった。

 夫が好きだからと買い込んだ食べ物や飲み物が家に大量に残っていて、おまけに私が好きだからと買い込んだのも山のようにある。

 さて、どうしたものか。

 そんな中、ふっと目についたものがある。あの割ったマグカップによく似たマグカップだ。割ってしまったマグカップは夫のもので、同棲を始めたころに買ったものだった。そういえば、あれはみつえが初任給で夫に買ってやったものだった。

 みつえはそのマグカップを棚に戻して、何も買わずに家に帰った。


「ごめんね、あたし忘れてたや」

 そっぽを向いて、夫は言う。

「別にいい。今日の晩酌のときに酒でも注いでくれりゃそれでいい」

 下戸なのにそう言って、ほっそりした背中をみつえに向けて夕飯を作っていた。しょうゆと出汁とみそのにおいが家中に漂う。そんな、やせっぽちで無精ひげを生やした白馬の王子様じゃない夫は、みつえにとって、一番の人だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

めおとばなし ヤチヨリコ @ricoyachiyo0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説